変人の師匠に貰った加護がちょっと重たい 第一話 前編
本作は、前中後編に分けて掲載する短編になります。
背後の設定だけはカッチリ作っていますが、物語はまだまだどうなるのか……
まあ、とりあえずこんな感じもありかなと。
急峻な渓谷の底には、凍るように冷たく澄んだ水が、白い飛沫をあげて流れている。
ここまで長い時間をかけて、足元の悪い岩場を遡ってきた。
今では眼下の水流も勢いを失くし、擦り切れた白い縄のように痩せ細っている。
そろそろ源流が近いのか、気温もぐんと下がっていた。
この先には谷を埋め尽くす大氷河が待ち構えていると思うと、疲れ切ったルシアンは気が重くなる。
太陽は見えず、薄明るい鉛色の空が一日を通して天井を覆う。
ここは、迷宮第三十八階層。
Ⅴ字型に深く削られた渓谷を埋め尽くす氷河が途中で溶け出すと、水流は曲がりくねって下層へと消える。
ここから上には、岩と雪の世界が二層にわたって続くことになる。
単身で辿るには、あまりに過酷な道のりだ。
幸いにして冷涼な沢の流れは、聖なる水と呼ばれ魔物を寄せ付けない。
だからルシアンは、可能な限り渓谷の底に近い場所を選んで歩いてきた。
しかし、やがて氷が行く手の谷を塞ぎ、聖なる流れとも別れるだろう。
先ずは、この先にある風雪の吹き荒れる岩と雪の世界を突破する以外に、地上へ逃れる道はない。
おまけに、そこでは大量の魔物がうごめき、襲い来るだろう。
この迷宮が突然町の地下に発見されたのは、僅か六年前のことだ。
高原台地の中央にある交易都市は、その日を境に迷宮都市へと変貌した。
野菜市場で荷運びをしていたルシアンは、迷宮の入口に建造されることになった冒険者ギルドの建物や堅牢な防壁を造るために、巨大な石を運ぶ仕事に就いた。
当時のルシアンはまだ十一歳だったが、同じ年齢の仲間より体が大きく力も強かったため、貴重な労働力として、特別にギルドから雇われていた。
それからすぐに町は、大陸中から集まった冒険者たちで賑わうようになった。
翌年、十二歳のルシアンは迷宮で魔物に襲われ絶体絶命の危機から救ってくれた一人の冒険者に弟子入りし、二人で迷宮深く潜ることになる。
ルシアンに戦い方を一から教えてくれたその師匠も、つい先日五十三層で魔物の凶刃に倒れた。
生き残ったルシアンは師匠の遺品を背負い、単身で地上への脱出を試みている。
その孤独な戦いは、既に三か月続いていた。
ルシアンの前方に、灰色の壁が見えた。
石や砂の混じった氷の塊。氷河の先端だ。
足元を流れる水は砂礫の下に消え、巨岩の間に固く凍った雪が斑を描いている。
そろそろ聖なる水の効果は去り、魔物のエリアに入ったようだ。
ルシアンは慎重に気配を消しながら、足を進める。
ここまでルシアンが生き残れた理由の一つは、師匠から徹底的に仕込まれた、この技術にある。
己の気配を隠し、魔物の気配を遠方から察知する能力を極限まで高めた冒険者が、師匠のネリーだった。
師匠は剣技も魔法も体術も並外れていたので、真正面から魔物と戦っても簡単には負けない。
だがそれでも、迷宮で行動するために最も重要なスキルとして、戦闘技術を覚える前に、隠形と索敵、その二つを徹底して若いルシアンに教え込んだ。
気配を隠したルシアンの前を、三メートルを超える四つ足の魔物が音もなく横切る。それはしなやかな体をしたネコに似た魔物で、だが異様な長さの白い牙が顎から突き出ている。
サーベルタイガーと呼ばれる魔物だった。
一度師匠が一刀のもとに斬り伏せたことを覚えてはいるが、今のルシアンにはやや荷が重い。
そもそもこの迷宮の公式攻略階層はまだ二十九層止まりで、その下にこんな魔物が生息していることすら、一般には知られていない。
それだけ、ネリーという師匠の存在は異質だった。
大陸にはここより古い迷宮が三か所あり、サーベルタイガーは、そこで以前に確認された魔物と同じ種類だった。
ネリーはきっと以前どこかの迷宮でこの魔物と出会い、見知っていたのだろう。
ルシアンは息を潜めて、魔物が通り過ぎるのを待つ。
こんなことばかりしているので、ここまで来るのに三か月もの時間が過ぎた。
ルシアンはまだ、Dランクの駆け出し冒険者だ。
本来十五層にある迷宮村へ単独で往来可能な最低レベルが、Cランクだと言われている。
Bランク以上は一級冒険者と呼ばれ優遇されるが、その分ギルドの活動に対する様々な義務を負う。
それが面倒で、Cランクのままでいるベテランも多い。
師匠のネリーも、その一人だった。
だが師匠は、ギルドの冒険者が束になっても到達できていない三十層を超え、ルシアンというお荷物を抱えたまま五十三層にまで達した。
この町の冒険者ギルド長はSSSランクを超えて史上最強と言われるが、師匠はもっと強かったのではないかと、ルシアンは本気で思っている。
それほどの師匠ですら、一対一の対決で魔物に敗れた。相手は、七十層のフロア主を名乗る、強敵だった。
逆に言えば、下層からそんな化け物を呼び寄せてしまうほど、師匠のネリーは強かった。
ルシアンも、公式にはDランクとはいえ、ギルドの基準からすると十分過ぎるほどに強い。
ひょっとしたら、既にSランクに手が届くかもしれない。
などと、本人はそう夢想している。
だが、より冷静に考えれば、それがいかにバカバカしい考えなのかがわかる。
何しろ、そのSランクを何人か含めた複数のパーティが、今でも二十九層を突破できずにいる。
一方、単独で五十三層から登ってきたルシアンは、三十階層付近まで辿り着くことができれば、まず間違いなく生還できると自信を持っている。
具体的には、魔物のいない三十二層の安全地帯が目標だった。
その乖離を見れば、ギルドの公式ランクなど、ルシアンには何の意味もないことは明白だ。
ルシアンが目標とする、三十二層。そこには聖なる水を湛えた清涼な湖が広がり、魔物の侵入を許さない。
この迷宮はそこを境に、上下に分断されている。
師匠を屠った魔物の言葉が嘘でなければ、迷宮の下層は、少なくとも七十層まではある。
そう語ったのは、美しい女の姿をした人型の魔物だった。
人の姿で言葉を話す魔物など、恐らくどんな冒険者も想像すらしたことがない悪夢だろう。
だが、間違いない。
ルシアンの師匠を斬殺したその魔物は、昔話の王侯貴族のように場違いな美しいドレスに身を包み、優雅な佇まいで神速の剣を振り、強力な魔法を放ち、当たり前のように人の言葉を話した。
だが、それが人ではありえない証拠に、濃厚な迷宮の瘴気をその身にまとっていた。
そしてルシアンは、どうせ生きて地上へは帰れまい、との冷酷な言葉と共に、一人その場へ放置された。
サーベルタイガーをやり過ごし、ルシアンは行動を再開した。
V字谷の底を覆う砕けた岩と灰色の氷の幅が広がり、左右の尾根が低くなっている。折れ曲がっていた谷は直線状に伸びて、凍えるような風が吹き下ろしている。
氷河の先は同じ灰色の霞に吞み込まれ、魔界の異物であるルシアンを死地へと吸い込むべく待ち構えている。
そこから溢れ出るように、ルシアンは魔物の気配を感じていた。
ルシアンは、右の岩場へとルートを変える。
谷を挟む両側の尾根に続く急峻な斜面は、不安定な巨岩が積み重なり足場が悪く、そこで戦闘になるのは避けたいところだ。
だがその分、身を隠す場所には困らない。
足元の岩を崩さぬよう今まで以上に慎重な足取りでトラバースを続けるうちに、前方に潜む魔物の気配が濃くなった。
向こうはまだ、自分の存在に気付いてはいないだろう。
ルシアンは、師匠に教わった隠形の技には自信を持っている。恐怖に抗い、度重なる危険を回避し続けて身に着けた技だ。
死線を潜るたびに鍛えられたこの隠形と索敵こそが、ルシアンの一番の武器だった。
中編へ続く