4女神と何もないボク
教室に入った瞬間、空気が変わる。
いや、変わったのではない。最初から“こう”だっただけだ。
神谷直也の姿を認識したクラスメイトたちは、まるでそこに「存在しない」かのように、視線をそらし、会話の続きを始める。
「……」
静かに自分の席に向かう。机の上にチョークの粉が撒かれていた。
椅子には、透明な接着剤のようなものが塗られている。
ああ、今日は“その日”か。
「またか……」
小声でつぶやきながら、掃除用具入れから雑巾を持ってきて、机を拭く。
誰も見ていない。誰も、笑ってもいない。ただ、“見て見ぬふり”の空間が、教室に広がっている。
(慣れた。慣れたはずだったのに、なんでこんなに息苦しいんだろう)
そう思いながらも、体は勝手に動く。
チョークの粉を拭き、椅子を空き教室から拝借して、静かに腰を下ろす。
どこかの女子グループのひそひそ声が、耳に刺さる。
「また無視したら来なくなるかな」
「ていうかさ、あの子たち、なんでアイツにベッタリなの?」
「ほんと、気持ち悪いよね。優越感で付き合ってるとか?」
クスクスという笑い声。
それだけで胃がねじれるほど痛む。
神谷直也。高校二年。
平凡な成績、平凡な運動神経。取り柄という取り柄はなく、目立たない存在。
――だったはずなのに。
彼の周囲には、なぜか“彼女たち”がいた。
橘美桜。学年トップの天才。
水瀬瑠花。現役アイドル。
桐生紗耶。全国優勝の武道少女。
佐久間玲音。IT企業の代表。
彼女たちは皆、幼い頃からの幼馴染で、直也とは家が近く、小学生の頃まではいつも一緒にいた。
だが、それが今、直也の首を絞めていた。
昼休み、誰もいない廊下の端に移動し、コンビニのおにぎりをそっと取り出す。
教室で食べる勇気はない。何か言われるから。
いや、言われない。ただ“見られる”のが、耐えられない。
“なんであいつがあの子たちと一緒にいるの?”
“見下してるんでしょ、こっちの人間を”
思ってもないことを、勝手に背負わされる。
誤解は解けない。口を開けば言い訳になるから。
幼馴染たちは――優しかった。今でも変わらず声をかけてくる。
だけど、それが逆に、直也を孤立させていた。
美桜が話しかければ、周囲は「特別扱い」とささやく。
瑠花が笑えば、「あの程度で惚れるなんて」と嘲られる。
紗耶と廊下ですれ違えば、男子から睨まれる。
玲音と連絡をとれば、「スポンサー気取り」と言われる。
(全部、僕のせいだ)
そうやって、誰かが傷つくのなら、全部僕が悪いことにすればいい。
家に帰る道すがら、雨が降ってきた。
傘はない。買う気もない。
制服が濡れて重くなる。
その冷たさが、妙に心地よくて、歩みを止めなかった。
(僕がいなくなれば、全部うまくいくんじゃないか)
(そうしたら、彼女たちも、周りも、もう悩まずに済む)
そんな考えが頭をよぎる。
けれど、それを口に出せる人間は、ここにはいなかった。
人間不信なんて言葉じゃ足りない。
信じられないのは、他人じゃない。
自分自身だ。
(信じる価値なんて、あるのか? 僕に)
ポケットの中、玲音からの未読メッセージが光っていた。
『今日も無理しないでね』
『大丈夫、私は直也の味方だよ』
画面をすぐに消した。
味方なんか、いらない。
だって、そのやさしさが一番――こわいんだ。
翌日、教室に入った直也は、自分の机の上に置かれている一枚のプリントに目を止めた。
それは、美術の課題――『自画像を描こう』。
(……また面倒な)
しかし、その裏には走り書きされた文字があった。
「自画像って、鏡ないと描けないよね? でも、鏡見たら壊れるかもね(笑)」
読み終えた瞬間、頭が真っ白になった。
誰の字かはわからない。でも、わからなくても、いい。
クラスの“誰か”が、そう思ってる。
“ここには僕の居場所なんてない”と、わざわざ確認させるような悪意。
無言で丸めて、ゴミ箱に放った。
誰も見ていないふりをしている。けれど、確実に“見ていた”。
(なんで、こんなことに……)
彼女たちと距離を置けば、もっと楽になれるのか。
けれど、距離を取ろうとすれば、彼女たちは「何かあった?」と心配してくる。
やさしさが、憎い。
無自覚に“正しさ”を向けてくるそのまなざしが、何より苦しかった。
昼休み、直也は屋上へ逃げた。
ほとんど誰も来ないこの場所が、唯一息ができる場所だった。
と、そこに足音。
振り返れば――桐生紗耶。髪をひとつに結び、ジャージ姿で水筒を片手に立っていた。
「やっぱここにいた。弁当、持ってきた」
「……なんで、知ってるんだよ」
「直也が逃げたくなるタイミングくらい、わかるし」
そう言って彼女は、横に腰を下ろした。
変わらない。紗耶は昔から、無神経なほど真っ直ぐだった。
「今日、机にイタズラされてたでしょ。誰がやったの?」
「……いいよ、別に。いつものことだし」
「よくねぇよ」
彼女は静かに拳を握った。その指が白くなるほどに。
「私が見つけて、ぶっ飛ばすから」
「やめてくれよ……そういうのが一番困るんだ」
「なんで?」
「君が動くと、また僕が悪者になる。あいつにチクったとか、守ってもらってるとか……」
紗耶の表情が、かすかに歪んだ。
「……私が動いても、ダメなんだ?」
直也は答えられなかった。
目の前で拳を震わせている彼女の姿は、本気だった。
でも、それでも――その想いを受け止めるほど、自分は強くなかった。
「ごめん……俺が悪い。俺が、君たちを巻き込んでる」
「巻き込んでるんじゃなくて、一緒にいたいんだよ、私は」
直也は俯き、弁当のふたを開けた。
中には、唐揚げ、卵焼き、白いごはん。
家庭的で、温かくて、それが痛かった。
(あったかいものが、こんなに辛いって、なんだよ)
口に運ぶたび、喉が詰まりそうになる。
それでも、黙って食べた。
紗耶は何も言わず、ずっと横にいてくれた。
放課後。
教室を出ようとした瞬間、下駄箱の前で待ち構えていたのは――水瀬瑠花。
「直也ーっ! 一緒に帰ろ!」
大声でそう言う彼女に、下校中の生徒たちが一斉に振り返る。
その視線が、痛い。
「……やめてくれって言ったよね。目立つの、嫌なんだ」
「なんで? 昔みたいに一緒に帰るだけじゃん」
「昔と違うんだよ、今は」
「何が?」
「君が“アイドル”だから」
その言葉に、瑠花の笑顔が凍った。
「それって……つまり、“私と一緒にいると迷惑”ってこと?」
直也は言い返せなかった。
否定すれば「自意識過剰」だと言われる。
肯定すれば「人の好意を踏みにじるな」と怒られる。
結局、どう答えても傷つけてしまう。
「じゃあさ、私はどうしたらいいの?」
そう問いかけられて、直也は一歩だけ下がった。
自分に向けられる“愛情”が、爆弾のように思えた。
「……放っておいてくれ。それが一番楽なんだ」
「楽って……それ、本音?」
彼女の声は震えていた。
けれど直也は、それを無視するように踵を返した。
帰り道。
背中に、誰かの視線がある気がした。
振り返っても、誰もいない。
でも、自分を見て笑っている、侮蔑している、同情している、そんな“誰か”の存在が、ずっと付きまとっていた。
(信じるって、どうやるんだ……?)
(誰かを、じゃない。――自分を)
答えなんて出ないまま、今日もまた一日が終わっていく。
翌朝。
学校へ向かう足取りは重く、心はずっと下を向いていた。
まるで、誰かに見張られているような気がしてならない。
けれど、それは気のせいではなかった。
昇降口の下駄箱を開けると、いつもの上履きの中に何かが詰め込まれていた。
くしゃくしゃの紙。引っ張り出すと、真っ黒に殴り書きされた文字が浮かぶ。
「勘違い野郎。死ねよ」
何度目だろう。
「誰がやったのか」は、どうでもよかった。
ただ、“自分が憎まれている”という事実だけが、鉛のように心に沈んでいく。
(どうして僕が……)
そして、何よりも怖いのは――
その怒りが、もしかすると“正しいもの”ではないかと思ってしまう自分だった。
「おい神谷、ちょっといいか」
廊下で呼び止められた。振り向くと、クラスの男子、二人。
中学からの“知り合い”だったが、今では完全に敵意しか向けてこない。
「なんで昨日、あんな態度とってんの? 水瀬に冷たくすんの、お前の立場でさ」
「……僕の立場?」
「お前、勘違いしてんだよ。アイドルに好かれてる俺スゲーって顔してさ、結局お前、女たちに守られてるだけだろ?」
「ちが……」
「ちがう? じゃあなんだよ。答えてみろよ、“お前自身の価値”ってやつをさ」
その言葉に、返せるものは何一つなかった。
直也は唇を噛みしめて黙り込み、その沈黙を「答え」と受け取った彼らは、鼻で笑って去っていった。
(なんの価値もない。……そうだよ)
心が擦り切れていく音が、確かに聞こえた。
放課後。
自席で荷物をまとめていたところに、玲音がやってきた。
「帰ろう、一緒に」
「……ごめん。今日はひとりで帰る」
「でも――」
「玲音は、どうして僕に構うの? 君は、もっと……すごい人たちに囲まれているだろ」
玲音の目が、揺れた。
「直也は……“すごくない人”じゃないよ」
「そう言ってくれるのは、やさしいからだ。でも、それが余計に辛いんだ」
「え?」
「僕は、君たちのやさしさに何一つ応えられてない。君たちは僕なんかに使う時間を、もっと有意義にできるのに、どうして……」
言いながら、直也は涙が出そうになるのをこらえていた。
誰かの好意が、こんなに苦しいなんて。
いっそ、冷たく突き放してくれたら、楽なのに。
玲音は一歩、直也に近づいた。
「それでも、私は……直也にいてほしいと思ってる」
「……僕にはわからないよ。
なんでそんなふうに言えるのか。
なんで、君たちは僕を、そんなふうに見てくれるのか」
「それは――」
「ねえ、玲音。僕が明日、この世界から消えたとして、君たちはどれくらい本気で悲しむの?」
玲音は、その言葉に絶句した。
口を開きかけて、何も言えずに立ち尽くす。
直也はその沈黙を“答え”として受け取り、そっと背を向けた。
夜。
布団の中でスマホを見つめる。
玲音からの未読メッセージが、何通も届いていた。
【ごめん】
【ちゃんと伝えられなかった】
【でも、お願いだから、そんなこと言わないで】
【私は本気で、直也に……】
画面を閉じた。
誰かに「好かれる」ことが、ここまで苦しいのはなぜだろう。
(僕には、彼女たちの“気持ち”を信じる資格がない)
だって、信じたその先で裏切られたら、きっと、もう立ち直れないから。
だったら最初から拒絶していたほうが――そのほうが、きっと楽だから。
それから数日、直也は完全に自分の殻にこもった。
登校すれば無視。机の中に生ゴミ。椅子には画鋲。
誰がやったかも、どうしてやるのかも、もう気にならない。
ただ、“自分はそういう扱いを受ける存在”だと受け入れていた。
幼馴染たちが声をかけてくるたびに、胸が軋む。
「大丈夫? 何かあった?」
「いつでも話していいんだよ?」
「無理しないで、って言ってるでしょ」
「……あのな、何も言わなくても、そばにいるだけじゃダメか?」
どれも、本物の優しさだった。
どれも、まっすぐな言葉だった。
でも、直也にとってそれは、毒にしかならなかった。
(やめてくれ。そんなふうに優しくしないでくれ)
彼女たちがこちらを見れば見るほど、周囲の視線が冷たくなる。
彼女たちが声をかければかけるほど、“直也は守られてる”というレッテルが貼られる。
(違う。そうじゃないんだ。
僕は、自分の力で何も変えられなくて、ただ“寄りかかってる”だけなんだ)
それが、みじめだった。
惨めで、悔しくて、でもどうしようもなくて。
ある日、教室の掲示板に、直也の名前が落書きされていた。
「キモい」「自殺しろ」「愛されてるとでも思ってるの?」
担任がそれに気づいて慌てて消したが、遅すぎた。
見た者たちは笑いながら、誰もそれを止めようとしなかった。
彼女たち――美桜、瑠花、紗耶、玲音――も、当然知っていた。
紗耶が、犯人を突き止めようとして教師に怒鳴り込んだ。
瑠花がSNSで“匿名の中傷”を痛烈に批判した。
玲音が法的措置を検討するとまで言った。
そして、美桜が直也の目をまっすぐに見て言った。
「私たちが、あなたを守るから」
その言葉が、直也にとっては、最も“暴力的”だった。
「やめてくれ……」
「え?」
「やめてくれ、頼むから……僕を、放っておいてくれ」
「どうして? 私たちは――」
「だから、それが辛いんだよ!」
思わず声を荒げた。
教室が、一瞬、静まり返った。
「君たちの“守る”って言葉が、どれだけ僕を追い詰めてるか、わからないのか!?」
「直也……」
「僕は、何も持ってない。ただの人間だ。
君たちみたいな“凄い人たち”と一緒にいることで、周囲から妬まれて、憎まれて、それでも黙ってるしかない。
君たちの好意を、拒んだら悪者にされる。でも、受け取っても、何も返せない自分が情けなくなるだけだ!」
手が震えていた。
息が、うまくできなかった。
「お願いだから……もう、近づかないでくれ。
君たちは、僕なんかと関わるべき人間じゃない」
彼女たちは、誰も何も言えなかった。
ただ、目を見開き、立ち尽くすばかりだった。
それが答えだった。
その日を境に、幼馴染たちは距離を置き始めた。
無理に声をかけてくることも、帰り道を待っていることもなくなった。
代わりに――クラスの空気は、少し“静か”になった。
嫌がらせも、悪口も、まったく消えたわけじゃない。
でも、彼女たちの存在が“引き金”になっていたことだけは、明白だった。
(そうだ。これでいい。
最初から、僕は独りなんだ)
誰にも迷惑をかけないように。
誰にも期待しないように。
誰にも、寄りかからないように。
その方が、ずっと楽だった。
放課後。
教室にひとり残って窓の外を見ていると、ふと誰かが立っている気配がした。
振り返ると、美桜が、教室の入り口にいた。
「……最後に、一つだけ」
その声は、いつもより弱く、震えていた。
「私たちは……直也のこと、助けたかったんじゃない。
一緒にいたかっただけなんだよ」
それだけを言い残し、美桜は静かに去っていった。
直也は、何も返さなかった。
その背中を見ながら、何も言えない自分が、どこまでも情けなかった。
けれど――それでも、
信じることも、信じられることも、
今の自分には、到底できなかった。