第一話 出会いと鎮魂歌(六)
「……貴方様はお兄様が亡霊になっていると思っておられるのですか?」
そう聞き返した烑香は、すぐに迂闊だったと後悔した。
何かあるとすれば、それはきっと面倒事だ。なにせ静傑の兄はいずれも皇族。人格として静傑が嫌いなわけでなくとも、皇子の問題に立ち入ることは望まない。
(そもそもどのお兄さんかわからないけれど、みな不慮の事故や病で亡くなっていらっしゃる)
若くしてこの世を去っているのだから、後悔が強く残っている可能性があることは理解できる。ただ、だからといって『亡霊』や『鎮めたい』という言葉はいささか過激だとも感じる。
それはもし存在しているのであれば必ず何か悪いことが起きると言っているのだから。
運が良いのか悪いのか、今の声量で話を盗み聞くことができる範囲に人はいない。ゆえに烑香の声は静傑に届いたし、静傑が返答を濁すこともなかった。
「俺はそんなことはないと思っているよ。でも兄上たちの亡霊を見たと騒ぎ立てている者がいる。人魂が出た、兄上たちに違いないってね」
「それは……。恐れ多い噂が流れる場所があるのですね」
仮に本当に見たとしてもやんごとなき御方の話を、しかも悪い噂で流すなど烑香にとっては考えたこともなかったことである。
「ああ、ふざけてると思うだろ? 具体的に、昨年亡くなられた二人の兄上たちが現れている、だってさ」
名前に記憶はないが、昨年亡くなったというのは第三皇子と第四皇子だったはずだ。ただ、知らぬ皇子のことは烑香にとって大して興味が湧く話ではない。だから話の内容自体に別段感想は抱かなかったが、静傑の様子には
(でも、静傑殿下はお辛そう。いや、寂しそう……なのかな)
どちらの兄か、もしくは両方かもしれないが、親しい仲だったのだろう。
そう思ったとき、その状況なら静傑にとって霊よりも重要なことがあるのではと烑香は気付いた。
「……失礼なことを申し上げますが、お二人が未だ彷徨っていると噂が立っているのは貴方様のお立場が面倒なことになるのでは?」
二人の皇子の死により帝位継承の可能性が高くなる静傑が、何の噂にも巻き込まれないわけがない。まっすぐと目を見た烑香に静傑は肩を竦めた。
「その通りだよ。ちなみにすでに状況は最悪。兄上たちの魂が彷徨っている理由は御母堂に真実を伝えたがっているというものや、兄殺しの私を呪うためっていうものがあるよ。まあ、ほかにも諸々」
「噂の起点となる方は貴方様を陥れようとなさっているのですね」
「まぁ、俺の悪い噂が流されるなんて初めてじゃないし、またかという思いではあるんだけど。人魂の目撃者が派閥を問わず存在するという状況には参ってるね」
「婿入りを考えるほどに?」
「婿入りの件は兄上がご存命の時からもともと相談してたことだよ」
その言葉に烑香は少し驚いた。
そんな烑香の様子には、表情を確認する前に気付いていたらしい。
「俺の母親は身分が低くてね。俺が父上のあとを継いだところで後ろ盾がなさすぎるし、そもそも俺自身に教養が足りてないんだよ。一応そこそこ仕事はできるように頑張ってきたけど、さすがに国を傾けるつもりはない」
「……」
引きこもり故に烑香には詳しい事情は分からないが、まったく理解できないわけではない。後ろ盾がなくとも、父親の愛情で平穏に暮らせている自分と違い、静傑の父は親である以前に皇帝だ。肩入れと勘違いされるような行動はしないだろう。
『そこそこ』と本人が言っている仕事も、その能力と立場を得るために苦労しただろうことは想像ができる。
「ま、建前はそんなところで、もともと嫌なんだよね。俺。天辺に立つなんて柄じゃないし」
少しふざけた調子で言うその姿が本気なのか、演じているのか。
見ただけではきっとわからなかった。ただ、すべての言葉に嘘はない。嘘はないが、それがすべてではないという複雑な感情を抱えている。
そしてそう思っていると、不意に静傑が笑いだした。
「……あの。今、笑い始める場面ですか?」
「だってそれだけじゃわからない、ってあからさまな顔してるから」
「そんな顔、してました?」
「うん。まあ、俺に話させたいって顔でもないけど。まあ、仮に俺がやりたいっていっても優秀だった兄上や、その同腹の弟がとても優秀で能力が足元にも及ばないから。兄上が継いだ場合に支えられるよう名のある家の当主になるため婿入りを考えてたんだけど、それが弟になっても目的は継続してたっていうか」
「ものすごくお喋りなさいますね……」
聞きたいわけじゃなかったのに、と、少々恨みがましい目を烑香が向ければ、静傑は口の端を上げて返した。
「いいだろ、こんな愚痴を聞かせられる奴なんていないんだからさ」
「私にもだめでしょう」
「ははっ、きみは面倒くさいこと嫌いそうだから人に言うことはない。断言できる」
「……もういやです、この御方」
帰りたい、と当初とは別の意味でも思い始めたが、この相手が素直に返してくれるとは思えない。
「溜息をつくと幸せが逃げるよ」
「溜息じゃないです。これは腹を括ろうと決意してるところなんです。覚悟です」
「どういうこと?」
「……貴方様がお兄様方のことをここまで話されたのは、愚痴ではなく、わずかな可能性を考えたからでしょう。ありえないことを見たから掛けてみようって。……って、なんて顔ですか、それ」
目を丸くし驚きを隠せていない静傑の表情は、烑香が想像していなかったものだった。
「何か心当たりがあるのか?」
「ありませんよ。でも何かできたらいいと思いますし、私も霊の存在は信用していません。というか、仮にわたしが亡霊になったなら、多くの人目に付く前にさっさと始末つけます」
それをあなたもわかっているのでしょう、と目で訴える。それには当たり前だと帰ってくると烑香は思っていた。しかし静傑が浮かべていたのは微妙な表情だった。
「……きみが言ったことは俺も思っていることだ。だから兄上たちは少なくとも噂の亡霊ではない」
「もったいぶらないで早く仰って下さいませ」
「……ものすごく言いにくいが、俺自身も紫色の炎の玉のようなものは一度見ている」
「はい?」
「いや、わかる。見間違いだろうっていう話だろ? だが、兄上ではないにしても何らかの怪異……なんてもんはないと思ってたけど、じゃあアレはなんだって話になるんだ」
捲し立てるように言葉を発する静傑に烑香は「落ち着いてください、目立ちますよ」と溜息をつく。
「信じてないだろ……って、え」
「思いつめたような表情をしないでください。深刻な話を無理に軽くしようとしなくて構いませんから」
これまで真剣であったのに急に軽い調子にしたのは、きっと烑香がこの話を聞くことをやめるかもしれないと思ったからだ。皇子でありながら人懐こささえ感じるこの調子のよさも、きっと生まれながら周囲に話を聞いてもらえないという環境があった静傑が生み出した世渡りの術なのだろう。
「それより、紫の炎というのはどれほどの大きさですか」
「大きさ? そうだな、拳程度だと思うが、距離があった」
「なるほど。そんなに大きくない……となれば、解明できないことはないかもしれないですね」
心当たりがある内容に、烑香はやはり人魂など存在しないのでは、と思い始めた。そして烑香が何も言わずとも、思考はなんとなく伝わったらしい。
「確実な話じゃないですけど。ちょっと寄り道を致しません? 役立つものが見れるかもしれませんよ」
「いいのか」
「ええ。何なら組紐は今日行かなければいけないわけでもありませんし。そこそこ歩きますけれど」
「頼む」
軽口を返す余裕もないらしいことに、それもそうだろうなと烑香は納得した。
確実じゃないですからね、と念を押しながらもある程度烑香には自信もあった。
烑香たちは足を反転させた。そして細い道に入りながらも四半刻ほど歩き、荷車が多く行き交う地域に入った。
「……こんなところを知ってるんだ。家にずっといたんじゃないんだね」
「ええ。確かにお客様の前には出ていませんが、こっそり外には出ているんですよ。宮女に扮すればすぐに外にでれますので。で、目的地はここです」
そして一軒の店の前に立ち止まると、烑香は遠慮なく扉を開けた。
そこには一人の女性が煙管をふかしていた。




