第十六話「奪われた記憶」
東京の街は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。しかし、その喧騒の裏側で、静かに「喪失」が進行していた。
バー『RETRIEVER』のドアベルが、微かな音を立てた。現れたのは、憔悴しきった様子の老夫婦だった。彼らの顔には、深い悲しみと困惑が刻まれている。
「私たちの……『記憶』が、奪われた」
老夫婦は震える声で言った。彼らは、長年連れ添った夫婦だが、数日前から、お互いの顔を見ても、相手が誰なのか思い出せなくなってしまったという。それは単なる認知症ではなかった。彼らの人生を彩るはずだった思い出の数々が、まるで白紙になったかのように、完全に消え去ってしまったのだ。
如月結人が、ホログラムで情報を提示する。
「犯人は、記憶を操作する異能者、『アムネジア』と呼ばれている人物だ。彼の異能は、特定の対象から記憶を吸収し、それを自身のカモフラージュや攻撃に利用する。この老夫婦のように、深い絆で結ばれた人間を狙って、その能力を奪っている」
「記憶を奪って、どうするつもりだ?」咲が問う。
「不明だ。だが、被害者は皆、精神的な苦痛に苛まれている。彼らは、自らの存在意義を失ったかのように、深い絶望に囚われている」
詩音は、黙ってレミントンM700を手に取った。
「非殺傷でいく。記憶を奪う異能者相手に、精神的な攻撃を制圧する」
「精神的な攻撃……か」咲は頷いた。今回の敵は、その異能の特性上、精神的な揺さぶりをかけてくる可能性が高かった。
アムネジアのアジトは、都心から離れた廃墟と化した病院だった。かつては多くの命が救われた場所だが、今はその全てが、記憶を失った人々の悲鳴が響く場所となっているという。
「咲、病院内部は、アムネジアの異能によって、過去の記憶が具現化された幻影が多数存在する。それらは、ターゲットの精神を揺さぶるために利用される」詩音の声がインカム越しに響く。彼女は病院から数キロ離れた高層ビルの屋上から、レミントンM700の特殊な脳波感知スコープと、精神波探知機能を使い、周囲の状況を把握していた。
「了解。精神的な揺さぶりに、惑わされるな、ということだな」
咲はそう返すと、静かに病院の敷地へと足を踏み入れた。
敷地に入ると、すぐに奇妙な感覚に襲われた。周囲の全ての風景が、まるで過去の記憶の断片のように、次々と目の前に現れては消えていくのだ。咲の目の前には、彼女自身の過去の記憶、例えば、両親との幸せな時間、あるいは『奪還屋』として初めて任務を成功させた時の光景などが、幻影として現れた。
(これは……私の記憶を読み取って、幻影として見せているのか!)
咲は自身の精神的な揺さぶりに耐え、代わりに皮膚で感じる空気の振動、足の裏で感じる地面の僅かな傾斜、そして眼で捉える微細な変化に集中した。
(記憶がないと、こんなにも世界は不安定なのか)
彼女のCQCと合気道は、相手の動きを目で捉え、予測する能力に大きく依存する。しかし、今はその全てが遮断されている。
病院の正面玄関には、屈強な男が警備にあたっていた。彼は、咲の過去の記憶を具現化した幻影に囲まれているようだった。
咲は、男の姿が見えない中で、彼の呼吸音や足音からその位置を特定する。
男が巡回ルートの角を曲がった瞬間、咲は物音一つ立てずに接近した。CQCの「ステルスアプローチ」。彼女の足音は、まるで幻のように地面に吸い込まれていく。
男が振り返る寸前、咲は彼の首筋に手刀を叩き込んだ。完璧な一撃で、男は音もなくその場に倒れ伏す。
「警備員、一人無力化。視認はできなかったが、音で位置を特定した」咲の報告に、詩音が小さく息を吐いた。
病院内部は、さらに不気味な記憶の幻影に包まれていた。廊下にはいくつもの病室があり、どこからか気配が漂ってくる。
「咲、最上階の特別病室。そこにアムネジアがいる」詩音の指示がインカム越しに響く。
詩音は、レミントンM700のスコープ越しに、特殊な脳波感知機能を使用していた。アムネジアの異能は記憶を消すことだが、彼自身の脳波までは消せない。詩音は、その微かな脳波を捉え、アムネジアの位置を特定していたのだ。
最上階の特別病室に辿り着くと、そこは広大な空間だった。壁には、患者たちの過去の記憶が具現化された幻影がいくつも並んでいる。それは、幸せな家族の団欒、あるいは悲しい別れの場面など、様々な感情が渦巻く記憶の断片だった。
その空間の中央に、痩身の男が立っていた。彼こそが『アムネジア』。彼は周囲の記憶の幻影に完全に溶け込み、まるでそこに存在しないかのように見えた。
「ようこそ、奪還屋。ここは私の創造した、完璧な無記憶の世界だ」
アムネジアの声は、どこからともなく響いてくる。彼の異能が、周囲の精神波に干渉し、意識そのものに錯覚を起こさせているのだ。
咲は、アムネジアに向かって静かに歩み寄る。アムネジアは、咲の接近を察知しているようだったが、微動だにしなかった。彼は、自身の能力を過信している。
咲が間合いに入った瞬間、アムネジアの姿が、まるで蜃気楼のように揺らめいた。そして、彼の周囲の空間が、突然、歪んだように見えた。
(これは……記憶の波長を操作して、空間そのものを歪ませているのか!)
咲はすぐにアムネジアの能力の本質を見抜いた。記憶を「消す」だけでなく、「精神波を操作する」ことで、周囲の物理法則に干渉しているのだ。
しかし、咲は焦らない。彼女は、歪んだ空間の中で、**CQCの「予測不能な動き」と合気道の「重心移動」**を組み合わせ、ゆっくりと、しかし確実にアムネジアとの距離を詰めていく。
通常の動きでは精神波に惑わされるため、あえて不自然なほどゆっくりと、だが無駄のない動きで彼の懐に入り込んだ。
「詩音、彼の異能、精神波を操作している! 視覚情報が当てにならない!」
咲の報告に、詩音は即座に反応した。
「了解。レミントンM700、特殊弾装填。精神波攪乱弾」
詩音は、レミントンM700のスコープ越しにアムネジアの脳波を狙い定めた。彼女の指が、静かにトリガーを引く。
ドスッ!
レミントンM700から放たれた特殊なゴム弾は、弾頭部に精神波攪乱装置を内蔵していた。弾丸はアムネジアの肩を正確に打ち抜き、同時に弾頭部から人間には知覚できない特殊な精神波を発生させる。
アムネジアは、異能の干渉を受け、目を見開いた。彼の周囲の空間の歪みが、一瞬だけ正常に戻る。
その隙を突き、咲はアムネジアの腕を掴み、**合気道の「小手返し」で彼の体のバランスを崩す。そして、そのまま彼の側頭部にCQCの「ピンポイント打撃」**を叩き込み、彼を無力化した。
「ターゲット、無力化」
咲の報告と共に、部屋の中に、微かな記憶の断片が戻り始めた。
そして、遠くで、人々の笑顔や、悲しみの涙が、ゆっくりと蘇り始めたのだ。
任務を終え、バー『RETRIEVER』に戻った二人を、老夫婦が待っていた。彼らの顔には、安堵と感謝の表情が浮かんでいる。
「私の……私の記憶が、戻った!妻の顔も、娘の笑顔も、全てが鮮明に思い出せる!」
老夫婦は涙を流しながら、咲と詩音の手を握り締めた。
「本当に、ありがとうございます。あなたたちが、私たちの人生を取り戻してくれた!」
「私たちの仕事だ」咲はいつものように淡々と答えた。
詩音は、老夫婦の目を見つめ、静かに言った。
「記憶は、人生とあなたを繋ぐ絆。それを失うことは、世界から孤立することに等しい。もう二度と、その記憶を失わないで」
老夫婦は深く頷いた。
東京の街は、再び喧騒を取り戻していた。
「記憶がない世界は、空虚だな」咲が呟いた。
「ええ。でも、その空虚の中でこそ、微かな記憶の価値が分かることもある」詩音は、遠くで輝くネオンサインを見上げながら言った。
二人の「奪還屋」は、今日もまた、見えない喪失と戦い、静かに、そして確実に、人々の「記憶」を取り戻していく。




