第二話 不誠実者の巣窟(六)
控えていれば良いはずだと言ったのは、一体誰だっただろうか。
そもそも妃相手に問答するなんて侍女代わりのやることなのだろうかと疑問が沸く。
(いや、もう今はそんなこと関係ない。やるしかない。さすがに麗藍様もご自身の思考を私が理解しているなんて思っていらっしゃらないないはず)
そしてその前提ならば先程既知の情報を隠したときと同様に烑香との距離感も偽装したいのだろう。単に初めて会ったばかりではなく、既に信頼関係がある間柄だ、と。申然相手に演奏を任されたことも、伏線だったのかもしれない。
(かといって、私にできる質問なんて一般的なものしかないのだけれど)
後宮のことを良く知らない烑香ができる質問など限られている。
それでいいのかと考えながら麗藍を見ると、小さく頷く様子が映る。自身の考えが正確に伝わったとは思わないが、表面上でも了承が得られたのだからと烑香は腹を括って口を開いた。
「では、麗藍殿下に代わり申し上げます。申然様、李研様。まずは噂の出所をお教えいただけますか?」
まずはごくごく当然の質問で合間を取りながら質問を組み立てようとしたのだが、意外なことに二人はぴくりと意外な反応をする。
(え、嘘でしょう?)
まさか尋ねられないと思っていたというのだろうか。
(いや、これは『私』に尋ねられるとは思っていなかっただけということかしら。妃より私のほうが格下であることは間違いないんだし)
しかし本来ならば妃に向かってこのような物言いはできなくとも、今は麗藍の許可があるのだから問題はない。けれど驚くこと自体は仕方がないことかもしれない。
それに、この動揺はそれだけが理由ではなかったように思う。
だからこそ烑香はこのまま突っ込んでみようと決意した。
「どちらの噂もとても意地の悪いものであり、不敬なものでございます。この情報を殿下にお伝えなさったということは、出所を罰すべきだと考えてのことでございますよね。例え殿下が噂の対処が不要と仰ったとしても、主を危機に陥る可能性があるのであれば、認識しておかねばなりません」
その言葉に申然は苦々しい表情を隠さず、李研は少し目を伏せた。
先に口を開いたのは李研であった。
「申し訳ございませんが私はまだ噂を聞いたばかりで、詳細について調査は行っておりません。噂については侍女からの又聞きでございます」
「私も、同じでございます!」
涼しい表情で言う李研に申然も乗りかかろうとした。
嘘にも限度があるだろうと思いつつ、烑香は表面上申し訳なさそうな表情を作った。
「失礼ですが、虚偽の発言は求めておりません。お二人とも、正直に仰ってくださいませ」
申然はともかく、李研は嘘を吐くときも息を吸うように自然であった。
ただ、やはり見逃しはしない。烑香は音だけには絶対の自信があるのだ。
「何をそちらこそ根拠にそのようなことを仰っているのですか」
「李研様はどうしても事実だと仰るのですね。では、麗藍殿下が本当はその噂をご承知の上、出所をご存知であるとしても変わりませんか?」
麗藍から直接聞いたわけではない。
だが、麗藍は『新たな情報をありがとう』と偽りの言葉を述べていた。彼女にとって新しい情報がないことは烑香は知っていた。出所を知っているか否かはわからないが、いずれ潰すつもりである噂というのも本当だ。
そして李研が、本当はだいぶ前から噂も詳細も知っており、侍女からの又聞きではないことを烑香は把握している。
だからこそ、一歩踏み込んだ。
本当に知らないのであれば、誤魔化せばいい。いくらでも誤魔化しようはある。
だが烑香の言葉に李研は顔色を変えた。
「私ではないわ!」
「……単純に罰そうという話ではございません。まずは意図の確認が必要でしょう。ご自身が噂の出所となった、その理由を」
自分ではないという嘘を口にしてもらったことは幸いだった。
悲鳴に近い、今までと異なる声の調子は誰が見ても動揺している。ひとまずこれでご要望は叶いましたかと烑香が目で訴えかければ、麗藍は後は引き受けたとばかりに頷き返す。
その無言のやりとりは二人の妃に十分な圧となった。
李研は苦虫を嚙み潰したような表情で顔を伏せ、言葉を紡いだ。
「……麗藍殿下様がご存知であるなら弁明は不要かと存じますが、申し上げます。私は、今流れているような大それた噂を流したわけではございません。ただ可能性の話をしていたところ、尾ひれがつきました」
「正直ね。あえて今日、私に話した理由は何かしら?」
「殿下がご興味を持ってくださったなら、噂の始末ができるかもしれないと思ったからでございます。私の手には負えぬものとなっておりますゆえ」
言葉自体に嘘はない。
しかしその目的が罪悪感からなのか、自身の保身なのかはわからない。それでも理由を求める必要まではないかと烑香は口を挟まなかった。判断をするのは麗藍だ。烑香は麗藍からの視線に頷き返すと、彼女は次に申然を見た。
「貴女はどうかしら?」
「……も、申し訳ございません。話を逸らせるため、聞いたことのある話を口にしたまででございます」
気まずそうに言う申然もまた、嘘はついていなかった。
「そう。では、二人とも帰って構わないわ」
沙汰は追って、と言わんばかりの笑みを麗藍は浮かべ、二人を追い出した。
「悪いわね、石榴妃。驚いたでしょう」
「いえ。後宮では色々見聞きしてきましたし、特に申然様のご様子は以前より存じておりましたので」
少し同情するような表情を浮かべる石榴に麗藍は目を伏せた。
「ところで、どうしてあなたも私に嘘を仰ったのかしら?」
「え?」
「この後宮で噂を一つもご存じないとは思わないわ」
それは烑香も気になったことだ。
噂など、積極的に聞こうとせずとも耳に入ってくることはある。中には注意したほうが良い事柄もあるだろう。それにもかかわらず長期間暮らしている石榴が知らないわけがないはずだ。石榴が知らずとも、侍女から一度も聞くことがなかったとは思い難い。
それとは別に烑香にはもう一つ気になることがあるが、まずは石榴と麗藍との話が終わってからだ。石榴はゆっくりと口を開いた。
「仰る通りでございます。ですが、申し上げるべき話だとは思わなかったのです」
申し訳なさそうな表情を浮かべる石榴は話を続ける。
「ですが、それは本来お聞きになった殿下が判断なさること。私の短慮でございました。今日はお疲れだと思いますのでお暇し、日を改めてお邪魔させていただけたらと存じます」
「では、少し待っていてください。せめてお菓子を用意させていただきます」
その指示で間もなく用意された菓子を手に、静かに一礼した石榴はこの場を後にした。
そしてその足音が聞こえないほど遠くなったと烑香が思った頃、麗藍が口を開いた。
「烑香は彼女のことをどう思う?」
「言い方が正確ではないかもしれませんが、他のお二人より身の振り方がお上手そうですね」
「ええ。石榴妃は一時期陛下が通われていたことがある程、ここでもうまくやっている妃よ。彼女は一時の気まぐれだと謙遜されていたけれど」
「なるほど、それでなのですね。納得しました」
「その言い方、何か気掛かりなことがあったのかしら?」
「いえ、自然な態度という以上の……偽ることのほうが本性であるようでしたので。彼女の言葉には何一つ本当のことはなく、不思議に思っていたのです。知っている噂を麗藍様に仰るべきことだと思わなかった、ということを含めて嘘でございます」
烑香の言葉に麗藍は一瞬動きを止めた後、「続けて」と短く言った。
「理由はわかりませんが、そもそも私は彼女が噂をしている場面に遭遇しているのです。ここに来るとき、宮女に扮した彼女が噂を主導している様子を」
「それは素晴らしい偶然だわ。詳細はわかるの? 私が把握していない情報だわ」
「いいえ。本当に偶然遭遇しただけですので。私もまさか妃の一人だとは思っておりませんでしたし。衣服も新品ではなく、使い込まれたものだったと思います」
もっとも仮に妃だと気付いたとして何かができたとも思わないのだが。
「どんな噂を流していたかも、じっくりとは聞いていないのよね」
「申し訳ございません。静傑殿下に関することであったのは聞いたのですが……」
「謝らないで。当然のことよ。でも……そうね。少し、手伝ってもらえるかしら?」
もちろんでございます、と答えたいところだが、烑香は少し躊躇った。
散々唐突な要求をしてきている麗藍だ。次に言われることも想像ができない。
けれど静傑に関わることかもしれないと思うと、断るという選択肢は持ちえなかった。
しかし烑香の了承にほんの僅かだが口の端を上げた麗藍の要求は、やはり想像の斜め上だった。
(私自身が調査する程度ならまだしも、麗藍様が侍女に変装してお調べになるなんて)
そしてそんな彼女を連れて歩くことになるなんて、烑香は思っていなかった。
(いや、もうこれはすでに侍女の仕事でもないわよね?)
烑香は自身が通ってきた道を麗藍と歩きながら、もはや心の中で乾いた笑みを漏らした。
玻璃宮にいるときより麗藍の歩幅は広く、動きも早い。背筋を伸ばし凛とした姿を見せている皇女の姿とは姿勢も異なっている。
(随分慣れていらっしゃること)
観察しただけでは再現できないだろう慣れた仕草に烑香は驚いた。
やけに衣装の用意も着替えも早かったと思ったが、彼女にとってはよくあることなのだろう。
(静傑様も他人のふりをして見合いをなさるし、なんというか……皇族の普通は私が想像している普通とはまったく異なるということなのかしら)
そう思っているうちに、烑香は麗藍から求められた場所に辿り着いた。
「ちょうどここですね。この場所から、あの木のあたりで二名の宮女とともに噂話をしているところを目撃しました」
「……ちょっと待って。この距離で声が聞こえるというの? 冗談でしょう」
「いえ、本当です。耳が良いことが自慢なのです」
「静傑お兄様からも耳が特に良いとは聞いていたけれど……本当に? あとで確認しても?」
「もちろんでございます」
「ちなみに、今はこの辺りに彼女はいないわね?」
「はい。同じ足音は聞こえません」
さすがに茶会を終えてすぐ噂話に興じることはないらしい。
ただ、再び現れる可能性は少なくない。
(これは数日、張り込むことになるのかしら)
変装が得意であっても麗藍が毎日抜け出すことは難しいだろう。そもそも麗藍を漣れて歩くのは烑香としても御免である。
ならば自分が見回りを務めることになるのだろうかと考えたが、玻璃宮に戻ると同時に麗藍から言いつけられたのは「ではまず、しばらくは私の芸事を見てもらいましょう」と本来の職務に関することのみであった。
思わず拍子抜けしたが「そうでもしないと、貴女を挟んで静傑に会う理由が作れないもの」と、明らかに企みがあるという表情を浮かべていた。
「もしかして……餌を撒くおつもりですか?」
そんな烑香の返答に、麗藍は一層笑みを深めた。