第六話 銀の胡蝶は嘘を斬る(六)
静傑が嫣紅館を出たあと、予定通り漣家に向かい当主と話をしたと烑香が聞いたのは翌朝のことだった。
虎祐を確実に問い詰められるのでであれば捕縛の手伝い程度は惜しまないという確約をもらってきたと言った静傑は、だいぶ安堵していた様子だった。
漣家が五大名家とされているとしても、相手は皇帝に気に入られている虎祐だ。
「充分な協力ですね」
烑香の反応に静傑も素直に頷いた。
下手に対立すると家を潰されかねない相手だけに、積極的な協力までは期待していなかった。
漣家も危険な賭けには乗らないが、勝てる戦に乗らないつもりはないのだろう。実にわかりやすく助かる話だ。
「……静傑様、ひとつお願いがあるんですけれど」
「今?」
「ええ。この後もう少し詰めてから、明日仕掛けるんですよね? 私もご一緒します」
烑香の言葉に静傑は一瞬だけ固まったが、すぐに苦笑した。
「それってお願い? 宣言に聞こえるんだけど」
「いえ、お願いは別口で。男性の服をお借りできませんか? 変装しますので」
「そっちかぁ」
変わらぬ表情で言う静傑に、烑香も肩を竦めた。
「だって静傑様、心細いでしょう?」
「そんなことはない、と言いたいが、そんなことないことはない」
「正直ですけど面倒な言い回しですね」
自尊心がそうさせたのか、それとも冗談だったのか。
どちらにしても結局素直だと思ってしまった。
「俺のでも構わないかな。少し昔のなら、裾上げすれば使える服があると思うよ」
「それはもちろん」
「なら、貸すよ。あと……明日に備えた調べものに少し付き合ってほしい」
「そちらももちろん」
そんな会話をし経て最後の詰めを確認し、迎えた翌日。
烑香は男装し、静傑の側に控えていた。
多少落ち着かないのは、ここが確実に虎祐を待ち伏せをできる、皇帝が休む部屋の前だからだ。
尊ばれずとも皇子である静傑の行動を律せる者は皇族以外に存在しない。
何か言ったところで「父上にお会いすることをお前が止める権利があるのか?」と問えば相手は黙らざるを得ない。
それが理解できているからだろう、邪魔だという視線を向けても実際に苦言を呈す者はいなかった。
そうして誰もが関わらないようにしていたからだろう。
盆に薬を乗せ運んできた虎祐も聞いていなかったようで、酷く驚いた表情を浮かべていた。
「おや、静傑殿下ではございませんか」
「やはり、虎祐殿が運んでいるのだな」
「え? ええ、そうですが……どうかなさいましたか?」
頭から相手を無視するような話し方を、普段の静傑ならしない。
だから虎祐は訝しんだのだろうが、静傑には引き続き相手に合わせる気はなかった。
「褒められない行為だ、宰相殿。たとえ陛下が召し上がる薬であっても、貴殿が荷物持ちのように見えかねない。宰相という立場が軽んじられる可能性があるだろう」
「……私のことを心配してくださっているのですか?」
「虎祐殿は構わないと考えているようだが、貴殿が軽んじられることは、陛下の威光にも影響しかねない。従者を使うべきだと私は思う」
そうして静傑は烑香に向かって前に歩進むようを促した。
虎祐は素直に薬を烑香に渡した。どうせ短い距離だ、すぐに返される……そう思っていたのだろう。
「これでよろしいかな?」
「では、次にこの薬を宰相殿に飲んでもらおうか」
そう静傑が行った瞬間、目を見開いた。
「陛下が召し上がる薬を、私が奪うわけにはいかないでしょう」
虎祐は、状況が掴めていなかった。静傑が本気なのかふざけているのか、それすら理解していなかった。ただ、穏やかながら苛立った言葉をゆったりと告げる。
その苛立ちを感じてか、静傑はより笑みを深くした。
「ですが、その薬をそのまま陛下に召し上がっていただくわけにはいかない。……正しく毒見を済ませた薬ではないのだから」
静傑がはっきりと言うと、一瞬だけ虎祐は固まった。
ただしそれはほんの一瞬だけだ。
「毒見を済ませていないなど、とんでもない。薬師から預かったことは周囲も見ておりますし、薬師が毒味も済ませております」
「それはそうだろう。だが、ここに来るまでの間はあなたは一人。その間になにもなかったと、誰が証明できるんだ」
当然のことであってもこれまで虎祐が指摘されなかったのは、宰相という立場と皇帝からの絶対的信頼があるとされていたからだ。虎祐もそれを理解している。
だからこそ、見下していた静傑にこうして噛み付かれるなど想像もしていなかったことだろう。先日接待を受けたばかりだというのに。
「私をお疑いで? 静傑殿下は、陛下がこのようなことをお許しになるとお思いですか?」
「宰相殿は息子が父を想うことを断罪なさる御方だと言うのか? それに、これは宰相殿のためにもなる。このような、本来当然行われているべきことがらを失念しているなど、相当な怠慢だ」
「しかし」
「くどい。無駄な押し問答はしない。すべてお前が飲み干せ、虎祐。己に怠慢がないと言い切れるなら、できるであろう」
疑っているのではなく、断定している。
そう、静傑の言葉は告げていた。
準備不足で突撃し失敗してはいけないと、懸命に急ぎ最低限の情報が確信できたからこそ、踏み込んでいる。
そのことを、少なくとも準備が整っていることを虎祐も把握したように見えた。それでも大人しく薄情するつもりはないらしい。
「お前がとある薬を懐に入れていることは知っている」
「一体何を仰るのですか」
「その幻惑を見せる薬はお前の屋敷に咲いていた花から得たのか? 一人分の劇薬を用意する程度、できないことはないだろうな」
「ですから、何を」
「本当にわからぬというのであれば、飲め。知らぬと言うなら、出来るだろう」
有無を言わせぬ言葉に、ついに虎祐は言葉を詰まらせた。
自身の屋敷の花と皇帝の症状を結び付けられるとは思っていなかった、それ以前に自身の屋敷の花を調べられているとは思わなかったのだろう。そもそも今は花の時期ではないので、どういう状況で調べられたのかと驚いていることだろう。直接本人が花を世話している使用人から聞いた、などとは思ってもいないだろう。
虎祐も薬を飲めば一旦はこの状況から逃れられるとは思っていることだろう。そうなれば立て直しも可能かもしれない。
しかし飲めば自分がどういう状況になるか知っているからこそ、その条件が受け入れることを躊躇った。
一度効果が発現すれば一刻以上効果が継続するはずだ。加えて依存性が高い。だからこそすぐに飲むという決断が下せなかったのだろう。それが致命的な失敗であることを、一瞬失念してしまうほどに。
必要以上の間を置いてしまった時点で、自身の行いを肯定しているも同然だ。
静傑の目がさらに細められる。
「陛下を害し、兄たちを殺め、私を玉座に座らせることで傀儡にしたかったのか? それとも、私も殺し、駿傑も手に掛けようとしていたのか? はたまた、諸外国と共謀し反乱を起こす気だったのか。いずれにしても、陛下に仇なすもの放置するわけにはいかぬ」
静傑はそう言うと、一気に虎祐との距離を詰めた。
直後、相手を床に倒し、後ろ手で拘束した。
「死を持って償う覚悟は、もちろんあろうな?」
冷たい言葉は、しかし静傑の本質の一部なのだと烑香は感じた。
静傑の本質が皇族に向かないことも確かだ。
ただし責任感の強さと正義を貫く姿勢が潔癖すぎる気があるところが、彼の本当に向かない理由だとも思う。
「医官はお前の手引きした者でお前に頭が上がらんことだろう。だから自身が毒見を済ませれば問題ないと、甘い認識でいたのだろうな。そしてお前も、今更気付かれるとは思っていなかったのだろう」
「なに、を……」
「今から思えば、陛下が偉大過ぎた。薬で意識が朦朧としているだろう中、人前では常時変わらぬ対応を目指されていた。そうでなければ、早く気づけたものを、あのお方は皇帝としてご立派すぎた」
辛さの中に尊敬と後悔が混じる、聞いていて痛くなるような声だった。
ただ、きっとその声色に虎祐は気付いていない。声を聞かずともわかる。今の彼は現状を受け入れられない気持ちで頭がいっぱいだろう。
何も失敗していないはず、いつも通りのはず。いつも通り、何もなく、自分の計画が進んでいた、と。
(でも、だから失敗した)
いつも監視されているような緊張感があれば、このような事態にはならなかったかもしれない。四六時中監視があれば、虎祐もきっと見られていることに慣れてしまっていた。けれど虎祐は怪しい動きもない中、常に監視をつけるには危険な相手でもある。疎ましいからと言ってやすやすと監視を送ることができない、本人もそれを熟知しているからこそ今まで見られている認識すらなかった。
だが昨日から今に限っては、静傑が借りた漣家の者が一挙一動を盗み見ていた。
虎祐が医官のもとに赴くため机から離れた際に『忘れ物を届けるよう仰せ使いました』と告げ調べに入った者がいても、気配を完全に消して薬に不要物を混ぜたことを現認されていても、そして静傑に合図を送っていても、まったく気付いていなかった。
憎々し気に睨む虎祐と、それをもはや無表情で見下ろす静傑は対照的であった。
「……静傑様。もう、十分でございましょう」
「そうだな」
同意の返答を受け、烑香は手を挙げた。
すると久方ぶりに見る漣真の姿が現れる。
「ご活躍の静傑殿下、お約束通り引き取りにまいりました」
「ああ。連れて行ってくれ」
「な、貴様ら、私を誰だと思っている!?」
政治的にも対立している相手が現れたことで、混乱していた虎祐の意識は一気に戻ってきたらしい。だが拘束が緩むわけでもなければ、現実が変わるわけでもない。
「黙れ、罪人」
その短い静傑の言葉がすべてを表していた。
獣のような雄たけびが響き、けれど誰もそれに同情することなく、虎祐は引きずられ牢へ向かう。
「……ちくしょう」
そう呟いた静傑の心が落ち着くまで、烑香はただ隣に立っていた。
かける言葉は、ひとつもなかった。




