神と命(みこと)と尊とミツバチ
神は創造神の側
1個飛ばして
尊は一度は地上に生まれた御魂
神と人が共に生き、共に働くという意識と思想が、神道にはある
青春時代は恋の気分に
お酒は弱いけど大人になってからは
地元でちょっと有名なショットバーに
君と一緒の時間で
すこし年をとってからは
山あいの温泉で
遠くで聞こえるウグイスの声に
身体と心を温めながら
それらにちょっとだけハチミツを足してみる
悟りを追体験するには
言葉にできない
文章では伝わらない世界を
詩にしたり
作務に費やしたり
人の真心と研鑽の集約されたお料理を戴いたり
悟りのその先には
平坦な極楽や
永遠の空ではなく
音楽や芸術に感動するような歓喜や
肉体の喜びを越えた時の心の繋がりのある交流
きっと見性から始まる境地は
ここにあると思う
物欲を満たす天国はなく
愛欲に溺れる地獄でもなく
当然、夜が来ても寝る必要は、きっとない
ただ、ありのままに花が咲き
意識を共有できる生き物がいて
七夕でなくても会える恋人達がいる世界
その中で
ミツバチは肉体のある三次元から
神様が顕れる五次元までを
ひとつに繋いで存在する神使として
あたかも三次元の影が二次元であるように
五次元の影が四次元で
四次元の影が三次元で
ミツバチは次元を縦に旋回して生きる
感動を人に伝えたいとき
音楽を共有するとか
美術館に誘うとか
レストランでデートするとか
お釈迦さまの悟りは
とうてい人には伝えられないからと
なんども断ったけれど
是非にと懇願されてというお話しは有名です
禅宗は、原点に帰って、その悟りを追体験することを目標に確立された方法論とも言えるかもしれません
俳句や詩では「言葉にできないほど美しい」という表現は禁句だと、国文学者で有名な俳人のお師匠さんが話されていたとか