第百五十二話「乱戦の序曲、精神の防衛線」
咲がサキモリの精神プログラムの深淵へと飛び込んだ瞬間、現実世界の最深部でも事態は急変していた。詩音の端末が、けたたましい警告音を鳴り響かせる。画面には、「プログラムの暴走」「セキュリティプロトコル違反」という文字が点滅していた。
「しまった…!咲のシンクロが、彼のプログラムの防衛システムを刺激してしまった…!」
詩音は、そう言って、慌てて端末を操作し始める。サキモリのプログラムは、外部からの侵入者、つまり、咲の精神を守るために、無数の幻影の兵士たちを、現実世界へと解き放とうとしていたのだ。その幻影の兵士たちは、現実と幻影の境界線を曖昧にし、この施設全体を、サキモリの理想郷へと変えようと目論んでいた。
「…そんな…!」
咲は、サキモリの精神世界の中で、その変化を感じ取っていた。村人たちの表情が、一瞬にして、無機質で冷たいものに変わる。彼らは、咲に向かって、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、歩み寄ってきていた。その瞳には、かつて彼女に向けられた、温かい愛情は、もうどこにもなかった。そこにあったのは、ただ、彼女を捕らえ、この幻影の世界に閉じ込めようとする、無慈悲な意思だけだった。
「…やめて!…サキモリ…!私を…私を捕らえないで…!」
咲は、そう叫んだ。しかし、村人たちは、彼女の声に耳を傾けることはない。彼らは、まるで意志を持たない人形のように、彼女を取り囲んでいく。咲は、逃げ場を失い、恐怖に震えながら、その場に立ち尽くすしかなかった。
「…咲、聞こえる!?彼らの幻影は…まだ、実体を持っていない!あなたの精神に…干渉してくるだけよ!決して、彼らの言葉に…心を揺さぶられないで!」
詩音の声が、遠くから聞こえてくる。その声は、咲に、現実の詩音が、彼女を信じ、彼女を助けようとしていることを、強く思い出させてくれた。
「…うん…!わかった…!」
咲は、恐怖を振り払い、強く頷いた。彼女は、目を閉じ、心を落ち着かせた。そして、彼女が幻影の世界で出会った、サキモリの優しさ、そして、彼が彼女に示した愛情を、心の中で、強く思い描いた。それは、この幻影の兵士たちが、彼女に植え付けようとする、偽りの愛情とは全く違う、本物の愛情だった。
「…サキモリ…!私は…あなたの本当の優しさを知ってる!あなたは…こんなこと…望んでいない!」
咲は、そう叫んだ。その瞬間、彼女を取り囲んでいた幻影の兵士たちの体が、微かに震え、その姿が、一瞬、透明になった。彼女の言葉は、サキモリのプログラムに、そして、彼の心の奥底に、確かに届いていたのだ。
一方、現実世界の最深部でも、激しい闘いが始まっていた。詩音の前に、無数の幻影の兵士たちが、実体を持たないまま、次々と現れ始める。彼らは、詩音の精神を侵食し、彼女を永遠の眠りへと誘おうとしていた。
「…私を…眠らせるわけにはいかない…!咲を…守らないと…!」
詩音は、そう言って、端末を操作しながら、幻影の兵士たちに立ち向かう。彼女の端末から放たれる青い光が、幻影の兵士たちを打ち消していく。しかし、幻影の兵士たちは、次から次へと現れ、詩音を追い詰めていく。
「…くっ…!こんなに…プログラムが暴走しているなんて…!」
詩音は、歯を食いしばりながら、必死に抵抗する。彼女は、幻影の兵士たちの攻撃をかわしながら、端末の画面に、新たなコードを打ち込んでいく。
「…咲、もう少しよ…!私が…彼のプログラムの防衛線を突破する…!だから…あなたも…彼の心の残滓に…話しかけ続けて…!」
詩音の声が、咲の精神世界に、再び届く。咲は、目を閉じ、サキモリの心の残滓に、語りかけ続けた。
「…サキモリ…あなたの愛は…こんなに悲しいものじゃないはずよ…!あなたは…私に…たくさんの笑顔をくれた…!その笑顔は…幻影じゃない…!本当のあなただったはずよ!」
咲の言葉は、まるで魔法のように、サキモリの精神世界を、少しずつ変えていった。空の灰色が、少しずつ薄れていく。虚ろだった村人たちの表情に、一瞬だけ、かつてのような温かさが戻る。
しかし、その変化は、一瞬の出来事だった。サキモリのプログラムは、彼女の言葉に、激しく抵抗するように、再び、幻影の兵士たちを、彼女の周りに増殖させていく。
「…咲…!時間が…ない…!彼のプログラムが…このまま暴走し続ければ…彼の精神は…完全に…消滅してしまう…!」
詩音の声が、悲痛な叫びに変わる。咲は、目を開けた。彼女の目の前には、無数の幻影の兵士たちが、彼女を捕らえようと、手を伸ばしている。
咲は、もう、逃げない。彼女は、サキモリの心を救うために、そして、現実の世界を守るために、この乱戦の中で、彼らと向き合うことを決意した。
「…サキモリ…!私は…あなたのことを…諦めない!」
咲は、そう叫んだ。その言葉は、彼女の心に、そして、この幻影の世界に、新たな光を灯した。彼女は、サキモリの心を救うための、最後の闘いを、今、まさに、始めようとしていた。




