第六話 銀の胡蝶は嘘を斬る(四)
烑香は静傑が虎祐をどう誘ったのか詳細は聞いてはいない。ただ、想像以上に快く受け入れられたとは聞いた。
静傑は「批評させるのは不本意だけれど」と言っていたが、提案者なのだから烑香は気にしない。賞賛されようが貶されようが、烑香は自身が聞きたい音を求め続けるだけだ。
それに蝶仙だって「思ったよりも普通だ」と言われたこともあるのだ。嫉妬だという人もいるが、本心である人もいると思う。全員に肯定されるほうが嘘くさい。いずれにしても良いと口にさせられなかった時点で相手にとって烑香の音はその程度だったのだろうと割り切っている。
ただ、静傑がそれに納得することはなかったが。
「そういうところ、あの御方ってほんっと律儀ねぇ」
化粧を済ませた烑香はそう思わず口にしながら、化粧品の片付けにかかる。
ここは普段は空き部屋となっている嫣紅館の一室だ。空き部屋といっても決して粗末な部屋ではなく、むしろ上級祇女の部屋に不測の事態が起きた時のために用意されている、最上といっても差し支えない部屋だ。遣り手老婆いわく「相手が怪しもうが『今日は特別なお部屋にご案内いたします』とでも言っときゃなんとでもなるんだよ」ということらしい。
そんな部屋でなく離れでもある意味特別感があるのでよいのではと烑香は言ったが、あそこは客を想定していない、特に家具が粗末な部屋だと言われてしまった。
「それに何か企んでるんだろう? 前に随分身なりの良い色男を連れてきているらしいじゃないか」
「色男って……何か聞いたの?」
「ここで伝わらないわけがない話だろう。お前のことだ。勝ち目のある金儲けが絡んでるんだろ?」
「まぁ……」
詳細を話せるわけもない烑香は言葉を濁すが、やり手婆にはそれでも十分だったらしい。
「飯代だけで構わないよ。恩を売っておくほうが美味そうだ」
部屋代も不要だと言われるとは思っていなかった。大胆だが利を見逃さない、鼻が利くからこそ遣り手をやっているんだなと烑香は苦笑せざるを得なかった。
そして遣手婆は烑香に化粧品を貸すよう朱瑾に命じた。万が一でも顔を見られてはまずいので烑香も化粧をする気でいたが、人に借りるつもりはなかった。それも伝えたのだが「蝶仙が安もんを使ってるなんてバレたら大変だろう!」と逆に怒られた。朱瑾はただただ楽しそうだった。
そんなことがありつつ、用意を終えたところで人が近づいてくるのがわかった。
足音は三人。禿、静傑、虎祐のものだ。
烑香は深く息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。
勝負の時間の始まりだ。
そして部屋の前に到着する直前、烑香は二蝶を弾き始めた。
すると扉の向こうで息を呑む音が聞こえた。
禿は中の烑香に確認することなく扉を開き、中に二人を案内する。
「こちらにどうぞ。お食事をご用意をいたします」
そして二人が着席し、禿が席を外したところで烑香は弓を止めた。
「刹那の出会いに感謝を。今宵はどうか、音の響きをお楽しみくださいませ」
いつもより少しおっとりとした声質で烑香が声を発した。
すると虎祐がほう、と小さく応じる。
「噂には聞いていたが、本当に姿を見せない妓女がいるとは。理由を聞くのは無粋か?」
「好まれるものであれ、好まれざるものであれ、容姿を見ればそれらが雑音となり音色を邪魔すると私は考えております」
「なるほど。拘りが強く型破りだが、それを許されるだけの実力があると妓楼に見込まれているのか」
蝶仙がそういう者だと知っているからだろう、虎祐は尋ねはするものの、顔を見せないこと自体に不満はない様子だった。
理解した、と続けた虎祐は静傑のほうを向く。
「しかし貴方様がこちらの蝶と交流をお持ちだったとは。実際ここにきても現実感がありませんね」
「こうして話してみてもまだ信じられないか。用心深いことこの上ないな」
「もちろん美しい音色だとは思いましたよ。けれどほんの一節、二節聞いただけでは、噂ほどの実力なのかはわかりませんからね。私にとって既知の楽器であればともかく、これは知らぬ音。うまく誤魔化されているやもしれません」
虎祐はにこにこと冗談かのように静傑に言うが、実際は自身に向けられた挑発だろうなと烑香は思った。
普段なら喧嘩なら買うと言いたいところだが、静傑が話を聞き出すためにも今は虎祐を気分よくさせる方が先だ。
「蝶が本物か否か、ぜひ見極めてくださいませ。もしよろしければ、お好きな曲を希望してくださっても構いません」
「どのような曲でも知っていると?」
「それは試してくださいませ」
できると言い切るのは危険だ。かなりの曲を記憶しているとはいえ、知らない曲も当然ある。
しかし言ってはいけない一番の理由は、『蝶仙』は掴みどころのない相手でいなければいけないことだろう。
仮に知っているといったところで、虎祐は揚げ足をとるような曲を選ばないと烑香も踏んでいる。
自身が有能であると見せるためには、真正面から蝶仙を負かそうとするだろう。
一体どんな曲を選ぶだろうと烑香が思っていると、存外早く要望が口に出された。
「西王母に関する曲をお願いしよう。細かいことは任せるよ」
「かしこまりました」
そう答えながら、烑香は案外直球勝負で力量を図りに来たなと感じた。
西王母。
古代の神話に登場した当時は半人半獣とされていたが、時代とともにその存在は解釈が変更され、今では眉目秀麗な仙女とされている。彼女は不死の仙女であるという考え方もあり、不死の薬を持っていると記されている説もある。
(有名すぎる、一番有名と言っても過言ではない仙女。彼女を主題とした曲は数多い)
優美なもの、気高さを象徴するもの、慈愛にあふれるもの。
どのようなものを選ぶか、それすら評価の対象にしようとしているのだろう。
ただ、自身が名乗り始めたというわけでなくとも烑香も仙女と称され、今があるのだ。相手が最高仙女と称される西王母だろうが、楽で負けるつもりはない。
「では、一曲披露させていただきます」
烑香が選んだのは、力強く早い曲調で始まる曲だった。
軽快な拍子で進む曲は、二蝶と相性が良い。
凛とした強さはあるが、もともと柔らかな音を出す楽器だ。その性質から、強く聞こえすぎることはなく、強さの中に優しさを混ぜることができる。
だが序盤はあくまで強さの中で表しただけだ。
中盤、ゆったりと桃園で木漏れ日でまどろんでいるような音に転調する。
悠久の時を生きているとされる、西王母が一面しか持っていないと思わない。
弦を抑える指を小刻みに動かし、音を震わせる。振動音という技術は母が得意としていたものだ。
後半は再び軽快な調子に戻るが、前半と全く同じというわけではない。跳ねるような装飾音が増える。多くの仙女が西王母を囲い、そして宴をしているような、そんな印象で烑香は奏でる。
そして、やがて曲が終わる。
曲が終わってからしばらくは無音が続いた。
だが、虎祐が手を叩いた。




