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第百四十八話「再会の部屋で、心の羅針盤を」

咲が目を開けた。そこは、夢や幻影の世界とは全く違う、静かで冷たい、無機質な空間だった。真っ白な壁、消毒液の匂い、そして窓から差し込む、どこか人工的な光。長い間、色鮮やかな木々や温かい陽光に満ちた世界にいた彼女にとって、その現実はあまりにも対照的だった。


「…詩音…」


かすれた声で、彼女は隣に立つ女性の名を呼んだ。


「ええ、私よ、咲」


詩音は、咲の手を握りしめた。その手は、咲が記憶する柔らかさとは少し違い、硬く、そして微かに震えていた。咲の記憶にある詩音は、いつも無邪気で、優しい笑みを浮かべていた。しかし、目の前の詩音の顔には、疲労と、そして深い悲しみが刻み込まれているように見えた。


「…ここは…本当に…現実なの…?」


咲は、夢と現実の狭間で揺れ動く心を抱え、詩音に問いかけた。


「ええ、現実よ。あなたが、このシミュレーションから目を覚ました場所。この部屋は、あなたが眠っていた間、私がずっとそばにいた場所…」


詩音は、そう言って微笑んだ。その笑顔は、咲が知るものよりもずっと大人びていて、どこか寂しげだった。咲の頭の中には、たくさんの映像が渦巻いていた。陽だまりの村で出会った人々、忘却の森で抱きしめた少年。そして、彼女が作り出した、温かい光の世界。それらすべてが幻だったと、詩音は言った。だが、その記憶は、まるで現実のように鮮やかで、彼女の心を掴んで離さない。


「…サキモリは…どうして…あんな世界を…」


咲は、サキモリの名を口にした。その瞬間、詩音の顔から笑顔が消えた。


「サキモリは…彼もまた、現実の世界で、孤独だったのよ」


詩音は、そう言って、遠い目をした。


「彼は…私たちの関係を、ずっと歪んだ形でしか認識できなかった。あなたと私が、ただ一緒にいるという、その純粋な喜びを…彼は理解できなかったの。だから、彼は、あなたを彼の理想郷に閉じ込めようとした。私から、あなたを奪おうとした…」


詩音の言葉は、咲の心を深くえぐった。サキモリが、なぜ彼女を閉じ込めたのか。それは、ただの悪意ではなかった。そこに込められていたのは、歪んだ愛情と、孤独が生み出した悲しい願いだったのだ。


「…でも…私は…あの世界で…詩音と、再会した…」


咲は、そう言って、涙を流した。幻だったとしても、彼女が詩音と再び巡り会えたという事実は、彼女の心の中で、確かな光となっていた。


「ええ、そうよ。でも、それは彼のプログラムのバグだった。あなたが私を深く愛し、私に会いたいと強く願ったから、あなたの潜在意識が、あの幻影の中に、私を創り出した…あなたは、サキモリのプログラムを上書きし、自分自身の力で、私との再会を果たしたのよ」


詩音は、咲の涙をそっと拭った。


「…ごめんなさい…私は…あなたが苦しんでいる間に…何もできなくて…」


「いいえ…そんなことないわ」


咲は、詩音の手を強く握った。


「私が、あの世界で体験したことは…決して無駄じゃなかった。私は、あそこで、自分自身の本当の願いを見つけた。誰かを愛し、誰かのために生きたいという、私の本当の願いを…」


咲の言葉に、詩音は、静かに涙を流した。その涙は、悲しみの涙ではなく、安堵と、そして、深い喜びの涙だった。


「…ありがとう…咲…」


詩音は、そう言って、咲を強く抱きしめた。咲は、その胸の中で、詩音の鼓動を感じた。それは、幻影の中で感じた温もりとは違う、確かな、現実の温もりだった。


「…さあ、目を覚まさないと。まだ、私たちには、やるべきことがたくさんあるわ。サキモリを止めないと…そして、この世界を、私たちの手で、もっと優しい場所にしないと…」


詩音の言葉に、咲の瞳に、再び光が戻った。彼女の心は、まだ、夢と現実の狭間で揺れていた。だが、彼女の隣には、彼女を信じ、待ち続けてくれた詩音がいた。そして、彼女の心の中には、幻影の中で見つけた、確かな光があった。


それは、現実の世界で、彼女が歩むべき道を示してくれる、新たな羅針盤だった。咲の物語は、ここから、本当に始まるのだ。彼女は、詩音と共に、現実という名の舞台で、新たな旅を始める。

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