002話 口づけと契約
少女の叫び声とともに、洞窟が揺れた。
天井から崩れ落ちた小石が湖面に波紋を広げていく。
「……うるせぇ」
少女の悲鳴が耳を刺し、思わず両耳を押さえた。思考を切り裂くような甲高い声が、頭蓋の内側で反響する。
だが、目は逸らせない。
潰された蕾の中で、何かが這い出してくる。
ぐしゃりと潰れた花弁を押し分け、裸の女がゆっくりと地面に現れた。
膝をついた姿勢から、重力を無視するように体を起こして――ぬるりと立ち上がる。
真っ白に近い淡桃色の髪。整った胸元、引き締まった腰、豊かな尻。
全裸。何も隠していない。見惚れる暇などないはずなのに、呼吸が乱れる。
「誰よッ!? こんな乱暴な起こし方をしたのは――!」
涙目で頭を押さえ、陸地で辺りを見回す少女。
俺は無言で、腰の短剣にそっと手を添えた。
魔物か? 人か? どっちにしても、嫌な予感しかしない。
――と、気づけば、その顔が目の前にあった。
鼻先が触れそうな距離。
瞬き一つする間に彼我の距離の差がなくなっていた。
少女の吐息が頬を撫でる。瞳孔は金色の星形。湖の上に、音もなく立っている。
冷や汗が背中を伝う。
――やっぱり……ただの人間じゃない。
「話が通じないなら――殺そうかな」
ぞくりと、殺気が走る。
「聞こえてるよ。ただ驚いただけだ」
俺の返答と同時に、殺気はすっと霧散した。
「よかったよかった」
少女は花のように笑った。
だが、下手に視線を動かせば、美しすぎる裸体が目に入る。
今の俺にそんな余裕はない。ただ、生き延びることだけを考えていた。
「……お前は何者だ?」
「私の名前? 私はクロウェア。あなたは?」
あっさり名乗るあたり、少なくとも会話をする気はあるようだ。
「グリンだ」
「そっ。よろしくね、グリン」
「あ、あぁ」
だが、会話ができるからといって安心はできない。湖の上に立ってる時点で、常識は通用しない。
「で、クロウェアは……何者なんだ?」
「さあね?」
少女はケラケラと笑い、か細い首を右に傾けた。
ぶっ飛ばしたくなる衝動を、必死に飲み込んだ。
「……クロウェアは人間か?」
「さあね?」
今度は左に首を傾げた。
マジでぶっ飛ばしたい。
「クロウェアは人間に仇なす存在か?」
「さあね?」
首をまっすぐに戻し、にこっと笑った。
「ぶっ飛ばすぞ」
「ふふっ、そっちの顔の方が好き」
この女、楽しんでやがる。
「――ねぇ、取引しない?」
「しない」
即答。
「えー、ひどいー」
「こういうのはな、ろくでもない結末しかないって決まってんだよ」
富を願って家族を失った話。
不老を願ってスライムになった話。
美を願って孤独に潰れた話。
権力を得て暗殺された話。
枚挙に暇がない。
「――だから、その手には乗らない」
「じゃあ、せめてお願いを聞いて?」
「は?」
「私の願いを叶えてくれたら、グリンの願いも叶えてあげる。できる範囲で、ね?」
「なんなんだ、お前は……」
目の前の少女は、無邪気な顔をしながら魔性の匂いをまき散らしていた。
「いちおう聞くが、お前の願いってなんだ?」
クロウェアはにっこりと笑い、目を細めて口を開いた。
「冒険迷宮の踏破」
「……この冒険迷宮“コラ”のことか?」
「うん!」
――終わったな。
「それは無理だ。俺の願いはその真逆なんだよ」
「どういうこと?」
「俺は冒険者を、冒険者をやめたいんだ」
クロウェアは小首を傾げたまま、俺をただ見つめている。
「魔素中毒――探索病なんだよ。だから潜れない。俺の願いはこの病を克服して、地上で生きることだ」
明日を恐れない生活。
発作に怯えず、夜を越える日々。
ただそれだけが、今の俺のすべてだ。
なのに――
「じゃあ、問題ないね」
彼女はにっこりと笑っていた。瞳の奥が、微かに揺れた気がした。
「……おい、話聞いてたか?」
「うん。私、魔素中毒、治せるよ?」
「は?」
「嘘ついても意味ないじゃん」
自信満々でそう言うクロウェアに、俺は完全に置いていかれていた。
しかし、疑う俺を前に彼女は自信満々の様子だった。
その瞳の奥に、確信にも似た強い“意志”を感じた。
そのとき、ほんの一瞬だけ、彼女の顔から笑みが消えた。凛とした声が、空気を貫いた。
「これは契約。私を最奥まで連れていってくれたら、あなたを救ってあげる」
その声は、少女のものとは思えないほど低く、静かで、重かった。
クロウェアの金色の瞳が、深く、深く俺を見つめてくる。
俺は言葉を失い、ただ頷いた。気づけば息が止まっていた。
「じゃあ私を地上まで連れていって。大丈夫よ。人を取って食べたりなんかしないから」
渋る俺であったが、結局押し切られる形で彼女と地上へ戻ることにした。
それだけ俺にとっては探索病の治癒は抗えない誘惑だった。
それに――ほんの少しだけ、彼女に対する興味が勝っていた。
クロウェアが本当に人ならざる存在であるとしたら。
もしも、迷宮の意志そのものに近い存在なのだとしたら。
その彼女が「治せる」と言うのなら、もしかして……。
そういう“もしも”が、死にかけの冒険者には強すぎる麻薬だった。
だが同時に、俺の中に芽生えたのは、それまで感じたことのない、ちっぽけな光だった。
それは希望とも違う、ただ生にしがみつきたいという本能の叫びだった。
地上へ戻る。
彼女と共に、再び生の側へ。
それは、俺にとって、死に続けた日々からの、小さな脱出だった。
§
三日が経った。
クロウェアは宣言どおり、人を喰ったりもしなければ、騒ぎを起こすこともなかった。
もちろん、何の問題もなかったわけじゃない。文化の違い、常識の違い、価値観の違い――彼女の言動はしばしば俺の予想を超えてきたし、周囲と衝突しかけた場面も一度や二度じゃない。
だが、そこに悪意は感じなかった。
人間の飯を喜び、街の風景に感嘆し、見たことのない道具に目を輝かせる。まるで、どこか遠くからやってきた子ども――否、この世界とはまったく別の場所から来た存在のようにも思えた。
とはいえ、だからといって警戒を解ける相手でもない。
ふとした瞬間に見せる鋭い眼差し。何気ない会話の中に潜む意味深な沈黙。
まるで、俺の思考を読み取っているような言動に、心のどこかがざわつく。
何者なのか、と問えば、きっとまた「さあね?」と笑って返されるのだろう。
だが不思議と、その曖昧な答えに苛立ちは感じなかった。むしろ、そのミステリアスさが彼女の輪郭を際立たせているようで――俺は、少しずつ彼女の存在に慣れていった。
それは同時に、自分が変わり始めている証拠でもあった。
誰とも関わらず、ただ生き延びることだけを考えていた俺が。
他者を受け入れ、関心を向けるようになるなんて――まるで、別人のようだった。
……あるいは、それも探索病の一種なのかもしれないな、と。
どこか他人事のように、思わずにはいられなかった。
その日の夜。
俺は宿の部屋の椅子に腰を下ろし、じっと窓の外を見つめていた。
風が止み、外は静まり返っている。通りを行き交う人影もない。遠くで犬の鳴き声が、かすかに響いた。
クロウェアはというと、部屋の片隅、俺が貸した毛布にくるまり、猫のように丸くなっていた。目を閉じ、呼吸は穏やかで、まるで生まれてからずっとそこにいたかのような自然さで眠っている。
……信じられないくらい、馴染んでやがる。
それなのに、時折毛布の中から聞こえる寝言は、どうやってもこの世界の言葉じゃなかった。
そのたびに俺は、やはりこの少女は“こちら側”の存在じゃないのだと再認識する。
それでも、不思議と怖くはなかった。むしろ、どこか心地よさすら覚えていた。
だが今夜――そんな安寧が、試される。
「……本当に、治せるんだよな?」
低く絞り出すような声で、俺は尋ねた。
緊張と不安、そしてわずかな期待が、声に滲む。
クロウェアは毛布から顔だけを出し、目をぱちぱちと瞬かせてこちらを見た。
やがて、にっこりと笑う。
「うん。たぶんね」
「……そこは言い切ってくれよ」
苦笑したつもりだったが、唇は引きつっていた。
この三日で、俺の中の“何か”が、彼女を信じるようになっていたのは間違いない。
だが、それでもこの夜を乗り越えられるという確信はなかった。
「……いいさ。もし無理だったら、迷宮まで送ってくれ。それだけ頼む」
「任せて。おんぶは得意よ」
いつもの調子で返すクロウェアに、思わず小さく笑ってしまう。
そんな俺自身の変化に、少しだけ驚いた。
……それでも構わない。
どう転んでも、ここで一つの結論は出る。
そう、覚悟を決めていた――そのとき。
ドクン。
来た。
ドクン、ドクン――!
心臓の奥が焼けつくような激痛。
身体の芯を抉るような脈動。
視界が歪み、鼓膜が振動し、足元が傾ぐ。
倒れた椅子の音が遠くで聞こえる。コップが転がり、水が床に滲む。
……何度目の発作だろう。
だが、慣れることなど一度としてなかった。
「う、ぐ……!」
「これなら……!」
クロウェアの足音が、床を打つ音。
頬に触れた手のひらは、驚くほど冷たくて柔らかかった。
彼女の手が触れた瞬間、不思議と心臓の痛みがほんの僅かに緩和される。
その温もりに縋るように、意識を彼女の方へ向ける――
「ん……」
そして――唇が重なった。
柔らかく、甘く、どこか熱を持った感触。
優しいだけじゃない。確かに何かが、流れ込んできた。
舌が触れ合う。
甘さが舌の奥に染みわたる。
ドクン、ドクン……
トクン……
……ン……
痛みが、消えていた。
クロウェアがゆっくり顔を離す。
とろりと伸びた唇の橋が、やがて切れた。
「どう?」
「……嘘みたいに、痛みがない」
数え切れない薬も、どんな名医の手も届かなかった場所に、彼女の“なにか”が触れていた。
気づけば、涙が滲んでいた。
苦しみから解放されたというより、ようやく、誰かに救われたという事実に――。
喉の奥がひゅっと震え、浅く息を吸った。
こんな感覚、いつぶりだろうか。
死にたくない、と心から思ったのは。
誰かはずっと俺を引き留めてくれていた。
それでも、届かなかった。届かないふりをしていた。
でも今は違う。
この少女の手は、ただ黙って、俺の痛みに触れてくれた。
「……これで信じてくれた?」
クロウェアの声は、ただまっすぐで、あたたかい。
「……ああ。信じるよ」
理由も正体も、何もかもわからない。
それでもいい。
この痛みが消えたという“事実”は、すべての理屈を凌駕する。
ベッドに座るクロウェアの髪が揺れている。
月明かりに照らされて、まるで淡い霧のように、輪郭を曖昧にしていた。
ふと、脳裏をよぎる記憶がある。
数年前、探索者の一人が発作を起こしたときのことだ。
夜だった。灯りの届かない洞窟の中で、そいつは喉をかきむしり、血を吐いて倒れた。
「帰りたい」とうわごとを繰り返し、やがて息を引き取った。
それを見届けることになった俺がそいつを背負って地上へと戻ったが、誰も俺を責める者はいなかった。
――探索病にかかった者の死は、“仕方ないこと”だった。
あのときから、俺はずっと思っていた。
次は自分の番だと。
けれど今、こうして生きている。
誰かが俺の“運命”に手を伸ばしてくれた。
その事実に、胸が締めつけられるようだった。
「クロウェア……」
その名を呼ぶと、彼女はきょとんとした表情でこちらを見た。
まるで、何か特別なことをしたつもりもないように。
「ありがとう」
そう言うと、彼女はふにゃりと笑った。
子どもみたいな、でもどこか神秘的な笑みだった。
「ね、グリン」
彼女はふいに体を乗り出して、俺の手を取った。
「じゃあ、これで契約成立ってことでいい?」
「……契約?」
「うん。あなたは私を地上へ連れてきてくれた。私はあなたを救った。
だから、これからは一緒に“コラ”を踏破する仲間よ」
思わず息を呑んだ。
この女、ほんとに一歩も引かない。
「無茶言うな……」
「でも、本気で生きたいんでしょ?」
その一言が、深く胸に刺さる。
否定しようとした言葉が、喉の奥でつかえて出てこなかった。
たぶん、今ならまだ逃げられる。だが、その“たぶん”にしがみつくほど、俺はもう弱くなかった。
――そうだ。
俺は、まだ生きたいと思っている。
それなら――。
「……わかった。まずは、できることから始めよう」
「やった!」
クロウェアが無邪気に喜ぶ。
その姿を見て、俺も自然と笑みを浮かべていた。
この日から――
俺の時間が、もう一度、動き出す。
クロウェアと共に。
彼女がくれた、“明日”のために。
「明日を生きるために、今を命懸けで冒険しよう」
命懸けで、生きるための冒険を。