変人の師匠に貰った加護がちょっと重たい 第一話 後編
透明な湖水に、黒々とした魚影が無数に走る。
外敵不在の迷宮の楽園で健やかに育った魚たちは、いったい何に怯えてこんなに逃げ惑うのだろうか。
ルシアンは、頭を悩ませる。
ここは、師匠と自分以外には人間も魔物も出入りしていない場所のはずである。
三十二層の安全地帯に未知の存在を予感して、ルシアンは言いようのない不安を感じる。
ルシアンの精密な索敵能力をもってしても、この階層に異変は感じられない。
きっと、気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、ルシアンは自らの気配を絶つ。
すぐに安心したのか、魚たちは次々と湖畔の浅瀬に再び泳ぎ寄る。
やはり魚たちは、ルシアンの人影に怯えて逃げたのだ。
師匠と二人で何度もここへ来ていた時には、どうだったろうか?
確かに以前から、魚は人影を見ればすぐに沖へと姿を隠していた。
ルシアンは、警戒心を解いて湖畔に戻った魚を一尾、素手で易々と捕らえてから、夕飯の支度にとりかかる。
そうしてルシアンは、安全地帯で数日間、心と体をのんびりと癒した。
やがて決心して、野営の痕跡を完全に消し、地上への道を再び歩み始めた。今度こそ本当に、人間の世界へ戻るために。
火山性ガスと水蒸気の吹き上がる三十一層は、楽園から一転して荒涼たる死の世界だった。
硫黄の臭気が立ち込める死の世界にも、鉱物質の硬い体を持つ魔物や、毒ガスを撒き散らす厄介な浮遊性の魔物が数多くいた。
地面からも致死性のガスを噴出する場所があり、ルシアンは索敵に連なる危機感知能力を最大限に上げて、通過した。
区切りとなる三十層には、階層主が待ち構えている。
遠い昔に遺棄された石切り場のような三十層は、冷えた火山から遠い昔に流れたような溶岩の塊や、地下深くで産出する様々な岩石が地上に顔を出す、鉱物の見本市だった。
その中央に、石の巨人像が立っている。
人が侵入しなければ動くことのない巨人は、階層全体に張り巡らせた探知の輪に間抜けな人間が触れるのを、辛抱強く待っている。
この巨人像が重点的に監視するのは、階層の出入り口とその周辺である。
師匠のネリーはそれを熟知していて、細心の注意を払い階層に足を踏み入れると、あとは大胆に正面から巨人像に接近し、すぐ横を抜けて出口へまっすぐ向かった。
二か所の出入り口付近さえ注意を払えば、像の周囲には探知の盲点がある。
ルシアンは師匠の教えに倣い難なく三十層を突破し、いよいよ人の踏み込んでいる領域へと達した。
二十九層は、岩穴の迷路。
ところどころに、魔物の湧く草地の広場がある。
ここは気配を隠して、通路の天井付近の凹凸に紛れ、時には逆さまになって通り抜ける。
天井で群れるデスバットとキラーワームの出現箇所だけは、しっかり記憶している。
他の冒険者には、まだ出会っていない。
ひょっとすると、この階層はまだ未達のままなのか?
それならば、もっと堂々と通路を歩けるのだが。
ルシアンは、もっと上層に行くまでは、単独で行動する姿を見られたくなかった。色々と、面倒なことになりそうだと思っていたのだ。
ルシアンがついに人の姿を見つけたのは、二十五層だった。
起伏のある波打つ大地に深い森林や背の低い植物が密生した藪が広がり、視界が悪く移動が難しい難所である。
そんな場所に虫と植物系の魔物が密集し、どんなに気配を消しても、戦闘が避けられない。
三か月ぶりに気配を現した人間は、すっかり魔物の群れに包囲されている。
だが、そのことにも気付かずに、混乱し、逃げ惑っていた。
面識のない六人組のパーティが逃げ惑う魔物の群れに、ソロのDランク冒険者であるルシアンが関わる理由は、どこにもない。無視して通り過ぎても、誰からも非難されることはないだろう。
だがそれはルシアンにとって、三か月ぶりに出会った生身の人間である。
見通しの悪い草藪の中だが、ルシアンには個々の魔物の気配を感じるし、これだけ大騒ぎをしていれば、襲われている人の気配もわかる。
パーティは、大型の芋虫であるキャタピラーとその親ともいうべき、無音で飛行する蛾、シャドウモスの群れに囲まれている。
魔物同士が意思を疎通させ共闘しているとすれば、空を飛ぶ蛾と地を這う芋虫の組み合わせは、最悪だ。
ベテランの冒険者は誰もが常識に思っているこの事実を、ギルドは正式に認めてはいない。
だから、ギルドの間抜けは……
口数の少ない師匠が、いつかそう吐き捨てるように呟いたのを、ルシアンはよく覚えている。
師匠が何故一人で迷宮へ潜っていたのか知らないが、あまりの変人ぶりにパーティメンバーが集まらない、というのが一番それらしい理由だった。
だが、ギルドとの間に何かがあったのかもしれない。
今はこれ以上、思い出に浸っている時間はない。
ルシアンは、魔物の包囲する一角へ、強力な風魔法の刃を放った。
すぐに気配を消してその場から移動し、再び同じ場所へ向けて風魔法を放つ。
繰り返すことでその周囲の藪は切り開かれ、切断された多くの魔物が地面に残される。
そうして暗黙のうちにパーティの脱出路を切り開いて誘導しているのだが、一向に逃げ出す気配がない。
ルシアンの想像以上に大きなダメージを負い、逃げることもできないのか。
心配して近寄ろうとしたルシアンが藪の間から見たのは、そんな状況下でもルシアンが斬り飛ばした魔物の体から核を必死で集めている冒険者の姿だった。
このレベルの魔物の核 など、大きな価値はないのに……
下層からはるばる登ってきたルシアンにはそう思えるのだが、現実のパーティはこの辺りが最高到達地点であり、そこの魔物素材は喉から手が出るほど貴重だった。
だが、命より大切な素材などない。
ルシアンの攻撃で一時的に弱まった魔物の攻撃は再び活性化し、パーティの包囲網は更に狭く、厚くなっている。
これ以上魔物に囲まれれば、ルシアンでも自分が逃げるのがやっと、という状況になりかねない。
ルシアンは切り開いた脱出路を更に先へと伸ばし、自分もその道に沿って安全な場所へと移動する。
もはや彼らがそれを使おうが使うまいが、知ったことではない。ただ自分も逃げるためには同じルート上を先行し、道を切り開くのが一番だった。
だが、ルシアンが魔法で切り開く道の前方でも、別の魔物の気配が集まっている。
悪いことに、他のパーティがそこで新たな戦闘に巻き込まれているようだ。
ルシアンは後方が気になり少し戻るが、逃げて来る人影はない。
きっとあの場所に留まり戦闘を続け、嬉々として魔物の解体を続けているのだろう。
そういう頭の悪い行動は、いかにも冒険者らしくてルシアンは嫌いではない。
しかし、このままではルシアンの作ったこのルートを逆に辿り、新たな魔物の一団をそちらへ誘導してしまうだろう。
二つのパーティの間で、ルシアンは足を止めた。少し考えてから、ルシアンはそこから離れた藪へ跳躍し、師匠の鞄から取り出した一本の瓶の中身を周囲へ撒き散らす。
それは、魔物を呼び集める、匂い水だった。
この魔物密集地帯でこんなものを使えばどうなるか、恐ろしくて考えたこともない。だが、気付けばルシアンは躊躇なく、それをやっていた。
ルシアンはそこから気配を消して離れようとしたが、周囲の魔物はあまりにも近くに迫っていた。
巨大なクモやアリの群れに囲まれたルシアンは、気配を隠す暇もなく、次々と跳びかかる魔物をナイフで切り裂く。視界の悪い藪の中の戦いで鋭い牙や爪を幾つか体に受けて、ルシアンは悟った。
こいつら、毒を持っていやがる。これは、マズイ。
ルシアンは、焦った。
傷口の血が止まらず、紫色に腫れている。
このまま死地に追い込まれ、うっかり風魔法などで切り裂こうとすれば、間違いなく暴走した師匠の加護の力により、周囲は一瞬にして壊滅的な被害を出すだろう。
だがこの近くには、二組の冒険者たちがいる。
彼らを巻き込み切り刻まないためには、迂闊に派手な反撃をすることも許されなくなった。
師匠の加護が、周囲の人間を認識して巻き込まないという保証は、どこにもない。
ルシアンは絶望の中で、傷だらけの体を空中高く跳躍させ、目眩ましの煙球を破裂させた。そしてその一瞬を利用して、全身全霊で気配を消す。
恐らく、その時に師匠の加護という呪いが発動したのだろう。
着地したルシアンに、襲い掛かる魔物は一体もいなかった。
逆に、魔物たちはルシアンを避けるように動き、その場から戦意を喪失して散って行く。
ルシアンは確かめるように、先ほど切り開いた通路へと戻る。
ちょうどそこでは二つのパーティが合流して共闘しながら、魔物に対していた。
その魔物も、徐々に藪の中へと姿を消す。
ルシアンは安心し、彼らに声をかけて笑顔で近寄り、互いの無事を喜び合おうとした。
だが、彼らは誰一人としてルシアンの存在を気に留めず、仲間同士で抱き合い、喜んでいる。
ルシアンが声をかけようが、更に近寄り、その肩を叩こうが、まるで幽霊のように存在を認識していない。
これが今回の、理不尽な師匠の加護の絶大なる効果だった。
ルシアンは三か月ぶりに出会った人間たちと言葉を交わすことも、振り向いてもらうことすら許されず、悔し涙をこぼしながら、一人で地上へ向かった。
完全に気配が消え、魔物からも人からも認識されなくなった加護の効果は、それから丸一日続いた。
無人の野を行くようにルシアンは一人地上を目指し、そのまま一度も言葉を発することなく、孤独な長い旅を終えて地上へ出た。
ルシアンの胸には師匠と暮らした六年と、この三か月の脱出行の様々な思いが込み上げる。
しかし、そうしてルシアンが深い感慨に打ち震える姿に気付く者は、誰一人いない。
終