第六話 銀の胡蝶は嘘を斬る(二)
静傑に付き従って向かった先で案内されたのは謁見の間ではなかった。
正式な面会ではなく私的な会話程度の扱いなのだろう、皇帝が執務の合間に使っている休憩用の部屋が指定された。
休憩室といえども室内は広く、烑香はかえって気が休まらなさそうな部屋だと思ってしまった。
その部屋に静傑に続き入室した烑香は顔を伏せて礼を執る。
「……来たか、静傑」
「御前を失礼いたします。また、朧烑香の同席を許していただきましたこと、感謝申し上げます」
「構わん。もう少し前に」
部屋の中にいたのは皇帝一人だけだった。
皇帝との距離は少しあるが、部屋全体の空気が重いように感じた。
なんとも言えない圧だなと、烑香も内心汗をかく。
まさか皇帝の面会に同席することになるなど、少し前の自分であれば信じられないことだろう。
「朧家の娘も来たのだな」
「……陛下にはご相談申し上げていた通り、私は臣籍降下を考え彼女に婚姻を申し込んでおりました。此度の話にも無関係ではないと考えております」
「気にはしない。許可を出したことを忘れてはいない」
正確には気にする余裕がないと言っているように烑香には聞こえた。
許しがないので顔を上げることはできないが、重圧を受ける中でも整わない呼吸音が耳に届く。これほどの息遣いをしているのであれば、酷い汗をかいているのかもしれない。体調が悪いとは聞いたが、このような状態で本当に気力で公務をこなせるのだろうか。
「では、静傑。聞きたいことを申せ」
「ありがとうございます。陛下、宰相が私に告げた……私が東宮に、という話に誤りはございませんか」
「ははっ、そのようなことを疑っているのか。何がわからんのだ」
「陛下はご存じの通り、私には足りないものが多すぎます」
何が足りない、と口にしなかったのは相手を責めるつもりがないからだろう。
家柄はともかく教養だの人脈だのは力添えがあればもう少し皇子としての力もあったかもしれない。
だが、言わずとも皇帝には通じたのか。乾いた短い笑いが少しだけ零れていた。
「足りぬことを気にするな。過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉もある」
「ですが」
「納得できぬか。だが、私が間違うたことがあったか?」
「……いいえ、ございません」
ここで是と言える者はいないだろう。
国で絶対的な存在である者の判断だ。
明確な理由を伝えられていない以上、この場で俊傑を推すことはかえって迷惑をかける結果に繋がるかもしれない。それに静傑に皇位を継承する権利が存在する限り、明らかに誤りがあると言い切れるものではない。
「わかればよい。お前は謙虚で自分の立ち位置を把握する理解力も……」
言葉は、途中で途切れた。
その代わりどさり、と倒れこむ音がした。
「陛下!? 大丈夫でございますか! 医官、医官をすぐ呼びます……!」
皇帝が倒れたのだと烑香が理解すると同時に静傑が飛び出した。
「気に、するな。薬で、収まる」
「ですが」
「余計、な、真似は、するな。私の言葉は絶対だ」
「では私が薬をお持ちします、すぐに戻りますので……!」
「よい、すぐに薬が届く時間となる。……だが、お前はやはり優しい子だな」
皇帝の声色が少しだけ柔らかくなると同時に、僅かに部屋の空気が軽くなった気がした。
だが、それは皇帝の荒れる息ですぐに途切れる。
「あ、安心するが、よ、い……じきに、我が国は、永遠に私の手の内に……」
そう言ったとき、皇帝がなお息を荒くし始めた。
「陛下、陛下!」
「あぁ、うっ……」
「烑香、医官を呼んできてくれ……!」
「割り込み、失礼いたします」
静傑が叫んだと同時、部屋の扉が開いた。
そして、そこにいたのは虎祐であった。
「すでに薬はご用意いたしております。静傑様、陛下が落ち着かれるよう下がっていただきます」
手際よく薬を用意する中、苦しそうにしながらも皇帝は薬を受け取るため、震える手を伸ばしていた。慣れているのだろう、虎祐はこの状況でも動じていなかった。
薬現在進行形で苦しんでいるとはいえ、目前で毒見をすることなく薬を口にする皇帝は虎祐のことをよほど信頼しているのだと窺える。
「静傑様」
虎祐が短く言葉を発する。出ていけ、ということなのだろう。
本来虎祐が静傑を追い出せる立場ではないはずだ。
だが、皇帝がそれを止めない。荒い息をしながら、静傑を見るだけだった。
「……お大事なさってください、陛下。何かあれば、すぐお呼びください」
そして静傑とともに烑香は退出した。
このまま麗藍のもとに戻るのだろうかと思っていたが、静傑が行き先を変えた。
付いて行っても良いのかと迷ったが、当たり前のようについてくると思っている様子に見えたので、烑香も特に尋ねることなく後に続いた。
ただ、珍しいとは思った。
静傑は烑香の前でこのようなわかりにくい行動をとったことがない。
向かった先は静傑の住まいのようであった。
「……勝手に付いてきちゃいましたけど、私が入って大丈夫な場所ですか」
「付いてきてくれたんでしょ。大丈夫だよ、ここの主は俺だし。人の出入りはあるけど、麗藍のところより常駐している人は少ないから密談にはちょうどいいし」
「まあ、本当に人が少ないですね。ここ」
耳を澄ませても、最低限の人の動きしか感じられない。
皇子にしてはやはり少ないと思うが本人が言っているのだから気にしていないのだろうと思ったが、静傑から返ってきたのは苦笑だった。
「本当に人の気配がよくわかるんだね」
「もうよくご存じでしょう?」
「知ってるけど、何回でも驚くよ。それにもはや耳がいいっていう範囲を超えている気がするんだけど」
そう静傑が言うので、烑香は肩を竦めた。
「凄く良いほうだとは思っていますよ。でも、私も自分の耳しか知らないので比べれないですよ」
「まあ、確かに比較はできないだろうけど。……どれくらいわかるものなの? 聞いたことがなかったなって今更思うんだけど」
「どれくらいというのが距離という意味だと人の数や建物の状況などでだいぶ変わってきますけど、とりあえず嘘か否かであれば、間違ったことはないと思います」
「それ、本当? 凄いよね」
「でも、静傑様も嘘の判断に自信をもっておられるでしょう?」
思わず首を傾げた烑香に、静傑は目を瞬かせた。
「ほら、否定しない。静傑様もできるんじゃないですか」
「いや、まぁ。でも烑香とは対人経験が違うし」
「確かに人数の違いはありますが、悪意にさらされ慣れているのは同じですよ。まあ、違和感が残る聞こえになるという以外、伝え辛いのですが。静傑様はどういう風に感じられているのですか?」
「平凡だが表情や仕草からの想像だよ。でも、そうか。初めて名乗った時から気付かれていたんだもんな」
「あれからまだそんなに時間が経ってないはずなんですけど、毎日の密度が濃いせいかそんな感じがしないです」
長年一人の時間が長かったからだろう。
ここでもさほど交流が多いわけでもないが、人と出会う数が桁違いであるし、同じ人に会う頻度も高い。会話も何年分したのだろうという気分だ。
「まあ、いい意味で濃ければいいんだがな。面倒事で悪い」
「共同戦線でしょう。以降私が面倒かけることもあるのですから気にしないでください。主に費用で」
「そっか。そうだな。それに、友人だしな」
「ええ、大事な友人ですとも」
だからこそ、見捨てるような真似はしない。
安全を確保されているからといって、問題がないわけではない。
そう改めて強く思いながら烑香は返答した。




