第13話「奪われた時間」
東京の夜空は、いつもと変わらぬ星々を抱いていた。しかし、この街の片隅では、時間の流れが確かに歪んでいた。
バー『RETRIEVER』のドアベルが、微かな音を立てた。現れたのは、憔悴しきった様子の若い女性。彼女の目は虚ろで、まるで何日も眠っていないかのようだった。
「どうか、私の……『時間』を取り戻してください」
女性は震える声で言った。咲と詩音が、カウンターから彼女を見つめる。情報屋の如月結人が、端末を操作しながら口を開いた。
「彼女の名前は、森下アキラ。最近、都内で多発している『時間消失事件』の被害者の一人だ」
アキラの話はこうだった。彼女は週末に友人と会う約束をしていた。しかし、目が覚めると、なぜか一週間が過ぎていたという。その間、何があったのか、全く記憶がない。友人との約束は果たされず、仕事の締め切りは過ぎ、アキラの生活は壊滅的な打撃を受けていた。
「ただ眠っていただけならいいんです。でも、まるで私の一週間が、誰かに盗まれたみたいで……」
アキラの言葉に、咲の眉間に皺が寄った。過去の記憶を奪われた体験を持つ彼女にとって、この依頼は他人事ではなかった。
「時間を奪う異能者……か」詩音の言葉には、わずかながら警戒の色が滲んでいた。
「犯人は、時間の流れを操作する異能者、『クロノス』と呼ばれている人物だ。彼の行動にはパターンがある。決まって、ターゲットは時間管理にルーズな人間だ。アキラさんも、普段から時間に遅れがちなタイプだったらしい」結人が追加情報を告げる。
「時間を盗んで、どうするつもりだ?」咲が問う。
「不明だ。だが、時間を盗まれた者は、肉体的な疲弊と精神的な混乱に陥り、社会生活を送れなくなる。ある意味、命を奪うよりも残酷な行為と言える」
詩音はP90を手に取り、静かに整備を始めた。
「非殺傷でいく。時間の流れがどうなっていようと、命を奪う必要はない」
咲は頷いた。今回の敵は、物理的な攻撃だけではどうにもならない可能性があった。
調査の結果、クロノスは都市郊外にある廃工場をアジトにしていることが判明した。そこは、かつて時計部品を製造していた工場で、時間に関する異様なオブジェが多数残されているという。
「詩音、潜入ルートは?」咲が尋ねる。
「工場全体に、時間の流れを歪める領域が展開されている。内部の監視カメラの映像は常にコマ送りのように不安定で、警備員の動きも不規則だ。通常のパターン判別は困難」
詩音の報告に、咲は深く息を吐いた。
「なら、直感でいくしかない」
廃工場は、夜の闇に沈んでいた。中に入ると、すぐに違和感が咲を襲った。廊下を歩いているはずなのに、景色が急に飛んだり、巡回している警備員が数メートル先から突然目の前に現れたりする。
「時間の歪曲か……厄介だな」
咲は自身の感覚を最大限に研ぎ澄ませる。CQCと合気道は、相手の動きの“予測”を必要とする。だが、時間が不規則に流れる空間では、その予測が機能しない。
その時、詩音の声がインカムから聞こえた。
「咲、左前方。警備員、通常の倍速で接近中」
詩音は、レミントンM700のスコープ越しに、時間の歪みを補正する独自の演算を行い、咲に的確な指示を出す。彼女にとって、時間の歪みは「計算によって補正可能な誤差」でしかなかった。
咲は詩音の指示に従い、通常ではありえない速度で迫る警備員の動きを、合気道の「受け流し」で捌いた。体勢を崩した警備員を、CQCの打撃で無力化する。
「一人、排除。詩音、援護助かる」
「油断しないで。別の警備員が、今度はスローモーションで接近中」
詩音の声が、まるでスロー再生されたかのように聞こえる。咲は反射的に身構えるが、敵の動きはあまりにも遅く、まるで止まっているかのようだった。しかし、油断すれば、その一歩が致命傷に繋がる。咲は、通常よりも遥かにゆっくりとした動作で敵の懐に入り込み、関節技で静かに制圧した。
廃工場の奥深く、巨大な時計の歯車がむき出しになった広間があった。そこに、クロノスはいた。痩せこけた男で、その指先は常に虚空で何かを紡ぐように動いている。
「ようこそ、奪還屋。ここは時間の檻だ。お前たちの時間も、ここで止まる」
クロノスが指を振るうと、広間の時間が狂い始めた。咲の動きが急に速くなったり、逆に遅くなったりする。視界が点滅し、平衡感覚が失われる。
「咲! 広間の時間の歪み、最大! 予測不能!」詩音の声も途切れ途切れだ。
咲は目を閉じ、聴覚と触覚に意識を集中させる。風の流れ、床の振動、クロノスの呼吸音。時間感覚が狂わされても、これらの情報は彼女に残された。
(目に見えるものが嘘なら、感じ取るしかない)
クロノスは、時間を加速させ、空間を瞬時に移動しているかのように見えた。だが、咲は彼の異能が「周囲の時間を操作している」のであって、「彼自身が超高速で移動しているわけではない」ことを見抜いていた。
クロノスが咲の背後に回り込み、攻撃を仕掛けようとしたその瞬間、咲はまるで未来を読んだかのように体を反転させた。
**合気道の「円転換」**で攻撃を受け流し、そのままクロノスの腕を取る。クロノスは驚愕の表情を浮かべた。
「なぜだ! 私の時間が読めるはずがない!」
咲は答えず、そのまま**CQCの「テイクダウン」**へと移行する。クロノスを地面に叩きつけ、動きを封じた。
その時、詩音のレミントンM700が火を吹いた。
ドスッ!
麻酔弾がクロノスの側頭部に命中し、彼は意識を失った。
「……咲。少し、時間の歪みが戻った」詩音は安堵したように呟いた。
クロノスを無力化すると、時間の歪みは次第に収まっていった。
工場には、時間の流れが元に戻り、置き去りにされた時計たちが、カチカチと正常なリズムを刻み始めた。
任務を終え、バー『RETRIEVER』に戻った二人を、アキラが待っていた。彼女の顔には、生気が戻っていた。
「私の……一週間が戻ったんです! 家族とケンカしたこと、友達と映画に行ったこと……全部、思い出せます!」
アキラは涙を流しながら、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます! あなたたちが、私の時間を奪い返してくれた!」
咲は、アキラの喜びに静かに耳を傾けていた。彼女の表情は、どこか穏やかだった。
「私たちは、ただ奪われたものを取り戻しただけだ」
詩音も、珍しく優しい表情でアキラを見ていた。
「時間は、誰にも奪えない。だから、大切にしないとね」
夜の街を歩く二人の足取りは、確かなリズムを刻んでいた。
時間という見えないもの。
それを奪い、歪める存在がいる。
しかし、それを『Silent Trigger』は、静かに、そして確かに奪い返していく。