第百四十五話「記憶の断片、私の未来」
咲は、深い森の中を歩き続けた。夜明けの光が木々の間から差し込み、彼女の行く道を明るく照らしていた。陽だまりの村で得た温かい光は、彼女の心の羅針盤となり、迷いのない一歩を支えていた。
しかし、道が平坦になったところで、咲は突然、立ち止まった。目の前に広がるのは、古びた石碑だった。表面には苔が生え、風化が進んでいるが、その独特な形状は、どこかで見たことがあるような気がした。
(…この形…どこかで…)
咲は、石碑に触れた。ひんやりとした石の感触が、彼女の指先から脳へと伝わると、一瞬にして、脳裏に一つの光景がフラッシュバックした。
それは、研究所の地下にある、極秘の記憶アーカイブ室だった。無数の光の粒が空間を漂い、その中心には、巨大な水晶が浮かんでいた。その水晶は、まさに目の前の石碑と同じ形をしていた。
「これは…サキモリが作った、記憶の…」
咲は、驚きと混乱に包まれた。彼女がいた研究所は、システムの中心であり、世界の全ての情報が管理されていた場所だった。その中枢に、なぜ、この石碑と同じ形をした水晶があったのか。
咲は、石碑の周りを歩き、注意深く観察した。すると、石碑の根元に、小さな文字が刻まれているのを見つけた。
「…『忘却の森』…」
その文字を読んだ瞬間、彼女の記憶が、再び、激しく揺れ動いた。
(咲!逃げて!ここは…忘却の森…!)
誰かの声が、頭の中で響いた。それは、若き日の詩音の声だった。彼女は、まだ、システムの支配下におらず、自由な意思を持っていた。
(咲…この森は、記憶を消してしまう…)
もう一度、詩音の声が響く。だが、その声は、途中で途切れてしまった。
咲は、その記憶から、重要な情報を読み取った。この石碑は、「忘却の森」と呼ばれる場所の目印であり、この森には、記憶を消し去る力がある。そして、詩音は、その力を知っていて、彼女に警告しようとしていたのだ。
なぜ、詩音は、彼女に警告しようとしたのか。そして、なぜ、その記憶は、彼女の心の奥に封印されていたのか。
咲は、自らの記憶を辿り、深く考えた。彼女がシステムの管理下に置かれてから、彼女の記憶は、何度も編集され、都合の良いように書き換えられていた。サキモリが彼女に与えた「使命」を全うさせるためだ。
だが、この「忘却の森」の記憶は、何らかの理由で、消去されずに残っていた。それは、彼女の記憶の奥深く、システムの編集が及ばない場所に、隠されていたのかもしれない。
咲は、この森が、彼女の過去を知るための鍵だと直感した。そして、サキモリと詩音、そして彼女自身の、本当の姿を知るための、唯一の手がかりだとも感じた。
咲は、意を決し、森の奥へと足を踏み入れた。一歩足を踏み入れるごとに、彼女の記憶が、少しずつ揺れ動くのが分かった。忘れていたはずの幼い頃の記憶、サキモリとの温かい時間、そして、詩音との友情。それらの断片が、まるでパズルのピースのように、彼女の脳裏に次々と蘇ってきた。
(咲!一緒に…この世界を変えよう…!)
詩音の声が、再び響く。だが、その声は、以前とは全く違う、温かい響きを持っていた。
(うん!詩音と一緒に…!)
幼い頃の咲の声が、答える。二人は、手を取り合い、笑顔を浮かべていた。
その光景を見て、咲は、涙を流した。彼女は、サキモリの「理想郷」を完成させることが、彼女の人生の目的だと信じていた。だが、本当は、詩音と一緒に、この世界を、優しさで満たすことが、彼女の本当の願いだったのだ。
咲は、立ち止まり、深く考える。サキモリは、なぜ、彼女の記憶を編集し、彼女の本当の願いを封印したのか。それは、彼の「理想郷」を完成させるためには、彼女の純粋な優しさが邪魔だったからだろうか。
だが、咲は、サキモリを恨むことはなかった。彼は、この世界を救うという、純粋な願いを持っていた。ただ、その願いを叶えるために、間違った道を選んでしまっただけなのだ。
咲は、再び歩き出した。彼女の足元は、もう、迷いなく、確かなものだった。この「忘却の森」で、彼女は、自分自身の過去を取り戻し、そして、自分自身の未来を見つけることができた。
夜空が、完全に明るくなり、彼女の行く道を、優しく照らし始めた。咲は、その光の中を、希望に満ちた足取りで進んでいく。その一歩一歩が、彼女自身の人生を刻む、かけがえのない足跡となっていた。




