006話 まだ名もなき縁
「この先が冒険迷宮の中層だ」
俺の吐き出した言葉は、目の前の闇へと溶けて消えた。
冒険者迷宮の闇が、手ぐすねを引いて俺たちを待ち構えている――そんな錯覚にとらわれるほど、この先に広がる空気は冷たく、重かった。まるで見えない死神が息をひそめているようだ。
浅層に設置された光源――魔法協会による特殊な魔法植物製の松明――は、ここで尽きる。この先に灯りはない。闇と魔素に満ちた領域が広がっている。
松明のある範囲を、魔法協会は“浅層”と定義していた。
浅層は一本道が多く、既に開拓の進んだ安全圏。魔素濃度も地上と大差なく、危険な魔物も少ない。冒険者にとっての訓練場であり、腕試しの場でもある。
だが、これより先――“中層”は違う。
分岐が複雑になり、魔素濃度が跳ね上がる。ここから探索病のリスクが顕在化する。生息する魔物の強さも段違いで、浅層とは比較にならない危険度を孕んでいる。
それでも――人は挑む。
己の欲と夢、あるいは誇りや業のために。
「そ。いきましょう」
先を見据えるクロウェアの声音は、むしろ楽しげですらあった。
「ああ。<闇夜を見通す瞳>」
魔法で闇に視界を取り戻す。視界が白黒に変化し、周囲の輪郭が浮かび上がる。
「クロウェア、お前は……見えてるのか?」
「もちろん。むしろ見えないほうが不思議」
彼女はこともなげに言った。
下層で彼女と出会い、中層を経て地上に戻るまでの道のり――彼女は一度も視界の不自由を訴えなかった。魔法を使った形跡もないのに、足取りに迷いはなく、むしろ俺以上に正確だった。
「普通の人間は、こうじゃないんだよ……」
「グリンの“普通”の話でしょ?」
意味深な響きを含んだその言葉に、俺は無言で肩をすくめた。
それを見て、クロウェアはくすくすと笑う。視線を交わすまでもなく、俺の仕草を“見て”いた。
――やはり、見えているのだ。
それが種族の特性なのか、個人の能力なのかは知らないが、素直にうらやましい。
クロウェアの視線には悪意も下心もない。
だが、それはそれで居心地が悪かった。まるで自分の考えや弱さまで覗き見られているような、そんな錯覚に陥る。
この二日間、クロウェアと共に浅層を巡り、俺は彼女が実際には戦闘向きではないことを改めて理解していた。
だが――それでも、不安を感じないのはなぜだろう。
俺たちは、無言のまま中層へと歩を進めた。
空気が変わる。
ひとつ呼吸するだけで、肺が軋むような圧迫感。
魔素の濃度が高まっている。身体が、魔力の霧の中に沈んでいくような感覚があった。
クロウェアはどうかと視線を向けると、平然とした様子で歩を進めていた。
むしろ、彼女の方がこの場所に“馴染んで”いるようにも見える。
彼女の笑顔は無邪気だ。
だが、その裏に何が隠れているのかは、まだ俺には見えない。
少なくとも――この迷宮の“奥”に行くまでは。
それからしばらく、俺たちは黙々と魔物を狩り続けた。
彼女の剝ぎ取り技術は、目に見えて上達している。
その手際はまるで経験者のようで、俺が最初に魔石を取り出すのに何十分もかかったことが嘘のようだった。
麻袋に詰められていく魔石。
魔素の煌きと、微かな温もりが残る石たち。
それらを運ぶクロウェアの背が、次第に頼もしく見えてくるのが不思議だった。
――この女は、何者なんだろう。
日に日に強まっていくその問いに、今も答えは出ない。
だが、それでも今は構わない。謎のままでも一緒に進めると、そう思えた。
この旅路は、まだ始まったばかりなのだから。
§
中層に入ってからも、クロウェアの動きに乱れはなかった。むしろ、魔石の処理は浅層の頃よりさらに手際が良くなっている気がする。
刃の入れ方、石の取り出し方、血液や魔素の漏れを最小限に抑える手さばき――一朝一夕で身につくような技術ではない。なのに彼女は、それを当然のようにやってのける。
「今日はこのあたりで切り上げるか」
「うん。昨日よりいっぱい稼げたね」
振り返れば、クロウェアの腰には魔石を詰めた麻袋が二つ。昨日の倍はありそうだ。彼女が一歩踏み出すたびに、魔石の擦れ合う澄んだ音が響く。
俺が魔物の討ち漏らしさえしなければ、彼女は問題ないだろう。
逆に言えば――万一、俺のカバーが遅れれば、その瞬間に彼女は命を落とす可能性がある。しかし当の本人は、そのことに対して不安を抱いている様子は微塵もない。
俺を信頼しているのか。それとも、何か別の切り札を持っているのか。
――感覚的には、後者のように思えた。
クロウェアの背を追いながら、ふと思う。
この数日で、彼女の動きには少しも無理がなかった。
足取りも呼吸も、まるでこの空気に慣れきっているように自然で――長く地上にいた人間とは思えないほどだった。
まあ、妙な奴だ。そう片付けてしまえば、それまでだが。
「これ以上先に進むとなると、それ相応の準備が必要だな」
「じゃあ明日ね」
「……いや、三日後だ」
「えー?」
「魔素抜きをしないとならん」
俺の言葉に、クロウェアがきょとんとした顔を見せた。
「それって、また探索病?」
「ああ。潜れば潜るほど、体に魔素が溜まる。地上に戻って抜かないと、中毒になる可能性もある」
必要なのは、休息と浄化。それがこの迷宮で生き延びるための常識だ。
「悪いが……まだ完全にクロウェアを信じてるわけじゃないからな」
あえて突き放すように言うと、クロウェアは頬をふくらませた。
「冒険者って、案外臆病なんだ?」
「俺は冒険なんてものはもうやめたいんだ。だからこそ慎重にもなる」
そう言って、俺は彼女に背を向けて歩き出す。
迷宮は、甘くはない。だが、苦いばかりでもない。
そんな思いを胸に、俺は地上への道を辿った。
§
魔法協会へと帰ってきた俺たちは、例の銀髪碧眼の女職員へと帰還の報告とともに、魔石の換金を依頼する。
女職員は興奮気味に、目を輝かせながら魔石の入った袋を受け取り、しげしげと中を確認していた。
「久しぶりかもしれません。こんなにまとまった魔石の量を受け取るのは……いやぁ、なかなか壮観です」
「そいつはよかった。半分を現金で、半分は――預けておくよ」
「かしこまりました。現金と明細書を発行いたしますので、少々お待ちください」
受付の職員が奥へ引っ込むと、待ってましたとばかりにクロウェアが顔を寄せてきた。
「預けるって、何? それ、お金のこと?」
「あぁ。魔法協会は、認識票を持ってる冒険者に報酬を預かってくれるんだよ。高額報酬の依頼も多いし、いつも大金を持ち歩くわけにもいかないからな」
「ふーん。でも、ギンコウ? とかいう場所もあるんでしょ?」
彼女の言うとおり、預金の方法はいくつかある。銀行預金、協会預金、自宅保管。それぞれに一長一短があるが――
「たしかに銀行は利息がつく。長く預ければ預けるほど、利子が増える可能性もある。けど、魔法協会の預金には利息はない。何百年預けようが、増えることはない」
「じゃあ銀行のほうが得なんじゃないの?」
率直すぎる疑問だが、まあ当然か。
「人によるな。銀行は潰れる可能性がある。協会は潰れない。それに銀行だと、会長が代われば利息が変わったり、面倒な書類手続きが必要になる。協会なら、認識票ひとつで済む」
「その認識票、もし盗まれたら?」
「よくある疑問だな。魔法協会も馬鹿じゃない。認識票は登録者の血液情報で識別されてる。引き出すときは本人確認が必要だ。つまり、盗んでも意味がない」
「ふーん……意外とちゃんとしてるのね。安心したわ」
クロウェアは「へぇー」と無邪気に感心した声をあげた。今までずっと地上の常識から隔絶されたような反応ばかりしてきた彼女だが、金銭の話になると妙に真面目になる気がする。
ほどなくして女職員が戻ってきた。
「お待たせしました。こちらが現金、そしてこちらが認識票に記録された残高となります」
「ありがとう」
俺は明細書を受け取ると、それを細かく破いてカウンターに置く。これはいらぬ詮索やトラブルを避けるための、冒険者たちの間で暗黙の了解となっている行為だ。
財布に金を収めながら、クロウェアの顔を見る。
「お砂糖は買えそう?」
期待に満ちた目で俺を見上げてくるその顔は、ついさっきまで魔物の内臓に手を突っ込んでいた人物と同じだとは思えないほど純粋だった。金銭を気にしていたのはそのためたったか。
「箱で買ってやるよ」
「やったー!」
ぴょんと跳ねながら喜ぶ彼女の様子に、思わず口元が緩んだ。
俺たちはその足でなじみの店に立ち寄り、砂糖を箱ごと買い込むと、帰路についた。
町のはずれにある乗合馬車の停留所を目指して歩いていると、わき道の方から、くぐもった女性の声が聞こえてきた。
「い……って言っ……やん……」
嫌な予感がして視線を向けると、二人の男が一人の女性を路地に追い詰めていた。一人が前を塞ぎ、もう一人が女性の腕を掴んで、しつこく顔を近づけている。
「……どうりで見覚えがあると思った」
それは先日、魔法協会の前でぶつかったチンピラどもだった。
あいつら、またやらかしてやがる……。
俺が舌打ちしながら足を止めると、隣を歩いていたクロウェアも立ち止まり、路地の方へと視線をやった。
「罪な女ね」
「そうかもな」
彼女の言葉に気のない返事をしながら、俺は再び足を進めた。
――が、後ろからついてくるはずのクロウェアの足音が聞こえない。
振り返ると、彼女はその場に立ったままだった。
「助けないの?」
「助けてほしいのか?」
「好きにすればいいよ。グリンの人生だもの」
「なら――」
「それはそれとして、一人の女としては、グリンを軽蔑するけどね」
微笑んだ口元とは裏腹に、彼女の目は笑っていなかった。
――うわ、めんどくさい流れになってきたぞ……。
俺が頭を抱えかけたとき、クロウェアが何かを閃いたように息を吸い込んだ。
「そこの女! 助かりたかったら! 名前を呼んで! 『グリン』って! そうすれば助かるよ!」
「おいおいおい……!」
周囲が一斉にこちらを振り返る。俺の肩にずっしりとした視線が集まった。
そして――
「グ、グリン! 助けてッ!」
……マジかよ。
顔を覆いたくなる気持ちを抑えつつ、俺はため息をついた。
「……後で覚えておけよ」
恨みがましくクロウェアを睨みつけると、騒ぎの元へ歩み寄った。
「なんだてめぇ? 白馬の王子サマ気取りか? あぁん?」
「おい、待てよ。お前見覚えがあるな……。そうだ! 昨日のッ!」
「別に覚えてもらわなくて結構だ」
俺としてはもうこれ以上関りたくない。
「昨日恥をかかされた分、ここで血祭りにあげてやんよ!」
「今日は助けてくれる人間もいねぇからよぉ!」
そういうや否や、殴りかかってくる男たち。
身体強化の魔法こそ使っているようだが、それだけだ。
お粗末なものである。
先に殴りかかってきた男の腕を取り、相手の軸足を払うと、相手の体勢を崩す。
なかば宙に浮いた姿勢となった男を、自身の体を軸にして回転させると、後続の男へと投げ飛ばす。
「うげッ!」
「うぐッ!」
もつれあい地面に倒れ伏した二人の男を脇目に、素早く女性に近づくと、
「今のうちに! はやくッ!」
その手を取って走り出す。
「ま、まてッ! このッ!」
「おいッ! 早くどけッ!」
二人が立ち上がる前にその場を後にする。
傍観者を決め込んでいたクロウェアもあっという間に追い越す。
「あッ!」
驚くクロウェアを置き去りに、乗合馬車へと駆ける。
俺が女性の手を引いて乗合馬車へとその身を滑り込ましたとき、御者がちょうど出発の鈴を鳴らし始めたところであった。
馬車の客室から後ろを振り返ると、砂糖の入った木箱を抱えて走ってくるクロウェアの姿がみえた。
両手一杯に抱えた木箱のために、どこか余裕のない彼女のその姿を見て俺は留飲を下げる。
クロウェアが到着する前に、馬車はゆっくりと動き出した。
俺が客室の最後尾から、
「おーい、おいていくぞー」
とクロウェアを茶化したところ、なんと彼女は両腕に抱えていた砂糖の木箱を持ち直すと、腰にひねりを効かせて、手に持った木箱を馬車へ向かってものすごい勢いで射出した。
風を切って一直線に飛んでくる木箱。
あんなものが馬車に直撃すれば、馬車が吹き飛びかねない。
からかったことを後悔しつつ、最後尾からさらに身を乗り出すと、強化した体で馬車へとぶつかる前に木箱を受け止めた。
「ふぅ……ぐえッ!」
ほっとしたのもつかの間、視界に影が差したかと思うと、靴底が俺の視界を占めた。
クロウェアが俺の顔面にドロップキックを決めたのだ。
保護した女性が後ろから支えてくれなければ倒れていたかもしれない。
「いや、どんな加速……。拳じゃなくて足かよ……」
とにかく、クロウェアをからかうのはほどほどにしよう。
俺はこの日、そのことを学んだのであった。
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