001話 冒険をやめた冒険者
過去に投稿した長編を、改めて丁寧に描き直しました。
はじめましての方も、そうでない方も、楽しんでいただけたら嬉しいです。
――冒険者なんてクソだ。
そう思わなかった日はなかった。
俺の心臓は、もう俺の意思じゃ止まらない。まるで誰かが地下へ潜れと命じているかのように、ドクン――ドクン――と、深層へ引きずり込むように脈を打つ。
「……またかよ……」
火酒の匂いが遠のく。喧騒も、光も、すべてが滲んで、歪んで、崩れていく。
この発作さえなければ――俺はまだ人間でいられた。
§
「うるへぇ……! 次の火酒をもっへこいッ!」
がなり声をあげた俺を、給仕の女が眉をひそめて去っていく。
酒場の鏡に映った俺は、緑の髪を濡らし、充血した緑の瞳で世界を睨んでいた。
誰が見てもただの酔っ払い。
だが違う。これは逃避だ。俺を蝕む“それ”から逃れる唯一の手段――のはずだった。
それなのに。
ドクン、ドクン……まただ。
まるで地の底から「戻ってこい」と呼ぶ声が、心臓を通して届いてくる。
――探索病。
冒険迷宮に呑まれた冒険者の末路。
俺には力があった。素質があった。野望があった。
ライバルたちとしのぎを削り、俺は冒険迷宮の踏破記録を更新した。
誰もが俺を、俺たちを称えた。誰も俺たちを無視することはできなかった。
まさしくこの世の春を謳歌していた。それが今や――
「ちょっと、グリンさん。やめてもらえます? うちはそういうお店じゃないんで」
給仕たちの冷たい声。
何人もが視線を逸らし、誰もが同情の目すら向けてこない。
つい数年前まで俺が、冒険者の中でも冒険迷宮を生業とする探索者として、その実欲と速さを称えられ、“紫電”と呼ばれていたことなど、もう誰も覚えていない。
「ママー! グリンさんがまた……」
給仕たちはゴミを見るような視線で俺を侮蔑するか、俺の視線からそそくさと逃げるように立ち去っていく。
「はぁ……」
給仕たちと入れ代わるように、奥から出てきたのは、筋骨隆々、女装姿のこの店の主。
化粧でごまかせない威圧感と貫禄。冒険者崩れで、誰よりも冒険者の末路を知っている。
「いつまでも過去の栄光にすがってても仕方ないのよ、グリン。未来を向きなさいな」
ママは先ほど頼んだ火酒の入ったジョッキを俺の目の前に置くと、その手に持っていたキセルをふかした。
ママの吐き出した紫煙が俺の視界を妨げる。
まるで同じだ。
今の俺にはもう未来が見えなかった。
『未来を向きなさい』
その言葉は、これまでにもう何度も聞いてきた。
だから今日も、俺は黙って火酒を煽った。温くなった液体が喉を焼く。
喉をやく熱、鼻を抜けていく酒精の独特の匂い、強い酒精により脳天に走る鈍い痛み。
過度に摂取した酒精により、肌はとっくに汗ばんでいた。
服も肌もすでに湿り気を帯びている。少し動くだけでも不快で、しかしそんなことさえも今の俺にはどうでもよかった。
もう何も感じたくない。ただ麻痺していたい。
あの頃の光を、もう一度掴みたいと願ったこともあった。
けれど、現実はただ無情で、俺を突き落とすばかりだった。
仲間は散り、名声は色褪せ、残ったのは身体の奥に巣食う魔素と、その副作用だけ。
孤独だった。喪失感は常に胸の内を満たし、深夜、誰もいない部屋で目を覚ますたび、胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。
それでも、生きている。なぜなのか、自分でもわからない。
ただ死ねないから、今日もこうして、火酒にすがっている。
過去の栄光は過去のものだ。だがそれを否定されればされるほど、俺は過去の幻影にしがみついてしまう。
誰かに忘れられたくない。誰かに必要とされたかった。
そんな矛盾を抱えたまま、俺は生きていた。
気づけば、周囲の視線も声も、すべて遠く感じられた。
まるで音のない世界に取り残されたような、そんな感覚。
酔いが回っているのか、それとも発作の兆候なのか。
だが俺はもう、それすらどうでもよかった。
そして――
ドクン。
また来た。
額に冷や汗。それは酒精の汗とは違う、冷たい汗。
酒におぼれることも許されない、激しい痛みが俺の内側から襲い掛かった。
世界がゆがむ。視界が反転する――いや、俺が倒れていくのだ。
ジョッキが酒場の床を叩き、中に入った液体がぶちまけられた。
床を濡らす液体に顔がつかる。何も感じなかった。暑さも冷たさも。痛みさえも。
それでも、どこか遠くの意識で、俺は考えていた。
――ああ、またか。
何度も、何度も繰り返してきた。
発作のたびに、俺は死の一歩手前まで行きながら、それでも潜るしかない現実を繰り返してきたのだ。
もう飽きたはずなのに。
それでもなお、生きようとしている自分が情けなくてたまらなかった。
痛みは一周回って薄まり、視界もぼやけてきた。心は静かで、何も感じなくなっていく。
ぼやけた視界の奥に、かすかな“明日”が見えた気がした。
気のせいだと笑い飛ばしたいのに、なぜか胸が疼いた。
それでも――まだ歩き出せなかった。
「きゃああああーーッ!!」
響き渡る給仕の悲鳴。
「グリンさん!? だれかッ、誰か助けて!」
誰かの叫びが聞こえた。
「探索病だ! 誰か、こいつを迷宮に放り込め!」
肩に背負われる感覚。店の外の風。そして、ママの声が耳の奥でこだまする。
「グリン。あなた、もう出禁よ」
はは、そりゃ困ったな。
また行きつけの店を探さなきゃ――
もう、笑うしかなかった。
§
目を開ければ、空が揺れていた。世界が滲んで見える。
探索病に侵された者たちにはそれ特有の発作があるため、探索者の立入を禁止しているところも少なくないというのに。俺たちは――俺は世界のつまはじきものだった。
肩を揺すられ、俺は背負われたまま意識を揺らす。
そして――重い体が地面に落とされた。
「ついたぞ。ったく、探索者はこれだから……」
声と同時に、蹴り。軽い一発が胸の中心のあたりに響く。
痛みはない。心臓の奥の、ずっと重たい痛みのほうがマシだった。
「ほんと、厄介な連中だよな、探索者ってのは」
捨て台詞と共に、懐から小袋が奪われる気配。金だったろう。だが、今の俺にとっては安い代償だ。
発作が収まっていく。
地下の空気――いや、魔素が漂う空間に近づいたことで、体が“落ち着き”を取り戻し始めた。
「まったく……」
立ち上がろうとするが、体は鉛のように重い。
それでも、潜らなければ――俺は死ぬ。
重たい足を一歩ずつ前に進め、迷宮の入口へと向かう。
冒険迷宮――地底に広がる、命と引き換えの場所。
浅層ではすれ違う者もいたが、誰も俺に声をかけない。
探索病は、同業の冒険者の中でも忌み嫌われていた。
それもそのはずだ。
探索病――それは魔素中毒の末期症状。
魔法協会が、探索病が重度の魔素中毒だと声明を出すまで、その病は探索者同士で罹患する流行病と信じられていた時期があったからだ。それゆえに――探索病。地下に濃密に漂う魔素を吸いすぎた俺たちの、最後の病。
冒険者とはジンクスを信じる生き物だ。
『利き足から冒険迷宮へ足を踏み入れる』
『雨が降った日にはもぐらない』
『宝箱に入っているお宝は一つ残す』。
そう言ったジンクスの例は枚挙にいとまがない。
『探索病の発作を発症している人には近づかない』
これもまた一つのジンクスだった。
魔素に触れるたび、体は強化され、術も高まり、己の限界を超える。
そして深くもぐるほど魔素は濃くなり、力も増す。
だがそれに体が慣れ、やがて体は魔素へと依存する。
依存した体は魔素がなければ、その機能を止め、やがて衰弱して死ぬ。
依存。崩壊。死。
……生きるために潜る。
だが、潜るほどに、死が近づく。
皮肉な話だ。
俺たち探索者は、自分の強さに殺される。
浅層の通路に等間隔で用意されていた松明の光が途切れる。
中層に入った証だ。肌が、魔素に触れてざらついた感覚を覚える。
「ふぅ、やっと動ける……」
脈は安定し、痛みは薄れ、汗が乾いていく。
この感じが“正常”だなんて、笑える。
あの頃は夢を見ていた。潜れば潜るほどに力が手に入ると思っていた。
今はただ、死なないために潜る。それだけだ。
中層の魔物を適度に捌きつつ、足を進める。
その手にはその途中で倒した魔物の牙が、現地調達の武器として握られていた。
さらに進んでいくと、下層への階段が見えた。
この先には、より濃い魔素が漂っている。
昔はこの場所に足を踏み入れるだけで興奮した。この先には栄光があると。
今や――ただの地獄。
「はは……もうちょっとだけ、魔素を貯めて……それから帰ろう」
俺は腰のダガーを確認し、震える手で階段を下り始めた。
この先に何があるかはわからない。
だが、確かなことがひとつある。
俺の命は、もう地上では繋がらない。
チリン――。
不意に、耳に鈴の音が届いた。
澄んだ、高く細い音。
この下層で、そんな音がするわけがない。
「……鈴?」
足を止めて耳を澄ます。音は一度だけで終わらなかった。
チリン……チリン……と、間隔をあけて繰り返されている。
方向は――奥の細道。
「罠か?」
疑念が首をもたげる。
知性を持った魔物の罠。あるいは、迷宮そのものの“気まぐれ”。
だけど、俺は思う。
――どうせ……このまま探索病でくたばるなら、罠でもいい。
軽く笑いながら、音のする方へ足を向けた。
道は狭く、人一人がやっと通れる幅。
魔物の気配はない。代わりに、空気が変わった。湿っていて、少し甘い。
小道の先には、ぽっかりと広がった洞窟。
中心には淡く青白く光る湖。
その真ん中には小さな陸地が浮かび、その上――
「……花?」
見上げれば、洞窟の天井から、巨大な蕾が逆さにぶら下がっていた。
明らかにおかしい。
この世界の常識から外れた存在感。
俺の背筋に冷たいものが走る。
「怪しすぎる……でも……」
俺の中の何かが、その蕾から目を離せなくなっていた。
気づけば手に持った魔物の牙を握り直していた。
「ちょっとだけ。ちょっとだけ覗いて、やばかったら逃げる」
そう自分に言い聞かせ、牙を放る。
魔法で強化された腕から放たれた牙は、音もなく蕾の根元を切り裂いた。
ドサッ。
蕾が陸地に落ちた。
中から粘ついた液体があふれ、湖面に広がる。
「やっちまった……か?」
焦りと期待が入り混じった視線を向けた、その瞬間。
「痛いったぁぁぁああああッッッッーーーー!!」
洞窟中に響き渡る、少女の悲鳴。
反響し、何度も耳に刺さる。
「人間……? 中に……?」
蕾の中にあったのは――人だ。
少女の髪は月光を思わせる淡い桃色で、湖の光を反射してきらめいていた。肌は陶器のように滑らかで、しかし確かな体温を感じさせる質感。まるで幻想から抜け出してきたような美しさだった。
俺は唾を飲み込み、無意識に一歩、足を踏み出していた。
この出会いが、俺の運命を大きく変えるとは、まだ知る由もなかった。
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