第百五十三話「愛の残響、心の交差路」
咲の「サキモリ、私はあなたのことを諦めない!」という叫びは、幻影の世界に新たな亀裂を生み出した。彼女の言葉は、ただの音ではなく、純粋な意志の光となって、彼女を取り囲む幻影の兵士たちを突き刺す。彼らは、咲の感情に触れるたび、まるでガラス細工のようにヒビが入り、その無機質な姿を歪ませていった。
「くっ…!こんな…!こんなはずは…!」
幻影の兵士たちの中心から、サキモリの声が聞こえる。それは、かつて咲が知っていた優しい声とは全く違う、苦痛と絶望に満ちた叫びだった。彼は、咲の言葉が、彼が創り上げた幻影の理想郷を、根底から覆そうとしていることを感じ取っていた。彼が咲を永遠に閉じ込めるために創り出した世界は、咲自身の愛によって、崩壊の危機に瀕していた。
「サキモリ!もうやめて!その愛は…あなた自身を苦しめているだけよ!」
咲は、一歩踏み出し、幻影の兵士たちの中へと分け入る。彼女の体から放たれる光は、幻影たちを薙ぎ払い、彼女の行く手を照らした。幻影の兵士たちは、彼女を攻撃しようと手を伸ばすが、その手は彼女の光に触れる前に消滅していく。咲は、もはや恐怖を感じていなかった。彼女の心には、サキモリを救い出したいという、強い願いだけがあった。
「咲…!彼の精神の核は…もうすぐそこよ…!私が…現実世界で…彼のプログラムの防衛線を…突破してみせる…!」
詩音の声が、咲の耳に響く。現実世界では、詩音の戦いが激しさを増していた。詩音の前に、次々と現れる幻影の兵士たちは、もはや単なる幻影ではなかった。彼らは、サキモリが咲との記憶の中で感じた、小さな不満や、些細な嫉妬、そして、彼女を失うことへの深い恐怖を、具現化したものだった。
「…ふざけないで…!咲は…あんたの所有物じゃない…!」
詩音は、そう言って、端末を操作しながら、襲いかかる幻影の兵士たちを、次々と打ち消していく。彼女の端末の画面には、複雑なコードが渦巻き、サキモリのプログラムの防衛線を、力技で突破しようと試みていた。彼女の髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。だが、彼女の瞳には、決して諦めないという、強い光が宿っていた。彼女は、咲の現実世界での、唯一の守り手だった。
「…咲…!急いで…!現実世界と…幻影世界の境界が…不安定になっている…!このままでは…この施設全体が…彼のプログラムに…飲み込まれてしまう…!」
詩音の声に、咲は焦りを感じる。彼女は、さらに奥へと進んだ。幻影の兵士たちの攻撃が、激しさを増す。彼らは、かつて咲とサキモリが一緒に過ごした、幸せな記憶の断片を、彼女の心に植え付けようと試みる。
「…サキモリ…私は…あなたとの思い出を…忘れたりしない…!でも…それは…あなたを閉じ込めるためのものじゃない…!」
咲は、幻影の攻撃に屈することなく、サキモリの心の奥底へと進んだ。彼女の目の前には、巨大な光の繭が浮かんでいた。その繭の中に、サキモリの精神が、深く眠っている。繭の周りには、無数の幻影の兵士たちが、まるで守護者のように、立ち並んでいた。
「…サキモリ…!もう…大丈夫よ…!目を覚まして…!」
咲は、光の繭に手を伸ばした。しかし、その手は、繭に触れることはない。繭から放たれる、強い拒絶の光が、彼女の手を押し戻す。それは、サキモリの心の中に残された、最後の抵抗だった。
「咲…!彼のプログラムのコアに…直接アクセスする…!もう…これしかない…!」
詩音の声が、咲の心に響く。咲は、頷いた。彼女は、光の繭に、額をつけた。彼女の精神が、繭の中から放たれる拒絶の光と、激しくぶつかり合う。咲の体から、眩い光が放たれ、繭の拒絶の光と、拮抗し始める。
「…サキモリ…!私を…信じて…!」
咲は、心の中で、そう叫んだ。その瞬間、繭の中から、サキモリの声が聞こえてくる。それは、かつて彼女が聞いた、優しい声だった。
「…咲…?本当に…君なの…?」
「そうよ…!私は…ここにいるわ…!あなたを…助けに来たの…!」
咲の声は、彼の心に、温かく響いた。繭の拒絶の光が、少しずつ弱まっていく。咲は、その隙に、繭の中に、一歩足を踏み入れた。
彼女の目の前には、サキモリが、一人、花畑の中に座っていた。彼は、背を向けている。彼の周りには、咲との幸せな記憶の断片が、まるで星のように、輝いていた。
「…サキモリ…」
咲は、彼の名を呼んだ。彼は、ゆっくりと振り返った。彼の瞳には、もう、絶望の光はなかった。そこにあったのは、彼女への深い愛情と、彼女を傷つけてしまったことへの、深い悲しみだけだった。
「…咲…ごめんね…」
彼の声は、震えていた。咲は、彼の元へと駆け寄り、彼の手に、そっと触れた。
「…いいの…!もう…いいのよ…!」
咲の言葉に、サキモリの目から、涙がこぼれ落ちる。彼の涙は、光の粒となって、彼の精神世界に散らばっていた幻影の兵士たちを、次々と消滅させていった。そして、現実世界では、詩音の目の前に現れていた幻影の兵士たちが、次々と消え失せていく。
「…やったわ…!咲…!よくやったわ…!」
詩音は、そう言って、安堵の表情で、その場に崩れ落ちた。咲の闘いは、現実世界にも、大きな影響を与えていたのだ。
咲は、サキモリの手を握りしめたまま、彼の瞳を、まっすぐに見つめた。
「…サキモリ…現実に戻りましょう…!もう…一人じゃないわ…!あなたが愛した人たちは…みんな…あなたが帰ってくるのを…待っているから…!」
咲の言葉に、サキモリは、ゆっくりと頷いた。彼の精神は、繭の中から、現実世界へと、ゆっくりと戻っていく。
そして、咲の視界は、再び、光に包まれた。




