表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

4女神と何もないボク

作者: 常夏

教室に入った瞬間、空気が変わる。

いや、変わったのではない。最初から“こう”だっただけだ。

神谷直也の姿を認識したクラスメイトたちは、まるでそこに「存在しない」かのように、視線をそらし、会話の続きを始める。


「……」


静かに自分の席に向かう。机の上にチョークの粉が撒かれていた。

椅子には、透明な接着剤のようなものが塗られている。

ああ、今日は“その日”か。


「またか……」


小声でつぶやきながら、掃除用具入れから雑巾を持ってきて、机を拭く。

誰も見ていない。誰も、笑ってもいない。ただ、“見て見ぬふり”の空間が、教室に広がっている。


(慣れた。慣れたはずだったのに、なんでこんなに息苦しいんだろう)


そう思いながらも、体は勝手に動く。

チョークの粉を拭き、椅子を空き教室から拝借して、静かに腰を下ろす。


どこかの女子グループのひそひそ声が、耳に刺さる。


「また無視したら来なくなるかな」

「ていうかさ、あの子たち、なんでアイツにベッタリなの?」

「ほんと、気持ち悪いよね。優越感で付き合ってるとか?」


クスクスという笑い声。

それだけで胃がねじれるほど痛む。


神谷直也。高校二年。

平凡な成績、平凡な運動神経。取り柄という取り柄はなく、目立たない存在。


――だったはずなのに。


彼の周囲には、なぜか“彼女たち”がいた。


橘美桜。学年トップの天才。

水瀬瑠花。現役アイドル。

桐生紗耶。全国優勝の武道少女。

佐久間玲音。IT企業の代表。


彼女たちは皆、幼い頃からの幼馴染で、直也とは家が近く、小学生の頃まではいつも一緒にいた。


だが、それが今、直也の首を絞めていた。


昼休み、誰もいない廊下の端に移動し、コンビニのおにぎりをそっと取り出す。

教室で食べる勇気はない。何か言われるから。

いや、言われない。ただ“見られる”のが、耐えられない。


“なんであいつがあの子たちと一緒にいるの?”

“見下してるんでしょ、こっちの人間を”


思ってもないことを、勝手に背負わされる。

誤解は解けない。口を開けば言い訳になるから。


幼馴染たちは――優しかった。今でも変わらず声をかけてくる。

だけど、それが逆に、直也を孤立させていた。


美桜が話しかければ、周囲は「特別扱い」とささやく。

瑠花が笑えば、「あの程度で惚れるなんて」と嘲られる。

紗耶と廊下ですれ違えば、男子から睨まれる。

玲音と連絡をとれば、「スポンサー気取り」と言われる。


(全部、僕のせいだ)


そうやって、誰かが傷つくのなら、全部僕が悪いことにすればいい。


家に帰る道すがら、雨が降ってきた。

傘はない。買う気もない。


制服が濡れて重くなる。

その冷たさが、妙に心地よくて、歩みを止めなかった。


(僕がいなくなれば、全部うまくいくんじゃないか)

(そうしたら、彼女たちも、周りも、もう悩まずに済む)


そんな考えが頭をよぎる。

けれど、それを口に出せる人間は、ここにはいなかった。


人間不信なんて言葉じゃ足りない。

信じられないのは、他人じゃない。

自分自身だ。


(信じる価値なんて、あるのか? 僕に)


ポケットの中、玲音からの未読メッセージが光っていた。


『今日も無理しないでね』

『大丈夫、私は直也の味方だよ』


画面をすぐに消した。


味方なんか、いらない。

だって、そのやさしさが一番――こわいんだ。


翌日、教室に入った直也は、自分の机の上に置かれている一枚のプリントに目を止めた。

それは、美術の課題――『自画像を描こう』。


(……また面倒な)


しかし、その裏には走り書きされた文字があった。


「自画像って、鏡ないと描けないよね? でも、鏡見たら壊れるかもね(笑)」

読み終えた瞬間、頭が真っ白になった。

誰の字かはわからない。でも、わからなくても、いい。

クラスの“誰か”が、そう思ってる。

“ここには僕の居場所なんてない”と、わざわざ確認させるような悪意。


無言で丸めて、ゴミ箱に放った。

誰も見ていないふりをしている。けれど、確実に“見ていた”。


(なんで、こんなことに……)


彼女たちと距離を置けば、もっと楽になれるのか。

けれど、距離を取ろうとすれば、彼女たちは「何かあった?」と心配してくる。


やさしさが、憎い。

無自覚に“正しさ”を向けてくるそのまなざしが、何より苦しかった。


昼休み、直也は屋上へ逃げた。

ほとんど誰も来ないこの場所が、唯一息ができる場所だった。


と、そこに足音。

振り返れば――桐生紗耶。髪をひとつに結び、ジャージ姿で水筒を片手に立っていた。


「やっぱここにいた。弁当、持ってきた」


「……なんで、知ってるんだよ」


「直也が逃げたくなるタイミングくらい、わかるし」


そう言って彼女は、横に腰を下ろした。

変わらない。紗耶は昔から、無神経なほど真っ直ぐだった。


「今日、机にイタズラされてたでしょ。誰がやったの?」


「……いいよ、別に。いつものことだし」


「よくねぇよ」


彼女は静かに拳を握った。その指が白くなるほどに。


「私が見つけて、ぶっ飛ばすから」


「やめてくれよ……そういうのが一番困るんだ」


「なんで?」


「君が動くと、また僕が悪者になる。あいつにチクったとか、守ってもらってるとか……」


紗耶の表情が、かすかに歪んだ。


「……私が動いても、ダメなんだ?」


直也は答えられなかった。

目の前で拳を震わせている彼女の姿は、本気だった。

でも、それでも――その想いを受け止めるほど、自分は強くなかった。


「ごめん……俺が悪い。俺が、君たちを巻き込んでる」


「巻き込んでるんじゃなくて、一緒にいたいんだよ、私は」


直也は俯き、弁当のふたを開けた。

中には、唐揚げ、卵焼き、白いごはん。

家庭的で、温かくて、それが痛かった。


(あったかいものが、こんなに辛いって、なんだよ)


口に運ぶたび、喉が詰まりそうになる。

それでも、黙って食べた。

紗耶は何も言わず、ずっと横にいてくれた。


放課後。

教室を出ようとした瞬間、下駄箱の前で待ち構えていたのは――水瀬瑠花。


「直也ーっ! 一緒に帰ろ!」


大声でそう言う彼女に、下校中の生徒たちが一斉に振り返る。

その視線が、痛い。


「……やめてくれって言ったよね。目立つの、嫌なんだ」


「なんで? 昔みたいに一緒に帰るだけじゃん」


「昔と違うんだよ、今は」


「何が?」


「君が“アイドル”だから」


その言葉に、瑠花の笑顔が凍った。


「それって……つまり、“私と一緒にいると迷惑”ってこと?」


直也は言い返せなかった。

否定すれば「自意識過剰」だと言われる。

肯定すれば「人の好意を踏みにじるな」と怒られる。

結局、どう答えても傷つけてしまう。


「じゃあさ、私はどうしたらいいの?」


そう問いかけられて、直也は一歩だけ下がった。

自分に向けられる“愛情”が、爆弾のように思えた。


「……放っておいてくれ。それが一番楽なんだ」


「楽って……それ、本音?」


彼女の声は震えていた。

けれど直也は、それを無視するように踵を返した。


帰り道。

背中に、誰かの視線がある気がした。

振り返っても、誰もいない。


でも、自分を見て笑っている、侮蔑している、同情している、そんな“誰か”の存在が、ずっと付きまとっていた。


(信じるって、どうやるんだ……?)

(誰かを、じゃない。――自分を)


答えなんて出ないまま、今日もまた一日が終わっていく。


翌朝。

学校へ向かう足取りは重く、心はずっと下を向いていた。

まるで、誰かに見張られているような気がしてならない。

けれど、それは気のせいではなかった。


昇降口の下駄箱を開けると、いつもの上履きの中に何かが詰め込まれていた。

くしゃくしゃの紙。引っ張り出すと、真っ黒に殴り書きされた文字が浮かぶ。


「勘違い野郎。死ねよ」

何度目だろう。

「誰がやったのか」は、どうでもよかった。

ただ、“自分が憎まれている”という事実だけが、鉛のように心に沈んでいく。


(どうして僕が……)


そして、何よりも怖いのは――

その怒りが、もしかすると“正しいもの”ではないかと思ってしまう自分だった。


「おい神谷、ちょっといいか」


廊下で呼び止められた。振り向くと、クラスの男子、二人。

中学からの“知り合い”だったが、今では完全に敵意しか向けてこない。


「なんで昨日、あんな態度とってんの? 水瀬に冷たくすんの、お前の立場でさ」


「……僕の立場?」


「お前、勘違いしてんだよ。アイドルに好かれてる俺スゲーって顔してさ、結局お前、女たちに守られてるだけだろ?」


「ちが……」


「ちがう? じゃあなんだよ。答えてみろよ、“お前自身の価値”ってやつをさ」


その言葉に、返せるものは何一つなかった。

直也は唇を噛みしめて黙り込み、その沈黙を「答え」と受け取った彼らは、鼻で笑って去っていった。


(なんの価値もない。……そうだよ)


心が擦り切れていく音が、確かに聞こえた。


放課後。

自席で荷物をまとめていたところに、玲音がやってきた。


「帰ろう、一緒に」


「……ごめん。今日はひとりで帰る」


「でも――」


「玲音は、どうして僕に構うの? 君は、もっと……すごい人たちに囲まれているだろ」


玲音の目が、揺れた。


「直也は……“すごくない人”じゃないよ」


「そう言ってくれるのは、やさしいからだ。でも、それが余計に辛いんだ」


「え?」


「僕は、君たちのやさしさに何一つ応えられてない。君たちは僕なんかに使う時間を、もっと有意義にできるのに、どうして……」


言いながら、直也は涙が出そうになるのをこらえていた。

誰かの好意が、こんなに苦しいなんて。

いっそ、冷たく突き放してくれたら、楽なのに。


玲音は一歩、直也に近づいた。


「それでも、私は……直也にいてほしいと思ってる」


「……僕にはわからないよ。

なんでそんなふうに言えるのか。

なんで、君たちは僕を、そんなふうに見てくれるのか」


「それは――」


「ねえ、玲音。僕が明日、この世界から消えたとして、君たちはどれくらい本気で悲しむの?」


玲音は、その言葉に絶句した。

口を開きかけて、何も言えずに立ち尽くす。


直也はその沈黙を“答え”として受け取り、そっと背を向けた。


夜。

布団の中でスマホを見つめる。

玲音からの未読メッセージが、何通も届いていた。


【ごめん】

【ちゃんと伝えられなかった】

【でも、お願いだから、そんなこと言わないで】

【私は本気で、直也に……】


画面を閉じた。

誰かに「好かれる」ことが、ここまで苦しいのはなぜだろう。


(僕には、彼女たちの“気持ち”を信じる資格がない)


だって、信じたその先で裏切られたら、きっと、もう立ち直れないから。

だったら最初から拒絶していたほうが――そのほうが、きっと楽だから。


それから数日、直也は完全に自分の殻にこもった。

登校すれば無視。机の中に生ゴミ。椅子には画鋲。

誰がやったかも、どうしてやるのかも、もう気にならない。

ただ、“自分はそういう扱いを受ける存在”だと受け入れていた。


幼馴染たちが声をかけてくるたびに、胸が軋む。


「大丈夫? 何かあった?」


「いつでも話していいんだよ?」


「無理しないで、って言ってるでしょ」


「……あのな、何も言わなくても、そばにいるだけじゃダメか?」


どれも、本物の優しさだった。

どれも、まっすぐな言葉だった。


でも、直也にとってそれは、毒にしかならなかった。


(やめてくれ。そんなふうに優しくしないでくれ)


彼女たちがこちらを見れば見るほど、周囲の視線が冷たくなる。

彼女たちが声をかければかけるほど、“直也は守られてる”というレッテルが貼られる。


(違う。そうじゃないんだ。

 僕は、自分の力で何も変えられなくて、ただ“寄りかかってる”だけなんだ)


それが、みじめだった。

惨めで、悔しくて、でもどうしようもなくて。


ある日、教室の掲示板に、直也の名前が落書きされていた。

「キモい」「自殺しろ」「愛されてるとでも思ってるの?」


担任がそれに気づいて慌てて消したが、遅すぎた。

見た者たちは笑いながら、誰もそれを止めようとしなかった。


彼女たち――美桜、瑠花、紗耶、玲音――も、当然知っていた。

紗耶が、犯人を突き止めようとして教師に怒鳴り込んだ。

瑠花がSNSで“匿名の中傷”を痛烈に批判した。

玲音が法的措置を検討するとまで言った。


そして、美桜が直也の目をまっすぐに見て言った。


「私たちが、あなたを守るから」


その言葉が、直也にとっては、最も“暴力的”だった。


「やめてくれ……」


「え?」


「やめてくれ、頼むから……僕を、放っておいてくれ」


「どうして? 私たちは――」


「だから、それが辛いんだよ!」


思わず声を荒げた。

教室が、一瞬、静まり返った。


「君たちの“守る”って言葉が、どれだけ僕を追い詰めてるか、わからないのか!?」


「直也……」


「僕は、何も持ってない。ただの人間だ。

 君たちみたいな“凄い人たち”と一緒にいることで、周囲から妬まれて、憎まれて、それでも黙ってるしかない。

 君たちの好意を、拒んだら悪者にされる。でも、受け取っても、何も返せない自分が情けなくなるだけだ!」


手が震えていた。

息が、うまくできなかった。


「お願いだから……もう、近づかないでくれ。

 君たちは、僕なんかと関わるべき人間じゃない」


彼女たちは、誰も何も言えなかった。

ただ、目を見開き、立ち尽くすばかりだった。


それが答えだった。


その日を境に、幼馴染たちは距離を置き始めた。

無理に声をかけてくることも、帰り道を待っていることもなくなった。


代わりに――クラスの空気は、少し“静か”になった。

嫌がらせも、悪口も、まったく消えたわけじゃない。

でも、彼女たちの存在が“引き金”になっていたことだけは、明白だった。


(そうだ。これでいい。

 最初から、僕は独りなんだ)


誰にも迷惑をかけないように。

誰にも期待しないように。

誰にも、寄りかからないように。


その方が、ずっと楽だった。


放課後。

教室にひとり残って窓の外を見ていると、ふと誰かが立っている気配がした。


振り返ると、美桜が、教室の入り口にいた。


「……最後に、一つだけ」


その声は、いつもより弱く、震えていた。


「私たちは……直也のこと、助けたかったんじゃない。

 一緒にいたかっただけなんだよ」


それだけを言い残し、美桜は静かに去っていった。


直也は、何も返さなかった。

その背中を見ながら、何も言えない自分が、どこまでも情けなかった。


けれど――それでも、

信じることも、信じられることも、

今の自分には、到底できなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ