第二話 不誠実者の巣窟(一)
烑香宛てに第五皇子静傑からの縁談が舞い込んだことに朧家では衝撃が走った。
烽霜は漣家とのやり取りでも及び腰であったのに、相手が皇族となればその衝撃は数倍となる。そして烽霜以外の一族は相手として烑香が指定されたことに動揺を隠せていなかった。
(……まだ婿入りするっていう話はお父様で止めてくださっているけれど……それが伝われば、尚のこと動揺が走りそうね)
後ろ盾のない娘であっても、皇籍離脱をするとはいえ、相手は元皇族になる。今まで存在しないものとして扱っていた相手が、まったく違う立場となる。
その詳細が伝わらない状態であっても、異母妹は荒れた。銀髪であることも承知であるという旨は伝わっているので、猶更だった。私のほうが嫁ぐのに相応しいと強く主張する様は、これまで後継ぎは自分しかいないと主張していたことが嘘のようである。
(これで婿入りって知ったら、本当にどうなるんだろう)
追い出す気はないが、彼女がどのような選択をするのか烑香には想像ができなかった。
しかし、異母妹をなだめることは烑香にはできない。
できることはただただ縁談が持ち込まれると聞いていた日に合わせ纏めておいた荷物を携え、皇女のもとへ向かうことだけだ。
これだけ荒れている異母妹を見れば、もし皇女の元へ行く手はずが整っていなければ二蝶を含め多くの所持品を失ったことだっただろう。
「くれぐれも、くれぐれも無理はしないように。部屋はそのままにしておくからね」
あまりの展開にひどく心配している烽霜をなだめながら、烑香は「行ってきます」と言い家を出た。多少申し訳ないとは思ったが、烽霜の性格上一連の状況に対応できる気がしなかった。
屋敷までは静傑が迎えに来ると主張していたが、それは烑香が丁重に断った。
静傑は不服そうであったが、彼はあくまで皇子である。皇女の器楽の師になるための登城とはいえ、皇子が迎えにいくほどの者ではない。
そう烑香が主張すると、静傑は渋々引き下がったものの、やはり異母妹と正妻が家から出さないのではと懸念したらしく、代わりの迎えを寄越してきた。
「初めまして、朧烑香殿。私は虎祐。お迎えに上がりました」
まさか宰相が迎えにくるなど、誰が想像していようか。烽霜など、もはや魂が抜けかけているように見えた。
「……ご足労をお掛けし、誠に申し訳ございません」
馬車に乗り、烑香は深々と頭を下げた。
「お気になさらないよう。静傑様が他のものを指名なさろうとしていたところを、私が自ら名乗り出たのですから」
「ですが、お忙しいお立場でしょう」
「皇女様の師となられる方です。一度見ておきたいというのは、そうおかしなことではありません」
なるほど、お目付け役ということなのだろう。
皇族の師の選定は宰相の仕事ではない気がするが、関わろうと思えば関われる立場なのかもしれない。
(私の噂を知っていれば悪影響があるかもしれないと懸念されるのは不思議なことでもないしね)
ただ挑発的な言葉とは裏腹に、虎祐は烑香のことを気に入らなかったわけではなさそうだった。
「静傑殿下とご婚姻を予定されていると聞き及んでいますが」
「……それは殿下次第かと」
「殿下は婚姻のための儀式の手配をなさっていると存じております。良い方を見つけられたものですね」
どうやら虎祐は烑香が何であれ、口にする言葉は決めていたようだった。
しかしそれは祝福には聞こえなかった。良い方という言葉には『都合の良い方』という気持ちが隠れているようだった。温和な表情で紡がれるゆったりとした言葉に嘘があるわけではない。だから確実ではないが、裏のありそうな人間だと思わずにはいられない。
もっとも宰相まで昇り詰めるような人間が腹芸程度できなくてどうする、という話ではあるのだが。
(馬鹿にされているのかもしれないけれど、少なくとも拒否されていないのだから気にするだけ無駄ね)
なにより虎祐が本当に馬鹿にしているのであれば、烑香よりも静傑に対してだろう。静傑本人が自分の立場があまり強くないと言っていた。そんな皇子だからこそ、変わり者しか迎えられないのだろう、と。
しかしそうであれば、静傑本人の反応を知らないまま勝手な振舞をするのは憚られる。ただでさえも立ち位置に気をつけているだろう中、宰相との間に亀裂は入れたくないはずだ。
(それに余計なことは言わないという信頼のもと、この人の迎えを許可されたのかもしれないし)
幸い煽られることなら異母妹で慣れている。
それに虎祐は烑香個人をそれほど嫌っているわけではないようだ。
単に相応しいか否かという問題を見たいだけなのかもしれない。
あとは他愛もない世間話をちらほらと話すものの、特に大きな会話をすることもなく、後宮前まで送られた。
そしてそこからは女官に案内されることになった。
親切心からだろう、女官は道中後宮内の施設も説明を加えてくれた。真面目な女官だと思いながらありがたく話を聞いていると、途中で洗濯籠を持った宮女が立ち話をしている場面に遭遇した。
「それは本当? 静傑殿下が?」
「ええ」
「やっぱり、そうなの? でも、それって……」
まだ距離がある上、だいぶ顰められた声であるので少しだけ聞き取りづらい。
しかし聞こえないわけではない。静傑の名が出ている以上、聞いておいたほうがよい話かもしれないと思いながら烑香は集中して声を拾おうとしたが、それは女官によって遮られた。
「貴女たちは仕事を放棄しているのですか」
眉間に皺を寄せた女官の言葉に、宮女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。
女官は明らかに仕事の途中である様子が、許せなかったのだろう。しかし烑香としては内容が知れなかったことは少し残念だった。もう少し早くこの場に来ていれば内容も分かったかもしれないし、役に立つことだったかもしれないのに、と。
同時にこんな短時間で噂らしきものを聞くことになるのだから、静傑は相当苦労しているだろうなと同情せずにはいられなかった。
やがて職場となる玻璃宮に到着し、すぐに皇女と対面することになった。