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第百四十六話「忘却の森の迷い子」

咲は、忘却の森の奥へと足を踏み入れた。彼女の心は、過去の断片が繋ぎ合わされ、確かな光で満たされていた。詩音と共に優しさに満ちた世界を創るという、彼女自身の願い。それは、サキモリの歪んだ理想郷とは異なる、純粋な希望の光だった。


一歩進むごとに、森は表情を変えていく。陽光が届かぬほどに木々は生い茂り、足元には名も知らぬ植物が奇妙な輝きを放っていた。森全体が、まるで一つの生き物のように脈動している。それが、この森が持つ「記憶を消し去る力」の源なのだろうか。


咲は、その力に抗うように、胸の中の光を強く意識した。詩音の温もり、陽だまりの村で受けた優しさ。それらが、彼女の心を守る盾となって、忘却の波動を弾き返す。しかし、森の奥深くへと進むにつれて、その波動は次第に強まり、彼女の意識を揺さぶり始めた。


「…大丈夫…私は、私…」


彼女は、自分自身に言い聞かせるように呟く。その言葉が、彼女の心を再び奮い立たせた。


その時、咲の耳に、か細い声が届いた。


「…誰か…」


それは、記憶を失い、途方に暮れているような、不安に満ちた声だった。咲は、声のする方へ向かって駆け出した。木々の隙間を抜け、足元のツルを乗り越え、彼女が見つけたのは、森の中にたたずむ、一人の少年だった。


少年は、まだ幼く、十歳にも満たないように見えた。彼は、ぼんやりと空を見上げ、まるで自分の存在そのものが、この世界から忘れ去られたかのように、儚く揺らいでいた。彼の瞳には、光がなく、ただ虚ろな闇が広がっていた。


「…君…大丈夫?」


咲が、声をかけると、少年はゆっくりと顔を上げた。しかし、その瞳は、咲を捉えることができない。彼は、まるで透明な壁の向こうにいるかのように、咲の存在を認識できないでいた。


「…ここは…どこ…?僕は…誰…?」


少年の言葉は、咲の胸を締め付けた。彼は、この森の力によって、自分自身の存在すらも忘れてしまっているのだ。


咲は、少年にそっと手を差し伸べた。


「ここは、忘却の森。君は、道を迷ってしまったんだね」


咲の声は、優しく、温かかった。しかし、少年は、その言葉を理解することができない。彼の記憶は、既に、ほとんどが消え去ってしまっていた。


(どうすれば…この子の記憶を、取り戻せる…?)


咲は、深く考える。この森の力に抗うには、ただの言葉では、意味がない。彼女が持つ、詩音の光。それが、この少年に、希望を与えることができるかもしれない。


咲は、胸の中の光を意識し、その温かいエネルギーを、そっと少年に向かって放った。すると、少年の周りを漂っていた、冷たい霧のようなものが、少しずつ晴れていく。そして、彼の虚ろな瞳に、一筋の光が差し込んだ。


「…光…」


少年は、初めて、咲の存在を認識した。彼の口からこぼれた言葉は、たった一言だったが、そこには、確かな感情が宿っていた。


「…僕を…呼んでくれた…」


咲は、少年の手を優しく握りしめた。彼女の手の温かさが、少年の冷え切った心に、じんわりと染み渡っていく。


「君は、一人じゃない。私が、ここにいるから」


咲の言葉は、まるで魔法のように、少年の心を温めた。彼の瞳に、再び光が戻り、彼の顔に、小さな笑顔が浮かんだ。


「…お姉さん…ありがとう…」


少年は、そう言って、咲の胸に顔を埋めた。咲は、その小さな体を、優しく抱きしめた。彼女の心は、喜びと、そして、新たな使命感で満たされていた。


彼女は、この森の迷い子たちを救うために、ここに導かれたのだ。サキモリの夢を追うのではなく、詩音と共に優しさを広げるという、彼女自身の夢を叶えるために。


咲は、少年を抱きしめたまま、空を見上げた。夜明けの光が、木々の間から差し込み、彼女と少年を、優しく照らしていた。その光は、彼女の心の光と重なり合い、この森全体を、温かい光で満たしていく。


「…さあ、行こう。ここから、新しい旅を始めよう」


咲は、少年を抱きかかえ、再び歩き出した。彼女の足元は、もう、迷いなく、確かなものだった。この先には、たくさんの迷い子たちが待っているのかもしれない。だが、彼女は、もう、恐れてはいなかった。彼女の胸には、詩音の温かい光があり、そして、彼女の隣には、新しい希望が宿っていた。


その一歩一歩が、彼女自身の人生を刻む、かけがえのない足跡となっていた。そして、それは、世界に優しさを広げていくための、確かな第一歩だった。

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