005話 浅層の光、深層の影
この日は、俺はクロウェアを連れてコラの冒険迷宮へと向かっていた。
仲間はまだ見つかっておらず、この日は彼女を迷宮の環境に慣らすことが目的だ。
「へー、前に地上へ帰るときも思ったけど、上の階層は明るいのね」
後ろを振り返ると、クロウェアは歩きながらも興味津々といった様子で、あちこちに視線をさまよわせていた。
「ここは浅層だ。魔法協会が迷宮の入口から中層へと続く主要な道には松明を設置しているからな」
「あら。これ、人の手だったの? てっきり自然光かと思ったわ」
「自然光がこんなふうに灯るかよ……」
呆れ気味に答えると、クロウェアは「なるほどね」と頷いてから、壁に埋め込まれた松明をまじまじと見つめた。
彼女は冒険迷宮の浅層の常識すら知らない――
そう考えると、クロウェアという存在はますます謎に包まれていた。
彼女の正体について、俺の中に浮かぶ疑念は尽きない。
俺は歩みを緩めず、舌で唇を湿らせながら問う。
「……お前は、何者なんだ?」
その声は静かだったが、自分でもわかるほどに緊張が滲んでいた。
俺の足は止まらない。だが、警戒は怠っていない。
この女は瞬間移動のような技を使っていた。あれが魔法なのか特殊技能なのかすら判断できていない今、油断は命取りになる。
だが、腰の短剣に伸びかけた手を抑え込む。
問いかけに対するクロウェアの返事は――
「それって、そんなに大事?」
のんびりとした口調だった。まるで、俺の懸念が取るに足らないことかのように。
「もし私が、たとえば人をさらって食べる魔物だったら? グリンはどうするの? 私を斬る? 協会に突き出す? でもそうしたら、あなたの病気を治せる可能性が――消えるわよ?」
「それは……」
言葉が喉でつかえる。痛いところを突かれた。
たとえ怪しくても、俺はクロウェアを切り捨てることはできない。
彼女は、探索病から俺を救える“かもしれない”唯一の希望なのだ。
「ふふっ、そんなに考え込まないの。女の秘密を探るなんて、野暮な男のすることよ」
子どもをあやすような口ぶりだった。
この女は、俺の恐怖も、疑念も、打算も――すべて見抜いている。
その笑みに、なぜか寒気がした。
それでも、切れなかった。
今ここで斬り捨てれば、全てが終わる。それだけは理解している。
だが、それ以上に――彼女を手放すのが、怖かった。
「……はぁ。今はそういうことにしといてやるよ」
「うんうん。物分かりのいい男は好きよ」
「へーへー」
俺が舌打ちを我慢しながら前を向くと、進行方向の通路の先に、二体の猪型の魔物が姿を見せた。
こちらにはまだ気づいていない。
俺は指を口元に立ててクロウェアに合図を送ると、彼女も頷いて静かに気配を殺す――だが次の瞬間、彼女は肘を曲げ、両腕をだらりと前に出し、奇妙な忍び足で前進を始めた。
――どこで覚えたんだよ、その歩き方……。
思わずツッコミそうになるが、今は集中すべきと気を引き締める。
魔物たちは完全に背を向けていた。
俺は無言で地を蹴る。
気づいた魔物たちが振り返る。だが、遅い。
一体、二体と、連続で斬り伏せる。
断末魔の咆哮が静まったときには、すでにすべて終わっていた。
「やるじゃない」
遅れて到着したクロウェアが、興味深そうに地面に倒れた猪型魔物を見下ろしていた。
――さて、ここからが彼女の番だ。
「荷物持ちと言ったが、剝ぎ取りも任せる。経験は?」
「もちろん、ないわ!」
別に胸を張るところじゃない。
ちらりと胸元に視線が滑るが、すぐに目を逸らす。俺はプロだ。たぶん。
「なら、魔石の取り方だけでも覚えてくれ」
「はーい」
俺は片膝をついて魔物の胸元をナイフで切開し、心臓を露出させる。
「魔法を使う生物には、魔石と呼ばれる核がある。だいたいは心臓か頭。できるだけ傷つけないように抜き取るんだ」
俺は魔石をくり抜き、懐から布を取り出してぬぐう。
ごく小さな、しかし深紅に煌く宝石のような石だ。今日の収穫としては、まあ悪くない。
「さあ、やってみろ」
俺が魔石を拭いている間に、クロウェアは信じられない速さで、もう一体の魔物から魔石を取り出していた。
――おいおい、初めてってレベルじゃねぇぞ。
驚きと、わずかな嫉妬を覚えながら、俺は思わず小さく唸った。
「ふーん。これが魔石……ね、見て。宝石みたい」
クロウェアは取り出した魔石を布で丁寧に拭くと、松明の光にかざして、きらきらと笑った。まるで年頃の娘が宝飾店で指輪を見つけたかのような無邪気さだった。
「……そうだな。観賞用としても価値があるんだ。貴族連中は特にこういうのに目がない」
「ふーん。でも、ただの石じゃないでしょ? 魔力の結晶なんだから、使い道が他にもあるんじゃない?」
クロウェアがさりげなく尋ねてきたその言葉に、俺は内心で少し警戒を強めた。
知識を持っているのか、あるいは直感で見抜いてるのか……。
だが、余計な詮索は控えることにした。
「まあ、魔法道具の動力源になることもある。協会や貴族が買い取って研究用に使う場合もあるな。高品質な魔石なら、それ一つで一年分の生活費になることもある」
「それは夢があるわね」
魔石を光にかざしながら、クロウェアは楽しげに言った。
その横顔を見て、俺はふと口にした。
「……お前さ、本当に冒険迷宮のこと、何も知らないんだな」
「当たり前じゃない。潜るのは、これが初めてよ」
クロウェアは悪びれもせずに笑ったが、その言葉に俺は疑念を深めた。
「……魔法協会の名前くらい、知ってるだろ?」
可愛らしく小首を傾げたクロウェアは、
「うーん、聞いたことない」
「マジかよ」
「何その目。だって本当に知らないんだもの」
ふてくされたように頬を膨らませた彼女に、俺は思わずため息を漏らす。
「お前、どこで生きてきたんだよ……魔法協会を知らんとか……」
「その協会って、いつできたの?」
「二百年くらい前だって聞いている。迷宮の“浅層”が開かれたのと同じころだったな。そこから資源の採掘と調査管理を担う組織として、国と冒険者組合が合同で設立したんだよ」
「そっかー、私がミンチになってた時期ね」
なにかとんでもない言葉が聞こえて気がする。
「……ん?」
「なんでもない」
クロウェアがくすっと笑う。
その笑みの意味は、俺には測りかねた。
だが――それ以上を問いただすのはやめておいた。
問い詰めても、また煙に巻かれるのがオチだ。
「とにかく、お前が戦えないなら、仲間を探さないと中層から先は危険だ」
「ふーん。じゃあ探してきなさいよ」
「探して“こい”じゃない。“一緒に”だ」
「……えー、私、人付き合い苦手なんだけどな。だって、私、何百年ぶりに人と話してるんだから」
あっけらかんと言ってのけるクロウェアに、俺は鼻で笑った。
「はいはい。そういう寝言は寝て言え」
適当にあしらいながらも、どこか引っかかる一言だった。
けれどそれ以上深く考えるのはやめておく。こいつと話してると、いちいちまともに取り合ってたら精神がもたない。
からかうように笑うクロウェアに呆れながらも、俺は次の一手を考えていた。
信頼できる仲間を数人揃えた上で、再びコラの中層へ挑む。
それが俺の、そして俺たちの生き延びる道だ。
だが、その矢先――
前方から、冒険者らしき三人組が現れた。
若い。全員二十代前半だろう。まだ経験も浅いように見える。
会釈をしながらすれ違おうとしたその時だった。
「ごきげんよう」
クロウェアの能天気な声に、三人の反応は――無言だった。
まあ、よくあることだ。
冒険者はみんなが陽気な奴ばかりじゃない。無視されるのも日常茶飯事だ。
そう思って通り過ぎようとした瞬間、背後で音が響いた。
ドンッという重い音と、小さな悲鳴。
振り返ると、クロウェアが――
銀髪の少女の喉を、壁に押し付けていた。
「……おい、やめろ!」
俺は慌てて駆け寄る。
「ここで死んどく?」
ぞっとする声。目が据わっていた。まるで別人のように冷たい光を宿している。
彼女が何を感じ取ったのかは、わからない。
だがそのときのクロウェアの姿は、紛れもなく殺意そのものだった。
――なぜだ……? なぜ、ほんの一瞬のすれ違いに、ここまでの判断を下せる?
俺の脳裏をかすめたのは、彼女がただの少女でないという確信だけだった。
「その手を離せ。さもないと、迷宮の踏破は夢のまた夢だぞ」
俺が言葉を投げかけると、クロウェアはちらりとこちらを見た。
その視線が合った瞬間、まるで全身が氷に包まれたように肌が粟立つ。
しかし、それ以上の行動はなかった。
彼女は静かに手を離した。
押さえつけられていた銀髪の少女は、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
俺は咄嗟に身を屈めて、地面に倒れそうになった彼女を抱きとめた。
「あっぶね……」
手を当てると、かすかに呼吸がある。命に別状はなさそうだった。
「……なんのつもりだ、クロウェア」
俺が睨むと、彼女は少しだけ唇を尖らせて言った。
「気に入らなかったのよ。だけど私、優しいから一応聞いてみたの。“死んどく?”って」
その言葉の意味は、今の俺には理解できなかった。
だがクロウェアの目は本気だった。
怒りでも、気まぐれでもない。そこにあったのは、まるで異物の排除とでも言うような静かな確信だった。
俺には到底理解しきれない基準が、彼女の中にある。
俺には見えない何かが彼女には見えている。その真実になにか近寄りがたい闇を感じとった。
「……次からは、頼むから手を出す前に言え」
「善処するわ」
ひらひらと手を振る彼女を前にして、俺は深いため息をついた。
――やれやれ。まだまだ前途多難だ。
この女とともに迷宮を踏破する道が、容易なものであるはずもない。
だが、不思議と、そのことに対する絶望はなかった。
むしろ、どこか心の底で――「生きている」と実感している自分がいた。
二体の魔物を倒した後、俺たちはしばらく黙々と狩りを続けた。
浅層の通路は比較的整備されており、罠も少ない。だが、それでも油断すれば命を落とす可能性はある。
しばらく進んだ先、分かれ道が現れた。
片方は松明が灯る本道、もう片方は暗く、未踏のような雰囲気が漂っていた。
「どうする? 今日は安全重視じゃなかったの?」
クロウェアが問う。
俺は少し考えたあと、暗い方の道を選んだ。
「慣らしといっても、慣れるには多少の変化が必要だ。足場には気をつけろ」
「ふふ。いい判断だと思うわ」
褒められているのか皮肉なのかわからない笑顔を返されながらも、俺たちは薄暗い通路を進んだ。
すると、途中で奇妙な音が聞こえた。
金属の擦れる音――誰かが武器を研いでいるような、硬質な響きだ。
金属のこすれる音に導かれるように視線を向けると、そこには黒衣をまとった男が一人、通路の壁際に静かに座り込んでいた。
その足元には、魔物の屍が――まるで展示品のように、整然と横一列に並べられていた。
腹を裂かれた傷口すら、几帳面に同じ向きへと揃えられている。
異様な光景だった。まるで、それが“意味のある儀式”であるかのようにすら見える。
その男は、こちらに気づいても微動だにしない。
ただ、無言で刃を磨き続けていた。
「……行こう。関わらないほうがいい」
俺が小声でそう言って背を向けようとした瞬間、クロウェアがぽつりと呟いた。
「――あれも人じゃないわね」
「は?」
俺が聞き返すも、彼女はそれ以上なにも言わず、軽やかな足取りで通路の先へと歩いていった。
俺は慌てて彼女を追う。
その背中を見つめながら、再び確信した。
やはりクロウェアは、何かを“見抜く”目を持っている。
俺には見えないものが、彼女には見えているのだ。
そして――その能力が、これからの旅路で、どんな意味を持つのか。
それは、まだ誰にもわからなかった。
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