第十八話「奪われた色彩」
東京の街は、いつもなら鮮やかな色彩に満ちている。しかし、今日の空は鉛色に淀み、街全体がモノクロームの絵画のように見えた。
バー『RETRIEVER』のドアベルが、微かな音を立てた。現れたのは、有名なファッションデザイナー、アリス・クロフォード。彼女の顔は蒼白で、まるで生気が失われたかのようだった。
「私の……『色彩』が、奪われた」
アリスは震える声で言った。彼女の目には、世界が灰色にしか見えないという。それは単なる色覚異常ではなかった。彼女がデザインした服も、彼女が描いたスケッチも、全ての色彩が失われ、無機質なモノクロになってしまっていたのだ。
悠真が、アリスからの依頼内容を詩音と咲に説明する。
「今回の依頼は、デザイナーの色彩を取り戻すことだ。被害者は、アリス・クロフォード」
詩音は黙ってレミントンM700の整備を始めた。その手つきは、いつものように冷静だ。
「色彩を奪う異能者……。そんな敵、初めてだね」
咲が、少し不安そうな顔で言った。
結人が、ホログラムで情報を提示する。
「犯人は、色彩を操作する異能者、『カメレオン』と呼ばれている人物だ。彼の異能は、特定の対象から色彩を吸収し、それを自身のカモフラージュや攻撃に利用する。アリス・クロフォードのように、色彩を扱う人間を狙って、その能力を奪っている」
「色彩を奪って、どうするつもりなんだろう?」
咲が問う。
「そこは不明だ。だが、被害者は皆、精神的な混乱に陥り、自らの創造性を失っている。彼らは、色彩のない世界で、深い絶望に囚われている」
結人の言葉に、詩音は黙ってレミントンM700を手に取った。
「非殺傷でいく。色彩を奪う異能者相手に、見えない敵を制圧する」
「見えない敵……か」
咲は頷いた。
「今回の敵は、その異能の特性上、視覚的なカモフラージュによって姿を隠す可能性が高い。咲と詩音、二人でいけるか?」
悠真がそう指示を出すと、二人は静かに頷いた。
東京の街をモノクロームに塗り替える異様な雰囲気の中、詩音と咲は、カメレオンのアジト、廃墟と化した美術館を遠くから見つめていた。
「ねぇ、詩音。本当に全部灰色だね。なんだか、映画みたい」
咲が、小声でつぶやいた。
「ええ。この異能者は、色彩を奪うだけじゃなくて、視覚全体に干渉してくるみたいね。気をつけないと」
詩音はそう言って、美術館から数キロ離れた高層ビルの屋上に隠れた。彼女はレミントンM700の特殊な熱源感知スコープと、音波探知機能を使い、周囲の状況を把握しようとする。
「私はここで、咲の援護をする。咲、美術館内部は、カメレオンの異能によって色彩が完全に消失している。彼の姿は、周囲の風景に溶け込み、視認が極めて困難だ」
詩音の声がインカム越しに響く。
「了解。視覚に頼るな、ということだね」
咲はそう返すと、静かに美術館の敷地へと足を踏み入れた。
敷地に入ると、すぐに奇妙な感覚に襲われた。周囲の全ての色彩が、まるで絵の具を洗い流されたかのように、完全に消失したのだ。咲は自身の視覚に頼らず、代わりに聴覚で捉える微かな音、皮膚で感じる空気の振動、そして足の裏で感じる地面の僅かな傾斜に集中した。
(色彩がないと、こんなにも世界は情報量が少ないのか)
彼女のCQCと合気道は、相手の動きを目で捉え、予測する能力に大きく依存する。しかし、今はその全てが遮断されている。
美術館の正面玄関には、屈強な男が警備にあたっていた。彼は迷彩服を着用し、周囲のモノクロームの風景に溶け込んでいるようだった。
(迷彩服を着ていても、全部灰色なのにね。やっぱり、音を立てるな、ってことかな)
咲は男の姿が見えない中で、彼の呼吸音や足音からその位置を特定する。男が巡回ルートの角を曲がった瞬間、咲は物音一つ立てずに接近した。CQCの**「ステルスアプローチ」**。彼女の足音は、まるで幻のように地面に吸い込まれていく。
男が振り返る寸前、咲は彼の首筋に手刀を叩き込んだ。完璧な一撃で、男は音もなくその場に倒れ伏す。
「警備員、一人無力化。視認はできなかったが、音で位置を特定した」
咲の報告に、詩音が小さく息を吐いた。
「さすが、咲だわ。その冷静さ、見習わないと」
「ありがとう、詩音。でも、これも詩音の指示があったからだよ。お互い様だよ」
咲はそう言いながら、美術館の内部へと足を踏み入れた。
美術館内部は、さらに不気味なモノクロームの世界に包まれていた。廊下にはいくつもの展示室があり、どこからか気配が漂ってくる。
「咲、メインギャラリー。そこにカメレオンがいる」
詩音の指示がインカム越しに響く。
「どうして分かったの?」
咲が尋ねる。
「レミントンM700のスコープ越しに、特殊な熱源感知機能を使用しているの。カメレオンの異能は色彩を消すことだけど、彼自身の体温までは消せない。私は、その微かな熱源を捉え、カメレオンの位置を特定した」
「なるほど、詩音はすごいね。なんでも知ってる」
「……ありがとう。でも、咲のCQCの方がよっぽどすごいわ。私はただ、見つけて、撃つだけだもの」
詩音はそう言って、メインギャラリーへと向かう咲の背中を見つめた。
メインギャラリーに辿り着くと、そこは広大な空間だった。壁には、かつて名画が飾られていたであろう額縁がいくつも並んでいるが、絵画は全て灰色に染まっていた。
その空間の中央に、痩身の男が立っていた。彼こそが『カメレオン』。彼は周囲のモノクロームの風景に完全に溶け込み、まるでそこに存在しないかのように見えた。
「ようこそ、奪還屋。ここは私の創造した、完璧な無色の世界だ」
カメレオンの声は、どこからともなく響いてくる。彼の異能が、周囲の光の波長に干渉し、視覚そのものに錯覚を起こさせているのだ。
咲は、カメレオンに向かって静かに歩み寄る。カメレオンは、咲の接近を察知しているようだったが、微動だにしなかった。彼は、自身の能力を過信している。
咲が間合いに入った瞬間、カメレオンの姿が、まるで蜃気楼のように揺らめいた。そして、彼の周囲の空間が、突然、歪んだように見えた。
(これは……光の屈折を操作して、空間そのものを歪ませているのか!)
咲はすぐにカメレオンの能力の本質を見抜いた。色彩を「消す」だけでなく、「光の波長を操作する」ことで、周囲の物理法則に干渉しているのだ。
しかし、咲は焦らない。彼女は、歪んだ空間の中で、CQCの**「予測不能な動き」と合気道の「重心移動」**を組み合わせ、ゆっくりと、しかし確実にカメレオンとの距離を詰めていく。通常の動きでは視覚に惑わされるため、あえて不自然なほどゆっくりと、だが無駄のない動きで彼の懐に入り込んだ。
「詩音、彼の異能、光の屈折を操作している! 視覚情報が当てにならない!」
咲の報告に、詩音は即座に反応した。
「了解。レミントンM700、特殊弾装填。非可視光線誘導弾」
詩音は、レミントンM700のスコープ越しにカメレオンの熱源を狙い定めた。彼女の指が、静かにトリガーを引く。
ドスッ!
レミントンM700から放たれた特殊なゴム弾は、弾頭部に非可視光線誘導装置を内蔵していた。弾丸はカメレオンの肩を正確に打ち抜き、同時に弾頭部から人間には知覚できない特殊な光の波長を発生させる。
カメレオンは、異能の干渉を受け、目を見開いた。彼の周囲の空間の歪みが、一瞬だけ正常に戻る。
「今よ、咲!」
詩音がインカム越しに叫んだ。
その隙を突き、咲はカメレオンの腕を掴み、合気道の**「小手返し」で彼の体のバランスを崩す。そして、そのまま彼の側頭部にCQCの「ピンポイント打撃」**を叩き込み、彼を無力化した。
「ターゲット、無力化」
咲の報告と共に、部屋の中に、微かな色彩が戻り始めた。
「よかった、見える!」
咲は、安堵の表情を浮かべた。そして、遠くで、絵画の鮮やかな色が、ゆっくりと蘇り始めたのだ。
任務を終え、バー『RETRIEVER』に戻った二人を、アリス・クロフォードが待っていた。彼女の顔には、安堵と感謝の表情が浮かんでいる。
「私の……私の色が、戻った!世界が、再び私に語りかけてくれる!」
アリスは涙を流しながら、咲と詩音の手を握り締めた。
「本当に、ありがとうございます。あなたたちが、私の創造性を取り戻してくれた!」
「私たちの仕事だ」
咲はいつものように淡々と答えた。
詩音は、アリスの目を見つめ、静かに言った。
「色彩は、世界とあなたを繋ぐ光。それを失うことは、世界から孤立することに等しい。もう二度と、その色彩を失わないで」
アリスは深く頷いた。
東京の街は、再び鮮やかな色彩を取り戻していた。
「色彩がない世界は、味気ないね」
咲が呟いた。
「ええ。でも、その無色の中でこそ、微かな色彩の価値が分かることもある」
詩音は、遠くで輝くネオンサインを見上げながら言った。
「うん、そうだね。ネオンサインって、こんなに綺麗なんだね」
咲はそう言って微笑んだ。二人の「奪還屋」は、今日もまた、見えない喪失と戦い、静かに、そして確実に、人々の「色彩」を取り戻していく。