108.中盤
アルクは、『天弓』から体の支配権を返してもらってから、学園建物の階段を駆け上がり、屋根上へと到着した。
息を突きつつ、離れた運動場へと視線を向ける。
運動場の中央に、バジゴフィルメンテの姿がある。
「ははっ。強者の余裕だな。倒せるものなら、倒してみせろということだろう」
アルクは、バジゴフィルメンテの行動の感想を呟きつつ、屋根上に準備していたものを展開していく。
背負っているのとは別の、矢が満載に入った矢筒三つを、アルクは手近に配置し直す。
そして、もしもバジゴフィルメンテがやってきた際に逃げられるように、屋根から地上へとロープを垂らす。
長丁場に備えて、水筒や乾物などの食料もあった。
この矢筒もロープも食料も、協力者――学園の生徒の一人の手によって、この場に運び込まれた物資だ。
「卑怯千万だが、勝つが大事よ」
アルクは、再び『天弓』に体を預ける。
『天弓』は、無表情となったアルクの体を動かして、屋根に置かれた矢筒の中から矢を五本取り出す。
五本の矢を器用に片手で扱いながら、その内の一本の矢を弓に番え、上空へと放った。
続けて流れるような動作で、次々に手にある矢を放っていく。
五本全てを放ち終えるまで、ほんの数秒の早業だ。
これが害獣駆除なら、役目を終えて『天弓』がアルクに体の支配権を戻す。
しかし、今日はそうはならない。
『天弓』は五本放った直後に、新たに二本の矢を矢筒から抜き出し、さらに上空へと放った。
その後も途切れることなく、次々に矢を放ち続ける。
矢の残量を気にしていないような、矢の物量に任せたような、そんな攻撃だ。
早々と、屋上に置いてあった三つの矢筒の内の一つが空になる。
だが、それでも『天弓』の行動は止まらず、二つ目の矢筒から矢を抜いては上空へと放っていく。
その放ち方も、多種多様だ。
基本的には上空に放つが、運動場中央にいるバジゴフィルメンテを直接狙い射ることもある。
上空に向けて放つにしても、バジゴフィルメンテがいるのとは関係のない方向へ放つこともある。
しかし、その全ての矢が、バジゴフィルメンテを襲う結果になっている。
害獣ならば即座に、凡百の剣士ならばとっくに、多少の才能を持つ使い手でも耐えきれないほど、『天弓』は矢を放っている。
それにも拘らず、運動場にいるバジゴフィルメンテは、飛来する矢を都度的確に対処して乗り越えている。
アルクは喉の渇きを覚え、『天弓』から体の支配権を返してもらい、水筒の水を口に含んで飲み込んだ。
「ふはっ。あのバジゴフィルメンテの顔。こちらの矢の妙技を、遊びだと思われているな」
運動場中央のバジゴフィルメンテは、次はどんな矢が来るのかと期待する表情をしていた。
まるで新たな遊びを教わった童のような顔を見たからか、アルクの顔から戦意が薄れる。
「残りの矢は、背にある分を含め、矢筒二つ半か」
量を心配する言葉を放った後で、アルクは首を横に振る。
それで疑念が払われたのか、再びアルクは『天弓』に体を預け、弓から矢が放たれ始める。
『天弓』が放つ矢の軌道は、さらに多様になった。
同時着弾や時間差着弾を行いつつ、最初からバジゴフィルメンテの直近を通るが当たらない軌道でも、矢を放つ。
もしもバジゴフィルメンテが、その直近の矢を対処したり避けたりすれば、その行動の隙を穿つような隠し矢が存在している。
しかしバジゴフィルメンテは、その企みを見切っているのか、単純に当たらないのなら対処する必要がないと思っているのか、その誘導には引っかからない。
ここで矢筒二つ目が空になり、『天弓』は三つ目に手を伸ばす。
だがここで、仕合の流れが変わった。
『天弓』は、また別の弓の射懸け方を始めたが、それではない。
バジゴフィルメンテが、飛来する矢を迎撃する姿が変わったのだ。
いままでは、的確に剣で矢を打ち払って迎撃していた。その結果、飛来した矢は剣によって砕かれ、運動場の地面に散乱する結果となっていた。
しかし、その状況が変わった。
バジゴフィルメンテは、飛来してくる矢に対し、剣をそっと矢の先に触れるように動かす。
すると矢は、ほんの少しだけ軌道がズレて、バジゴフィルメンテの体の直ぐ外を通って地面に突き刺さった。
そう、矢が破壊されなくなったのだ。
矢を破壊するという余分な力と動作がなくなったことで、バジゴフィルメンテの剣振りは更なる冴えを見せる。
それこそ、矢十本の同時着弾という『天弓』の妙技を、バジゴフィルメンテはその場に居ながらの軽い剣振りで全てを退けてしまった。
その光景に、いままで滑らかに矢を放っていた『天弓』の動きが一瞬止まった。
それは、自身のある戦技を防がれたことの衝撃のようにも、バジゴフィルメンテを倒す最善手が分らなくなったようにも見えた。
しかし『天弓』は再び動き出し、妙技を連発していく。
だが矢筒三つ目が空になっても、バジゴフィルメンテは運動場の上で健在だった。
アルクは、『天弓』から体の支配権を戻しながら、水筒の水を飲み、乾物を食んで、少しでも体に溜まった疲れを抜こうと試みる。
「こうまで通じないのか」
バジゴフィルメンテは『剣聖』で、アルクは『天弓』。
どちらも希少な戦闘職であるからには、天職の性能に大差はないはず。
それにも関わらず、『天弓』の猛烈な攻撃を、バジゴフィルメンテは防ぎきれている。
この段に至ってしまえば、誰の目にも明らかだ。
「天職に身を預けるよりも、天職を我が意のままにする方が、より強くなれるということなのだろうな」
アルクは悟ったような声を放ちながら、大きく一つ深呼吸をした。
それは真理を知って勝負を投げ出すためではなく、最後まで信念に殉じる意思を固める吐息だった。
アルクは『天弓』に体を任せる前に、背中にある矢筒の中から一本だけ矢を抜いて、足元に置いた。
その行動の意味についてわかるのは、背中の矢筒の中身が空になった後なのだろう。