105.『天弓』アルク・テデオ・アトシエル
『天弓』アルク・テデオ・アトシエルは、齢六十を超えた老人である。
この『天弓』の人生は、取るに足りない者であると、アルク自身がそう思っている。
アルクは、神に祝福された土地の一画を治めるアトシエル男爵家に生まれ、天職の儀で『天弓』という希少な戦闘職を得た。
しかし上の兄が三人もいたため、アルクがアトシエル男爵家を継ぐことは敵わない。
それならと天職を活かそうと、クルティボロテ学園で天職に身を任せる方法を完璧に修め、辺境へと渡って冒険者として活躍し、魔境を切り開いて土地持ち貴族になろうという夢を抱いた。
しかし学園で学ぶうちに、『天弓』という天職がクセの強い戦闘職であることが判明した。
『天弓』は、希少職。生中な剣や槍の相手なら、相手の間合いであろうと勝つことができる。
だが『天弓』の真骨頂は、他の弓系の天職に比べられないほどの長射程で、相手が視認できないところから一方的に矢を射かけて倒すことだった。
そして、この長射程での射撃は、魔境の森で行うにはとても不便だった。
距離が長くなればなるほど、木々の枝によって射線が塞がれてしまっているため、矢が通らないのだ。
それなら矢が通るまで近づくようにしたが、それだと他の弓の天職と大差ない戦果しか得られない。
魔境の森がダメならと、弓や平原で試してみた。
しかし外海の魔物は巨大に過ぎて弓矢では痛痒を与えることが精一杯で、神に祝福された土地に近い平原の魔境は過去に平定されてしまっていて活躍の場がなくなっていた。
こうして辺境での活躍が見込めなくなった。
だからアルクが進める道は、王家や実家とは別の貴族家に腕を見込まれて雇われることだけになった。
しかし、ここでも『天弓』の特性が足を引っ張った。
アルクが『天弓』に身を任せると、『天弓』は持ち味を活かすべく相手から大きく距離を取ろうとする。
この行動が、多選相手に背を向けて逃げ出しているようにしか見えないのだ。
貴族とは、体面を気にするもの。
例えば、貴族同士の揉め事で決闘があった場合、決闘に出る代表者は正々堂々を求められる。真っ当な戦い方を見せることで、自陣営の正当性を主張するためにだ。
だから『天弓』のように、戦闘開始で逃げ出し、相手の攻撃が届かない場所から矢を射かけるなんて真似は、決闘の代表者として相応しくないとなる。
そのため、アルクは学園での模擬戦では負けなしの成績だったが、王家はもとより貴族家からも声がかかることがなかった。
だが卒業後に、ただ一つの貴族家だけ、アルクを求めた。
それは、広大な耕作地を持つ、ベルリカルト公爵家。
でもベルリカルト公爵家がアルクに求めたのは、決闘の代表者や治安維持の戦力ではない。
耕作地を順繰りに巡りながら、遠くからでも獲物を発見して居抜ける目を使っての、害獣駆除の役割を求めた。
アルクは、学園で負けなしの成績なのに、こんな役目しかないのかと内心で憤慨した。
しかし、この役割を受け入れる以外に、アルクには道がなかった。
ベルリカルト公爵家の配下となり、アルクは『天弓』で害獣駆除を行う毎日を送ることになった。
自分から求めた役目ではないので、アルクにはやる気というものを抱けなかった。
だからアルクは、害獣駆除を行う地域に付いた瞬間から、自分の身を『天弓』に預ける。
そして矢筒が空になるまで『天弓』に矢を射らせた後で、矢と仕留めた害獣の回収を自力で行う。
集めた害獣の死骸は、その土地の家々へと配られて食料となり、そしてアルクは害獣駆除のお礼として酒と料理で歓待される。
一つの土地で作業を終えれば、次の土地へ。また次の土地へと移って、同じことをしていく。
このアルクの働きによって、ベルリカルト公爵家の収穫量は二割増し、平民からの人気も得ることになった。
ベルリカルト公爵家は、アルクの働きに報いるために臣下の末席と年俸を与え、さらに臣下の家から嫁を選んで結婚させた。
アルクは、働きを認められたことと、嫁を得られたことは嬉しかった。その嫁も出来た人物で、種まきから刈り入れの時期まで各地を巡回して家を空け続けるアルクの代わりに、家臣の役割を担ってくれて有難かった。
役目がない冬の間に妻と子供を設け、五人の子供に恵まれた。
その子供たちも、年月を経て、それぞれ天職に合った職をベルリカルト公爵家の領地で見つけて巣立っていった。
アルクもすっかりと年を取り、体に衰えが現れていた。
しかしこの段階になっても、アルクはどこか満足行かない心を感じていた。
私生活への不満はない。
だが、自身の天職の『天弓』は、こんな害獣駆除で終わって良いものではないという気持ちが、何時まで経っても消えない自覚がある。
『天弓』の性能から考えると、害獣駆除なんてものは性能の一割も出せない些末事だ。
『天弓』の全性能を発揮できる機会はないものかと、常に求める心がある自覚もある。
もっとも、ベルリカルト公爵家は平和で、『天球』の全性能を発揮する機会なんてあるはずがないことも、アルクは分っていた。
この消化不良の気持ちを抱えたまま老いさらばえるしかないのかと、アルクは残念に感じ続けていた。
そんな無念な気持ちが神に通じたのか、ある日、ベルリカルト公爵家の当主――アルクを雇い入れた人ではなく、代替わりした子供の方――に呼び出された。
そこで伝えられた内容に、アルクは眉を寄せる。
「この儂に、学生一人を、弓で狙い打てと?」
「当家としては、どうでもいい生徒なのだが、借りのある家から要望されてしまってね」
「その生徒が、何をしたというので?」
「天職の力を自意識下で使える方法を編み出したらしい。発揮される能力に問題がないのなら、天職を操ろうと、天職に操られようと、どちらでも良いと思うのだけどね。神地貴族の中には、そうは思わない人もいるのさ」
当主の軽口に、アルクは衝撃を受けていた。
天職に身を任せる方法は、アルクの人生で当然のこと。
逆に天職を自力で扱おうという発想を、一瞬でもしたことはなかった。
そして貴族に目を付けられるということは、その自意識下で天職を扱う方法は真に証明されていると思っていい。
「儂に――いや『天弓』に要望が来たということは」
「その生徒は、強すぎる、のだそうだ。王家を守る近衛騎士を集めても、一人で勝てるんじゃないかと噂されているほどなんだそうだよ」
「それは、なんとも」
アルクは、久しく感じていなかった、胸の中に火が灯る感触を得た。
その火は、戦意であり、対抗心であり、自分の人生を投げうつ覚悟であった。
「ご当主様。暇乞いをしたく思います」
「……話を受けて助かるよ。でも、うちの領地では害獣駆除は必須だからね。生き残ったら、また再雇用するから」
「我が家は、既に息子に継がせ、孫までいますが?」
「君以上の害獣駆除の腕前の人は、まで育ってないからね。うちの領土で死ぬまで働かせる気でいるから、生きて戻っておいでよ」
「こちらは、なんの罪もない学生を傷つけに行くのです。さて、生きて戻れるものですかな」
そんな会話の後で、アルクはベルリカルト公爵家の家臣から抜け、ただのアルクとして標的となる生徒がいる王都へと向かった。
依頼してきた貴族家の配下らしきものに借家を与えられ、食事と就寝で旅の疲れを取ってから、標的の元へと案内された。
その標的――バジゴフィルメンテという名の生徒は、貧民街で大暴れしていた。
アルクは、その光景を、少し離れた建物の上から見ていた。
長年、領地を巡りながら遠くの害獣を射抜いてきたため、アルクは素の状態でも遠くを見通せる目を獲得していたため、貧民を叩きのめすバジゴフィルメンテの姿が良く見えた。
「あやつを仕留めれば良いのだな?」
さっそくと弓矢を引こうとするが、依頼者の配下が止めてきた。
「出来るのでしたら、学園での勝負にて決着をつけていただきたく」
「ん? あの生徒を殺せば良いのではないのか?」
「こちらの要望としては、学園での決闘でバジゴフィルメンテに勝つことが最善で、闇討ちして殺すことは次善なのです」
「大衆の目の前でバジゴフィルメンテを負かすことで、例の天職を扱うという方法の評価を下げさせようというのだな。だがな――」
アルクは、自分の天職『天弓』が、決闘向きではないことを理解していた。
そして、心の中で何時か機会が来たらという思いから、解決法も思いついていた。
「――決闘の際は、実戦形式であると表明した方が良い。命の取り合いで、卑劣卑怯な手段を講じてもよいとな」
「それほどの相手だと見たのですか?」
バジゴフィルメンテの実力が、こちらが形振り構わない手段でないと倒せないとは、アルクは認めていなかった。
だが、そう勘違いさせたままでいいとも感じた。
「まずは、小手調べをせんとな」
アルクは、バジゴフィルメンテを標的と定めながら、『天弓』に体を預けた。
『天弓』はアルクの体を動かし、弓に番えた矢を目一杯まで引き絞った。
これほどまで満杯に弓を引いた経験は、アルクが『天弓』に目覚めてからは初めてだった。
バジゴフィルメンテを仕留めるには、これぐらいの威力がなければならないというのが、『天弓』の最適解なのだろうと、アルクは理解した。
(これは、卑怯千万な手段でないと倒せない相手であると、そう認めていい相手のようだ)
アルクが心の中でそう思っている間に、アルクの体はごく自然な動作で矢を放っていた。
弓から放たれた矢は、高速で空中を飛びながらも少し上空へと向かい、やがて重力に引っ張られて下降し始める。その軌道は、まさに『天弓』と言えるほど、綺麗な弧を描いていた。
その矢が向かう先は、先ほどバジゴフィルメンテが入っていった建物の玄関。
矢が到着する直前に、バジゴフィルメンテが玄関から出てきた。まるで未来を予知したようなタイミングだが、遠距離射撃でなら『天弓』にはそれが出来る。
まさに、矢が標的に当たらなければ嘘という、完璧な射撃。
だが矢は、バジゴフィルメンテが右手を振るった瞬間、標的から逸れた。
バジゴフィルメンテが目にも止まらない抜き放ちで剣を振るい、矢を切り裂いたのだと、アルクは遠くから見て理解した。
「ふむ。これで倒せないか。これは、なかなか骨が折れそうだ」
バジゴフィルメンテは、畑に現れる害獣とは比べ物にならないほど、難渋する標的だ。
そう理解して、アルクの顔には好戦的な笑みが浮かぶ。
生まれてからこの方、発揮することが叶わなかった『天弓』の全性能を発揮する相手として、不足はないと理解して。