96.漁師
ジマーグニャがバジゴフィルメンテたちを連れて行った先は、港近くの酒場。
酒場の中に入ると、良く日焼けした男性ばかりが、酒と肴を楽しんでいる様子が広がっていた。
この店に充満する臭いに、生徒の何人かが顔を顰めて鼻を押さえ始める。
「なんだ、この臭い」
「腐ったスープのような臭いがするぞ」
声を潜めた苦情を耳にして、ジマーグニャは注意していなかったなと思い出した。
「この臭いは、海産物を焼いた際に出るものだ。海水の塩気と、海産物の身の匂いが混ざったものだな」
この説明に、多くの生徒が顔を更に歪める。
ジマーグニャが語った通り、この臭いは海産物を焼けば出る、当たり前の臭いだ。
つまり、この港町の地産の物を食べるのなら、この臭いはついてまわることになる。
なので、こんな臭いものが食べられるのかと、そう生徒たちが危惧してしまうことは仕方がないことだ。
ジマーグニャは海近く育ちなので気持ちはわからない。だが、過去の課外授業でこの町に来た際の同級生は、そう気持を吐露していた。
ともあれ、ジマーグニャは生徒たちを引き連れて、酒場の中へと踏み入る。
目的の人物は、この酒場の奥の卓にいることが、ジマーグニャは『大賢者』からの情報で知っている。
着いた先の卓に座っていたのは、十人の漁師たち。
誰もが日に焼けた筋骨隆々な見た目だが、その中の一人――ひときわ体と筋肉が大きくて髭面な男性に、ジマーグニャは視線を向ける。その髭面男性が、漁師を取りまとめる船主だからだ。
「クルティボロテ学園の課外授業で訪れた生徒たちだ。明日からの実地授業に、貴方がたの船を使わせてもらう礼を告げに来た」
ジマーグニャが声をかけると、楽しそうに酒を飲んでいた漁師たちは一気に不満そうな顔になる。そして漁師たちは、じろじろと無遠慮な視線を、生徒たちに向ける。
あからさまな値踏みの視線に、生徒の誰もが気分を害した顔になる。
ただ唯一、バジゴフィルメンテだけは、いつもの笑顔で漁師たちの視線を受け止めていた。
そのバジゴフィルメンテの余裕な表情に怒ったのか、ジマーグニャが目を向けているのとは別の漁師が立ち上がり、バジゴフィルメンテに掴みかかった。
「おいコラ。舐めてんじゃ――」
悪態を吐きながら腕を伸ばし、バジゴフィルメンテの服を掴んだ。
次の瞬間、その漁師が立ちコケしたかのように、急に地面に膝を着いた。
自分の体に何が起こったか分らない顔で地面に膝着く漁師に、バジゴフィルメンテから優しい声色で言葉が放たれた。
「どうやらお酒に酔っているようですね。急に立ち上がったから、足に来たんでしょう」
「はぁ!? これっぽっちの酒で酔うわけ」
バジゴフィルメンテの服を掴んだまま、漁師は立ち上がろうとする。しかし今度は、立ち上がろうとした勢いのままに横に倒れ、背中を地面に着いてしまう。
「ほら、酔っている。手を貸しますから、椅子に座って」
バジゴフィルメンテはニコニコと笑いながら、自身の手で服を掴む漁師の手を引きはがす。その漁師の手を取り、引き上げ、そして先ほどまで座っていた椅子に座らせた。
抵抗許さない早業に、椅子に座った後で漁師が再び立ち上がろうとする。
「だから酔ってないって――お、おお? た、立てない」
漁師は立ち上がろうとするが、椅子にくっ付いてしまったかのような挙動で、立ち上がることができない。
立ち上がる邪魔をしているのは、漁師の肩に乗せられた、バジゴフィルメンテの片手だろう。
しかし傍目から見ると、バジゴフィルメンテの手は軽く乗せているだけだ。漁師が立ち上がろうとするのを力づくで押さえているようには見えない。
漁師の方も、立ち上がろうとする邪魔をバジゴフィルメンテの手がしているとは感じ取れない様子で、手を退けようとすらしない。
そのまま奇妙な光景が続いたが、少しして船主の髭面男性が声を上げた。
「突っかかるような真似して悪かったな。それぐらいで許してくれ」
「ええ、わかりました」
バジゴフィルメンテが謝罪を受け入れて触れていた手を戻すと、立ち上がろうとして出来なかったはずの漁師が急に立ち上がった。
立ち上がった漁師は、再びバジゴフィルメンテに食ってかかろうとする様子を見せたが、船主に睨まれて椅子にスゴスゴと座り直した。
そうして場が収まったところで、船主がジマーグニャに顔を向けた。
「お前が引率の先生か?」
「いいや、こいつらの先輩だ。就職した先の仕事で、生徒と一緒に船に乗せてもらいたくてな」
「ふむ。まあ良いだろう。例年の生徒に比べて、多少は弁えた連中の用だし、不満は少なく済みそうだ」
消極的とはいえ、同意を受けられたことに、ジマーグニャは安堵した。
一方で船主は、先ほど船員をやりこめた、バジゴフィルメンテに興味を抱いたようだった。
「おい、そこの。こっちに来て、飯を食え」
バジゴフィルメンテは、呼ばれたのならと、ホイホイと船主の横まで歩いていった。
すると船主は、にやりと企んだ笑顔を浮かべ、ある皿を指した。
「これを食え。美味いぞ」
その皿に乗っていたのは、小粒の石の片側に穴が開いたような見た目の生き物。
ジマーグニャは前に来たこともあるため、その生き物を知っている。
貝という、硬い殻を持ち、岩に張り付いて暮らす生き物だ。
『大賢者』が教える知識によれば、川や湿地に似た種類の生き物がいるというが、ジマーグニャは川や湿地の貝を食べる人がいるとは聞いたことがなかった。
つまり、内陸の辺境生まれであるバジゴフィルメンテは、貝を食べたことがないはず。
見知らぬ食べ物を食べろと言われれば、誰だって恐れるもの。そして貝の身を食べるには、相応の手順がいる。
それにもかかわらず、船主はバジゴフィルメンテに食べろと言ってきた。
つまり船主は、バジゴフィルメンテが初めての食材で狼狽える姿で、仲間が失態を演じさせられて生まれた溜飲を下げようとしているのだ。
そう気づいて、ジマーグニャが抗議の声を上げようとする。
しかしその前に、バジゴフィルメンテは皿の上の貝を摘まみ上げると、机の上にあった金串を手に取った。そして金串で貝の身をほじって取り出すと、そのまま身をパクリと食べてしまった。
「少し苦味があるけど、美味しいね」
「お前、どうやって食べ方を」
「机にある殻の幾つかの中が空っぽなのと、そうじゃないのを見比べれば、中身を食べるものだってわかる。どうやって中身を食べるかは、普通の食卓にない金串を見ればわかるでしょ」
バジゴフィルメンテが説明しながら、続けざまに二つ三つと貝を食べる。
その姿に、船主の顔が面白いものを見たと言いたげに歪む。
「なら次に勧めるものが決まったな――おい、ケマーの煮たのを持ってきてくれ」
船主の大声に、酒場の料理人が湯だった大釜から引き上げた生き物を皿にのせて、持ってきた。
机に置かれた大皿の上には、蔓草のような足が何本もあり、頭が長方形に長い、謎の生き物。それが三匹。
その異様な見た目にして、これは本当に食べ物なのかと、生徒の誰もが恐怖に近い感情を目に浮かべる。
一方でバジゴフィルメンテは、食材を見る目ではないものの、興味深いものが出てきたという顔をしていた。
「酒場に置いてあるってことは、普通に食べられるものなのは確かだよね」
観察する内に味に興味が出てきた様子になると、バジゴフィルメンテはケマーという生き物の煮たものを手で掴み、頭の先から齧りついた。
その豪快に謎の生き物に齧りつく姿に、生徒たちから新たな悲鳴が上がる。
漁師たちも、バジゴフィルメンテが恐れずにケマーに齧りついたことに、呆気に取られている。
そんな視線の中、バジゴフィルメンテはケマーを食べ進めていき、多数ある細長い足まで全て食べてしまった。
「見た目の割に、噛むと味がして美味しかった。もう一つ食べても?」
「お、おお。食べていいぞ」
船主から許しが出たからと、バジゴフィルメンテはケマーをもう一匹食べ始めた。
そのもう一匹食べ終わる頃には、バジゴフィルメンテの肝の太さを気に入った様子の船主が、バジゴフィルメンテにあれもこれもと食べさせようとするようになった。
そうしてなし崩しに歓迎ムードになったため、他の生徒たちも他の漁師と打ち解けることができ、内陸出身者でも食べられそうな料理を提供してくれるようになった。
その光景を見てジマーグニャは、これ自分が世話する必要なかったんじゃないかなと、そんなことを考えていた。