第七話 空気を作るのだ!
「音琴……いる?」
物の怪も寝静まる夜、にぃなはラジオ局の一室を訪れていた。
事務室を照らす灯りは音琴の手元の蝋燭だけで、昼間はなかったメガネを掛け、彼は紙に何かを書いていた。
机の周りがぼんやりと暖色に明るく、そこだけは部屋の他の要素とは決して溶け合わないようだった。
「……どうした?」
「あの……、ちょっと見てほしい文章があって……」
「増口が言っていたやつか?それならあいつに見せればいいだろ」
「増口が、音琴に読ませてみろって。あいつは放送作家だからって言ってた」
「ちっ……面倒事ばかり押し付けやがって」
「……」
「……ったく分かったよ。ほら、こっち来い見せてみろ」
音琴は、半ば引っ手繰るようににぃなからメモ帳──あの倒壊した家から探し出した大切なノートだ──を受け取ると、メガネの位置を直し、足を組んで読み始めた。
彼は、にぃなの思うより丁寧にゆっくりとメモ帳を読んだ。
「日記調、災厄に巻き込まれた一市民目線の物語か」
彼が目を通し切るまでの長い間、少女はモジモジとして、どこか落ち着かなかった。それもそのはずで、彼女は作品として書いた自分のものを他人に見せたことがなかった。だから、はじめて読まれる文章は、まるで自分の恥部のようで、とても居心地が悪かったのだ。
「これは……あの子が推すわけだ」
ぼそ、と呟く音琴。
びっしりと書き込まれた頁をめくる音だけが部屋に聞こえる。
「……言葉を置き換えてはいるが、この街のことだな?」
「その次の行からが、鬼獣災害のあとに書いた分」
「……」
字を追う音琴の目線が止まる。
明らかに、書かれた文章への態度が一変した。
そして数分後、計3万字近くの小説を読み終えた彼は、にぃなにノートを返してこう言った。
「これはうちの電波には乗せられない」
きっぱりと、音琴が断った。
「なっ……」
「……」
「どうして……」
「こいつは言葉が強すぎる」
「強い?」
にぃなは訝しんだ。
「いいか?ラジオってのは……まあついこの前までは風前の灯だったが──これからは、恐らくほとんど唯一のメディアになると言っても過言ではない。マス・メディアってのはつまり……大衆の言葉を媒介する。これは、本当の言葉でなくてもいい。本当だと勘違いさせればいいんだ」
音琴は慎重な男だった。
「大衆の言葉とは、即ち文化のことだ。お前のこれは──それを担うことができるか?人の心を担えるだけの責任があるか?」
なにも、言えなかった。にぃなはただ目を見開いたまま立ち尽くしていた。
「ここは、その辺の素人が好き勝手呟いていい場所じゃあないし、あろうことか小説家の独壇場にしていい場所でもない。お前のこれは素晴らしい。だから、ここには載せられない」
「……うん」
少し間をあけた後、にぃなは頷いた。その顔は、諦観でも落胆でも後悔でもなかった。強い確信を得た顔で、音琴を認め、そして敵意の籠もった目で睨みつけていた。
「っ……」
「……うーん、なんかよく分かんなかったや!でも、ありがとうなのだ!にぃな、音琴に認められるのが書けるようになるまで頑張ってみる!」
透明……というよりかは、薄く軽い声で、にぃなは明るく言った。
音琴は、にぃなの目の奥に宿る、赤く強い意志に怯んだ。心臓の鼓動が伝わるような激しい奔流が、馬鹿らしいほど軽くて人畜無害な殻の中に隠されていたのだ。
「………」
「気にしてないよ。音琴に見てもらいたかっただけだから。褒めてくれて嬉しいのだ!」
ばいばい、そう言いながら扉を閉めて部屋を出てゆくにぃなの姿は、はじめて出会った頃の幼女のものとは異なっていた。それは天才であり、とても大きな怪物の背中であった。
◇
翌朝、俺は部屋に流れてくる誰かの話し声で目を覚ました。目の前にロッカーが迫っている。地面がひんやりと冷たい。
スピーカー越しの増口の声がする。
……あれ、なんで床で寝てんだ?
「お、藍くん机から落ちとるやんか」
丸毛の声がした。
「んぁ……」
ああそうだ、昨日、机の上に布団を広げて寝ていて、それで……
「──いてて……」
腰が痛む。机とロッカーの隙間で俺はむくりと起き上がった。
「あれ、……にいなはどこに行きました……」
八畳くらいの、縦長いロッカー室。辺りに、にいなの姿が見えない。たしか昨日は、共に長机の上で毛布に包まっていたはずだ。一度部屋を出た様子だったが、それも少しの間のことで、すぐに戻ってきたのだ。
「朝食できとるよー」
「んぁい、わかりましたぁ……」
あくび混じりで応える。
外はもう明るい。そうだ、もうそんな時間なのだ。
◇
「──ほんで波田チーフ、そろそろ街の調査行くんやっけ?」
「もう少し落ち着いたらねぇ。音琴くん、準備の方はどう?」
増口のラジオが流れる休憩室──昨日、俺が寝かされていた部屋で、キッチンとテーブルがある──に、食卓を囲んで波田と丸毛が話していた。シリアルを啜るダイニングテーブルに日光が差す。
「ちらほら、外で人間の姿を見かけるようになった。避難所に入ってないアホがこいつら以外にもいたんだな」
隣りで一人、肉の塊を食べていた音琴が、フォークで俺の方を指しながらコーヒーを啜った。
「……案外リス肉をミンチにしたソーセージも食えるな。食糧の一覧に追加しておく」
「ほんまに?ちょっと一口頂戴や。…………あぁ〜なんか昔こんなん地元の駅前のゲテモン屋で食うた気ぃするわ。音琴がおれば当分メシには困らへんのちゃうか」
台所には、血まみれのカッティングボードの上にリスの頭が2個並べてあった。
下まぶたを引くつかせながら、席に着こうと椅子を引くとそこには三角座りで丸まったにいながいた。
「ら……らん…………音琴が、音琴がぁ……」
にいなは俺を見つけると、らしくない表情で、今にも泣きそうになって声をかけた。
「あー……リスのことか?」
「にいなが捕まえたのに……あ、ぁああああっ」
俺は音琴を睨みつける。
「元々食うために仕掛けてた罠だ。それに、うまいぞ。おいアホ、お前も食ってみるか?」
──はぁ?
流れるように侮辱された俺の、ぽかんと開けた間抜けな口に音琴はフォークを突っ込んだ。
「あつッッッ!!!…………」
「どうだ?」
「ん…………。────なんてジューシーなんだ……」
「ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!らんまでぇ!!!」
──部屋に流れる放送は、いつの間にか増口の番組から丸山のものに変わっていた。
◇
「なあチーフ、このアホも取材に連れてっていいか?」
音琴が波田に話しかける。
「危なくないかい?」
「そりゃ危ないったってどこにいても一緒だ。ここだっていつ鬼獣に襲われるかわからんだろ。それよか、こいつをここに置いておくよりも外に連れ出した方がいい」
「そりゃまたどうしてさ」
「こいつは影響されやすいアホだが……そういうのも取材班の中にいた方が俺としてはやりやすい。素直なやつが、どういうふうに感じるのかってのも取材対象の一つだろ?」
音琴が、俺を無視して勝手な話を進めていた。
「あの、……俺としてはそろそろ帰ろうかと思ってたんですが……。いつまでもお世話になるわけにはいかないし、ここには俺たちの目的はなかったんで」
そうだ、俺たちの目的は、海の外の世界とつながることであって、それができない小さなラジオ局にはいてられないのだ。それに、彼らはどうも外部と繋がろうとは思ってなくて、寧ろこの狭い街の取材なんてしようとしてる。それは面白いかもしれないが、俺には必要ないだろう。
「カッコつけんなダボが。それに、俺はお前の世話をする気は端からないし、今まで掛けてきた迷惑料を取り立てようと思っている。いいから俺の仕事に付き合え。それが嫌なら狩りの餌になってくれ」
「なっ、大体あんたが外に出るなって言ったくせに、今度は連れ出そうなんて──」
「──音琴……取材って、どこに行くつもりなのだ?」
机の下からにいなが顔を出して、俺の話を遮った。
「あー、……まずは猟師の小屋にいって、彼らの様子を確認しに行く。それから、平地に戻って街に出ている人間の話を聞くつもりだ。どちみち、今行っても誰も出てこないだろうからな」
猟師、言わずとしれた守猟会のことだ。
身の安全は保証されていない。高給なわけでもない。
それでも、彼らは銃を手に取り鬼獣と闘う。
──まあ、端的に言って命知らずの無謀な奴らだ。実際、たまに街で見かける守猟師の顔は泥だらけだし、服も臭い。彼らが歩いた跡は泥の足形が一列に付くし、まあ、尊敬はするがなりたいとは全く思えない職業の一つだ。
「ん?、丸毛ちゃんどしたのさ?」
いつの間にか旧式のデスクトップPCを弄っていた丸毛に声をかけられ、波田が振り向く。
「有線で電報来とったわ。ほら、例の小屋からやで」
「俺も見ていいか?」
「てかまあ、おとちゃんに宛ててのメールやな。蕗ちゃんも無事やってんて」
──短くまとめると、守猟師からの通信は、彼ら自身の無事を報せるものであった。そして、暇があれば来るように、とも書いてあった。
こんな状況だというのに、随分呑気な電報である。まるで、隣町に住んでいる親戚かのようだ。
「チーフ、ここでの仕事は粗方終えておいた。明日にでも小紋沢に向かってもいいか?」
「音琴ちゃんがいいなら今日でも大丈夫さあ」
「いや、今日はこいつの基礎を鍛えなきゃならん。いくらアホでも、途中で死なれたら寝覚めが悪い」
音琴がこちらを見る。そして、にいなの方に目を移した。
「お前も来るか?」
「もちろんなのだ!」
「じゃあ三人分だな。チーフ、食糧を持っていってもいいか?」
「きっと、君らが持てるだけ食糧を持ち出してもまだ一ヶ月分くらいは在庫があるべ。音琴ちゃんの獲ってきた食材でしばらくは問題ないさあ」
俺だけが選択権を持たないまま、俺たちの旅路が決められた。明日の午前3時にここをでるらしい。そして俺はこれからサバイバル知識を音琴に叩き込まれる。痛くなけりゃいいなぁ。
◇
円山ラジオの裏手にある、グリーンネットに囲まれた敷地。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!」
そこだけは残されたように何本もの立木があり、雪積もる林床で俺はうずくまっていた。足首に食い込むワイヤーの感触は常に新鮮なままだ。
「大丈夫だ。本物でも鬼獣には引きちぎれる程度の強度にしてある。引きちぎれなけりゃあ……今日の晩飯だ」
──じゃあ俺は晩飯にされるんでしょうね!!!煮込むと良い出汁がとれますよってか!?
塀の外には、獣を追い払うための罠がいくつも仕掛けられている。今やっているのは、罠の特徴を知り自分が掛からないようにするための訓練らしいが……通算3度目の失敗を経て、俺の足には3本の痣ができていた。
「本物のワイヤーなら、お前の細い脚程度、骨が見えるまで肉を抉っていたはずだ。それに、その手の罠は本当ならヤスリか鋸がついていて、より強烈だ」
カチャカチャとワイヤートラップを緩める音琴によって解放された足首は、痛みの残り香だけを覚えたままでいる。
「いっつつ……」
「あの子はもう手慣れたもんだな」
そう音琴の指差す先には、ひょいひょいと雪の上を跳ねて移動するにいなの姿があった。
「俺は音琴さんの足跡を辿っていたはずなのに……なんで適当に走り回っているにいなが無事なんだ……」
「さっき教えたはずだ。トラップには、匂いというか、規則性というか、そういうものがある。俺のとおり歩いたって、目につかないもんを見落としてたら引っかかるに決まってるだろう」
そんなこと言ったって、匂いってなんだよ。何も匂わな──
「おい、そこは手を掛けるな」
「──あでっ」
立ち上がって傍の木にもたれかかった俺の額に、先を丸めた木の矢が命中した。
「そういう木は危ないと言っただろう。……これは塀を越えるのも難しいな」
音琴が、大きくため息をついた。
痛い