第百弐拾六話「共鳴、沈黙の壁を越えて」
アジトのスタジオは、張り詰めた緊張感に包まれていた。壁に立てかけられた悠真の壁画、その色彩は、ただの絵ではなく、街全体に送信されるべき「信号」の設計図だ。その中央に、リノが開発した周波数生成装置が接続され、さらにそこから詩音のギターへとケーブルが伸びていた。彼女のギターは、もう単なる楽器ではなく、街の「ノイズ」を打ち消すための強力な武器へと変貌していた。
「詩音…いける?」
咲は、隣に立つ詩音に、静かに尋ねた。彼女の「つながり」の能力は、まだ完全に機能してはいないが、皆の心の奥底に宿る決意の波長を、確かに感じ取ることができた。
詩音は、大きく息を吸い込み、固く頷いた。彼女の指先が、ギターの弦を優しく押さえる。これまでの彼女の歌は、情熱や感情を込めるものだった。しかし、今奏でるべきは、正確な周波数と、完璧なタイミングだ。感情を排し、計算された音の波を、正確に作り出す。その緊張感で、彼女の額には汗が滲んでいた。
「よし、リノ。準備はいい?」
咲の問いかけに、リノはタブレットの最終チェックを終え、力強く頷いた。
「いつでもいけます!このプログラムは、通信妨害の周波数と完全に逆の位相を持つ音波を生成する。詩音のギターの音色に合わせて、その波を合成します!」
嵐太は、古びたラジオを抱え、マイクをセットした。彼のラジオは、もう砂嵐しか聞こえないただのラジオではない。リノのプログラムと詩音のギターの波長を乗せ、街の通信網を一時的に奪うための「通信機」へと改造されていた。
「皆の準備が整った。あとは…悠真くん、頼んだよ」
咲がそう言うと、悠真は、最後の仕上げとして、壁画の特定の箇所に、新しい色を塗り始めた。それは、リノのプログラムが街の通信網をハッキングするための、物理的な「鍵」となる色彩だった。
「…行くよ!」
詩音は、声を張り上げ、ギターの弦をかき鳴らした。
「ギィン…!」
その音は、これまでの彼女の歌声とは全く違う、鋭く、澄んだ、しかし耳を劈くような高音だった。その音の振動が、スタジオの空気を震わせ、壁画に描かれた悠真の色彩と共鳴する。リノのタブレットの画面に、新しい波形が映し出された。
「成功!詩音のギターの周波数と、逆位相の音波が完璧に同期してる!」
リノは、興奮した声で叫んだ。
その時、咲の「つながり」の能力が、微かに、しかし確かに反応した。街を覆っていた重苦しい「静寂」の波が、一瞬だけ、弱まったのを感じた。
「今だ!嵐太くん!」
咲は、嵐太に指示を出した。
「わかった!」
嵐太は、ラジオのマイクを握りしめ、悠真の壁画に向かって、声を張り上げた。彼の声は、これまでのメッセージとは全く違う、悠真が描いた色彩の「情報」を伝えるための、ただの「データ」だった。
「青の周波数、9.8Hz!赤の周波数、14.2Hz!」
その声は、街の通信網を一時的にジャックし、サキモリの通信妨害装置に直接、送り込まれていく。嵐太の言葉は、ただの音ではなく、リノのプログラムと詩音のギターの波長を乗せた、新しい「信号」だった。
街中に設置されたサキモリの通信妨害装置から、一瞬だけ、ノイズが消えた。そして、その代わりに、悠真の壁画に描かれた色彩が、街の電子掲示板や、街灯の光となって、一瞬だけ輝きを放った。
「やった…!」
リノは、タブレットの画面に映し出された、街の通信が一時的に復旧したことを示すメッセージを見て、拳を握りしめた。
その瞬間、咲の「つながり」の能力が、完全に回復した。彼女の耳に、街の人々の心の声が、再び響き始めた。それは、これまで感じたことのない、強い共感の波だった。
詩音は、疲労困憊でその場に座り込んだ。しかし、彼女の顔には、達成感と、確かな希望が満ち溢れていた。彼女の歌は、もうただの音ではない。人々の心を繋ぐ「共鳴」の糸を紡ぎ出すための、強力な武器となったのだ。
「…私たちの歌は、まだ、消えていないんだね…」
詩音は、咲の顔を見上げ、涙を流しながら微笑んだ。咲もまた、その言葉に深く頷き、皆の結束を再確認した。
五人は、互いの能力を繋ぎ合わせることで、街の強固な障壁を打ち破る、新たな糸口を見つけた。彼らの物語は、今、新たな希望の光を掴んでいた。




