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教室が嫌いなのだ!  作者: インコンペ
8/8

第八話 夜の始まりなのだ!

 朝──といってもまだ外は暗く朝焼けの気配もない──を迎えた。


 不安は山々だが、そうは言ってもいられない。

 毛布に包まったまま、のそりと俺は身体を起こした。息が白い。

 横にはにいなが寝ていた。軋む長机から足をおろし、辺りを見渡す。扉の付近には、昨日音琴と用意した荷物、装備、それからギター──にいなの家から持ってきた父親のアコースティックギターだ──、それらをそいやと担ぐ。


「にいなー、行くぞ」


 声をかけると、目を擦りながら彼女は身を起こした。


「ふぁあああ…………今、何時なのだ……?」

「3時だ」


 俺は電池駆動の時計を見てそう言う。


「早い……」

「同感だ」


 雪国の早朝は鋭い。息が凍てつき、冷気が鼻を突き刺す。ドアの脇に積もった雪をなぞると、パリパリと音を立てて表面が割れてゆく。


「空、本当に暗くなったな」


 日が落ちても日中のように明るかったこの街の空も、街灯がなくなり光源がなくなった今となっては、深淵のように天上に広がっていた。この街の空はほんとうに広い。どこも道幅が広いから、圧迫感がなくて、頭上が開けているのだ。それらすべてが、今は俺たちを呑み込まんとする様である。

 全員が揃うと、猟銃を担いで音琴(ねごと)は歩きはじめた。ぼふ、ぼふと、夜の間に積もった雪を掻いて進む。


「音琴は鬼獣とか……怖くないのだ?」


 先頭を行く音琴と、俺の間にいたにいなが尋ねる。


「危険だと認識はしているし、そのために生きるための術も知っているつもりだ。それは、怖がっていると表現してもいいかもしれない。だが、……いちばん大切なのは奴らを理解しようとすること、そして、──少なくとも現場では、平静を保つことだ」


 音琴は、静かに答えた。


 狐と遭遇したときのことを思い出した。あのときは必死だったが、その特殊性を俺は思い出す。間違いなく、例えば初めて鬼獣と対峙したとき──つまり猪からにいなを救い出したときとは性質が異なる形で相対したのだ。

 その違いは、距離であったと俺は思う。まさに、触れんとする位置に俺たちはいたのだ。そして、そこで狐と話したのは、夢でも幻でもなく、間違いなく現実であったと思うのだ。


「音琴は、鬼獣を獲ったりするのか?」


 にいなの頭越しに尋ねる。


「いいや。それは守猟師とか……あいつらの役割だ。俺はただ決闘の行方を見届ける……それだけだ」

「決闘?」

「あれは、狩りではない。すなわち、非対称的な関係ではない。人と獣が、互いに命を奪い合うだけだ」


 3度の休憩と川に設置された発電機の整備を挟んで、2時間ほど歩いた頃。

 幾度か壁の傍を通ったが、それらはどれも鬼獣の押し寄せる波に破壊されたものであった。今、眼の前にそびえ立つ壁は他よりも一段と高くなっていて、大きな扉があった。それは、此方と彼方を繋ぐ門であった──。


「この先にあるのは真実のみだ」


 音琴が言う。


「たった一筋の優しさも悲しさも歓びも怒りすらも存在しない。これより先、我々はただ“存在”を見るのみだ。準備はいいか?」


 疾うに覚悟はできている。それは、円山放送局を出たときからだ。街はすでに森との境界線を失っていたのだから。けれども……俺は明確な違いを感じていた。言葉にするには余りに陳腐な──それでも確かに感じる断絶。


「これから先、言語は役に立たなくなるのだ──……」


 その瞬間、俺は雪に吹かれた。凍えるような突風が肌を突き抜け世界が広がる。

 雪原、大地。ただ、立つ。

 吐く息は白い。

 風の音。

 頬で融解しつつある立花。

 ビルも家屋も車も電柱も全て全て雪が覆い隠してゆく。


「音琴さん、俺、わかったよ」

「ならいい。行くぞ」


 俺たちは、はじめの一歩を踏み出した。




 ◇




 山は、想像以上に歩きづらかった。雪は何メートルも積もっていて、俺たちは山行用のスキー板を履いてその上を進んだ。しかし、使いなれない道具は思うように扱えず、しょっちゅう枝や幹に引っ掛け、板の先端を雪にぶっ刺して転んでしまった。ギターケースの中にビニル袋を挟んでいてよかった。ギターを包んでいなかったら、雪が中まで染みて濡らしてしまっていただろうから。

 鬼獣は、驚くほど少なかった。その痕跡はあるのに、姿は見えないのだ。見えるのは、にいなと音琴と、俺の吐く息だけだ。


「音琴、道は分かるのか?」

「ここは守猟師の小屋へ続く道だ。ほら、見てみろ。そこの幹にピンクリボンが巻き付けてあるだろう?それが目印だ」


 しばらく歩いていると、防寒具の中が蒸れて、それに息が切れてくる。その度に、音琴は休憩を挟む。俺がいらないと言っても、彼は必ず歩みを止めて座り込んだ。彼は、常にナイフと猟銃の手入れをしていた。それが息抜きであるかのようにいた。幾時間か掛けて辿り着いたのは、二階──いや、三階はありそうな山小屋だった。暗く黒く塗られた壁が、柱が、雪景色の中で浮いている。スキー板を外し、階段を上がって扉の前で雪を落とした音琴は、入るぞと声を掛けながら小屋の中に入った。重そうな扉がギイという軋みとともに開き、尋ね人を小屋の中に招き入れる。

 俺たちも、その後に続く。


「ねごとー!!!」


 ドタバタと階段を降りて、にいなよりもさらに小さな幼女──まだ未就学児だろうか──が駆けて来た。


「おお、(ふき)かぁ。元気にしていたか?」


 音琴は、まるで近所の親戚かのような親しさで声を掛ける。実際、彼はここの古くからの馴染のようであった。

 幼女の後から、いかにもマタギといった出で立ちの男が、のそりと出てきた。


「おう、音琴か。よぅ来んさった」

香薷(こうじゅ)。お前も元気そうだな」


 あまり背の高くないその男──大柄な音琴と並ぶと特に小さく見える──は、音琴越しに俺たちを見て、客か?まあ入りねぇと言い、暖炉の前を空けた。


「寒かったろう?暖まりな。こんな小さい子まで来て。それほど、街の方は大変なのかい?」


 俺たちは服を脱いで暖炉近くの物干し竿に吊るすと、長椅子に腰掛けて火に当たった。


「市街は、丸ごとな。最初からわかり切っていたことだ。こんな壁なんて、時間稼ぎだって」


 前かがみになって手を温めながら、音琴はそう言う。時間稼ぎ──その言葉に、俺は引っかかった。


「いつかこうなるのは必然だった……ってことですか……?」

「持続され得る非平衡は均衡な存在のみだ。どんな境界もいつか崩壊する。あれが維持されてきたのは、ただ偶然の積み重ねに過ぎない」


 偶然……。あの街は俺にとって間違いなく当然のもので、絶対のもので、揺るぎない確実な存在であった。人と獣の境界はもっと確実に、本質的に規定されたものだと思っていた。

 コンテクストとして、それは保証されていたはずだったんだ。

 香薷と呼ばれた男が口を挟む。


「お兄さん、……で良いのかい?ここを見てもらったらわかるようにねぇ、──俺達にとっての普通とかそういうのは、ここなんだわ。つまりさぁ、何が言いたいかというとねぇ、……。すまんね、要領を得なくて。君の世界の横に、俺たちの世界がずうっとあったってこと、それを知ってて欲しいのさ」

「……」


 分かるような分からないような、雲を掴むみたいな物言いだった。でも、それが俺を否定する言葉で、同時に俺を解放する言葉でもあったと、あとから考えればそう思うのだ。


「香薷、他のやつは猟に出てるのか?」


 音琴が尋ねる。


「うん!とぉちゃんはみんなと一緒に森行った!」


 香薷に代わって蕗──と呼ばれた子が応える。ここの山小屋には、何人かの猟師が詰めているんだろう。そして、どうも蕗の親は外に出ているようだ。


「そうかそうか。なら、もうじき帰ってくるか。日も暮れそうだ」

「そうだ、音琴……。(かつら)(あに)さんが言っていたんだけどねぇ、あんたの言ってたとおり、こりゃあ遂に来た……つぅ雰囲気だべってさぁ。不意の災害と(ちご)うて、ありゃ決壊だって」

「あいつもそう見るか……」

「あんたら、獣に気をつけんさいね。もうこないだまでとは違うんだ。次に山に入るときは俺が送ってやる」

「いや、大丈夫だ。それより、今晩はここに泊まってもいいか?なに、寝床だけ貸してくれたらいい」

「勿論だ。せっかくなら食っていきねぇ。その方がみんなも喜ぶ」


 音琴と香薷が話をしている間、蕗は少しつまらなそうにそこらを歩き回っていた。


「ねぇねぇ、おにぃちゃんたち誰ェ?」


 背丈の小さな少女に尋ねられ、俺は屈む。


「街の方から来たんだ。俺は北部特区の指定宿舎地区で、このちっこいの……にいなは円山の辺に家があったんだ。今日は、なんというか、音琴さんに拉致られてな」

「へぇ〜……」


 そこに、にいなが顔を出して尋ねる。


「蕗はいくつなのだ?」

「ふき?ふきはねぇ、みっ……」


 3本指を立てて何かを言おうとした少女は、己の手をまじまじと見ながら、折り曲げている親指と小指のうち小指を立て、4本の指で再び手を前に突き出して声を発した。


「よっつ!」

「4歳か。えらいな。ここにいる子供は君だけか?」

「えっと……うーん……」


 質問の意味がよく分からなかったのか、蕗は少し黙り込んだ。


「ああ、今は蕗だけなのさぁ。前まで同じくらいの子がいたんだけどねぇ、みんな街の方に行っちまったんだ」


 香薷が言う。

 猟師が街に戻ることもあるのか。まあ、それもそうだな。こんなところで子供を育てるほうがよっぽど大変だ。


「蕗は母親が死んじまったのさぁ。だから父親──桂のあにさんがここで育てとるんだわ」

「香薷さんはずっとここで暮らしてるんですか?」

「ずっとっちゅうたら変だけど……ガキんときから山には住んどったさ。十年前だったか?獣たちがなんぼ何でも手に負えんようになってから──そう、鬼獣っちゅうふうに呼ばれるようになってからは猟師一本でやっとるけどねぇ」

「へえ……。収入源は大体、獣の駆除がメインですか?」

「駆除っつったって、そない簡単なものでもねぇべ。獲れるときは獲れるし、獲れんときは獲れん。まあ食うもんにしちゃ大抵獣の肉と山菜で暮らせてるさぁ。街で買わなくちゃならんもんはそりゃあるからさ、そういうんは鬼獣を狩る収入で賄うけども」


 そうこう話していると、外の扉の開く音がした。いくつも足音が聞こえて、みんな靴底の雪を落としているようだ。


「帰ってきたか」


 黙って座っていた音琴が立ち上がり、蕗も嬉しそうに玄関の方へ駆けて行った。

 重そうな木製の扉を引いて出てきたのは、初老の小柄な男と、それに続いて5人の男女だった。誰も彼も、服を着込んで、毛皮のマントで覆われて、シルエットが丸い。そして、背中には長く重そうなライフル銃が掛かっていた。


「おう、音琴来とるべや」

「桂。久しぶりだな」


 先頭の男が音琴に声を掛け、音琴はそれに返答した。

 初め、俺は彼が桂だと認識できなかった。香薷も音琴も彼のことを尊敬しているから、もっと大柄で男らしくて、毛深く剛力なのだと思っていた。それがどうだ、物々しい雰囲気を携えた5人の猟師の前を歩くのは、いかにも弱々しくて風が吹けば飛びそうな、白髪混じりの男だった。


「おとー!」


 手を広げながら、蕗が駆ける。柔らかな笑みで、桂は少女を抱え上げた。


「ただいま蕗。ええ子にしとったか?」


 愛しい我が子を抱きながら歩く彼を見て、俺はあることに気がついた。桂は、ちっとも足音を立てていないのだ。にいなが、蕗が歩いただけで軋むようなこの床の上で、だ。蕗を抱いた彼は、しかしちっとも揺らがなかった。


「音琴さん、あの人は?」

「俺の友人で──ここの守猟師のリーダーだ。ただの、ヒト。彼は自分のことをいつもそう言う」


 蕗を抱いたまま、彼はこちらへ来た。


「音琴、この子達は誰だべ」

「うちのラジオ局に転がり込んできたんだ。一度はシェルターに逃げ込んだのに、抜け出してのこのこ外を歩いていたんだとよ」

「そうかい、そりゃあいい。よろしゅう少年」


 嬉しそうに笑って、彼は片手で蕗を抱えたまま、もう片方の手で握手を求めた。俺はタコに覆われ骨張ったその手を握る──。


 ただの人間?これが?

 そんな訳はないと、即座に理解した。こんなに弱そうで軽そうなのに、体幹だけはまるで根を張ったようで、幾千トンもあるように重い人が、常人であるわけがない。

 びくともしない。そう、まさに、大木を握りしめているような、そんな気がした。


「名前は?」

「九木……九木藍(くぎらん)。よろしくお願いします……」

「俺ぁ桂だ。……でだ音琴、なしてこん子ら連れてきたんだ。そんちっこいのなんて、ほら、いくつだべ」

「にぃなは12なのだ」


 年齢を聞いて、桂は少し意外そうな顔をした。あれ、12歳ってこんなに小さかったっけ──そんな言外の反応を読み取ったのか、にいなは不満げな表情を浮かべる。


「わ、わりぃ。ちと見間違えたようだな」

「こいつらは頭はいい。頭は、な。だから……、あんなところで口先ばかり燻らせるのは少し勿体ない。特に坊主には、言葉以外の世界、お前の仕事を見せる必要があった」

「さよか。音琴がそん言うんなら仕方ねぇ。藍くん、朝は早えべ。今日はよう食うて寝ぇ」


 え、明日も?今日だって3時起きだったんだけど。ま、まあまさかそんなに早いわけないよな。せいぜい夜明け頃だr──。


「明日は3時だがんな」


 ガッデム!

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