第二話 教室から出られないのだ!
羆──アイヌはそれをキムンカムイと呼んだ。神の名にふさわしい巨躯と膂力を持つ獣が我が街を蹂躙しているこの状況を説明するには、生物学の講義が5回分は必要だろう。
例にも漏れずオンデマンド授業である「鬼獣の生態と分類学」だが、俺は珍しく毎週ちゃんと講義動画を視聴してる。他の受講生は適当に小テストに答えていれば単位が出る、いわゆる“楽単”だとか言っているが、俺は教員の声が朱雀 島川(関西弁の芸人だ)の低いイケボに似ているからサボったことは無い。
本来なら教員が大学まで来て講義してくれる予定だったんだけどな、鬼獣の影響だかなんだかで今やほとんどの授業はオンライン、それも撮り溜めた動画を流すだけのオンデマンド授業だ。本当に詰まらない。
その島川似の教員が言ったことには、鬼獣とはウイルス感染した鳥獣の変異体なのだそうだ。
そう、元々こいつらは体高20メートルもあるような化け物じゃないし、壁の向こうに隔離(というより、人のテリトリーを壁で囲って確保)したりなんてしていなかった。犬だって猫だってたくさんの家で飼われてたし、うちの実家でも小鳥を飼っていた。
それが普通の光景じゃなくなったのは十年近く前、例のウイルスがぽっと出てきて以来だ。なんと言うか、本当にあっけない日常の終わり方だったよな。楽観論者と悲観主義者がああだこうだと嘆きあって、結局訳わかんないまま俺の日常は奪われた。彼らの血と汗の結晶のような醜い議論を無意味だと嘲笑うかのように、全ての結論は鬼獣への恐れに収束した。
うちで飼っていたオカメインコは、政府の指定した隔離ケースでその寿命を全うした。運悪く鬼獣化したり、決して安くないケースを買うことができなかった家のペットは全て殺処分となった。だから、最後まで生きられたあいつは恵まれた方なのだろう。
インコが死んだ時、ようやく俺はそいつに触れることが出来た。何年ぶりだったろう。いつかの温もりは既に消え、乾いた骸の感触だけが掌から忘れられないでいる。
野生動物は街と山との間に壁を作って隔離された。街の中にいる動物──野良猫や狸、狐も尽く排除されていった…………。
そうやって蓋をしていたはずの脅威が、特別対策税という名の代価を支払って見えないようにしていた恐怖が、今目の前に現れている。遠くで響く崩壊と悲鳴の音を聴きながら、俺たちは無我夢中で走っていた。
路地を抜けて比較的幅の広い道に出た頃、爆発のような音とともに20メートルほど先の建物が砕け、辺り一面雪と粉塵の煙に覆われた。
言わずとも分かる。鬼獣が来たのだ。
立ち上る土煙。
薄れゆく煙幕から足を踏み出してきたそいつは、猪だった。と言っても、元の姿とは大きく離れている。
大きな碧い牙。額から剥き出しになっている純青透明な結晶。体高1.5メートルはある、しかし猪の中では比較的小さめの身体。こいつは鬼獣化した猪の中でもγ種と呼ばれるやつだな、と講義資料を思い返して種の同定をする。
周りの人間は尽く悲鳴をあげ反対側へ走り出した。一方俺は、腰を抜かして尻もちを着いたまま、動けなくなっていた。脳みそだけが冷静に鬼獣の分析をする。
言葉が通じなくても、表情が読み取れなくてもひしひしと感じるこの空気感。この猪は多分、敵意で満ち満ちている。
もーうこれぁ無理だ。下手に動くのも野暮だ。俺にはどうにもならない。
──気怠そうに萎えた腿を拳で叩く。
何言ってんだ俺は!早く逃げねえと!
落ち着いたところでようやく正気を取り戻し、飛び起きるように立ち上がる。
なんとなく漠然と生きてきた俺だけど、決して死にたいわけじゃない。何諦めてんだよ!
正面の猪は、それはもう恐ろしい威圧を放ってこちらを睨んでいた。
すげえなお前、どうして俺なんかにそんな真剣になれるんだよ。こちとら逃げる前から諦めるような愚図なのにさ。
でもな、お前なんかに構うほど喧嘩好きでもないんだわ。
決して背はむけないよう、にじりにじりと後退りをする俺の目に、ふと猪の足元で蹲る一人の少女の姿が見えた。見えてしまったのだ。
コンクリと雪の煙の中で、ぐったりと倒れているその小さな身体が。
鬼獣に構ってる暇はない──そうは言ったが、少女を助けたいと思うくらいには、俺の欲望は俗だった。だってほら、ふと正義感を出したくなる時が誰にだってあるだろう?ここでカッコつけときゃちょっとは自分を好きになれるんじゃないかって。
震える足を地面に押さえつけ、鼻息荒くする鬼獣を睨みつける。
まず、現状を把握しよう。
俺がいるのは道路のど真ん中。正面に鬼獣、その足元に少女、と言うよりかはよく見ると小学生くらいの幼女だ。
周りにもう人はいない。みんな逃げてしまった。
守猟隊に通報……は無理だ、間に合わない。
──肚ぁ括れ俺!子供救って死ねるなら本望だろ!
俺は覚悟を決めて、手に提げていたバッグを肩まで上げる。
チャンスは一瞬、あいつがこっちに向かって走り出したタイミングだ。あいつの進むベクトルが決定したその瞬間に、女の子のところまで滑り込む。
暫しの硬直。
その時は、俺にとって本当に不意だった。いつの間にかすぐ後ろまで来ていた政府の対鬼獣重機が警戒音──鬼獣を引きつけるサイレンを突然鳴らしたのだ。俺の心臓は本当に止まるかと思った。だがしかし、それは間違いなく俺にとっては救いであった。
バネのように動き出す。
中学以来やってこなかった陸上のフォームを思い出した俺の身体は、短足のチーターのように雪道を駆けた。自分が思うよりはずっと速く、しかし脳が苛立ちを覚えるほどには長い時間を掛けて女の子のもとに駆け込み、そのまま流れるように抱えあげる。
その子の身体は思ったよりも重くて、テレビで消防士が無意識の要救助者を持ち上げる難しさを語っていたことを思い出した。なんとか転ばないよう二歩、三歩と踏み込んだが、物理的に限界な姿勢までツンのめったところで野球のスライディングのように地面へ倒れ込む。
すぐさま立ち上がり、今度はしっかりホールドして少女を抱えあげる。簡単なトルクの問題だ。ものを持つ時は、重心が支点に近ければ近い方がいい。長期のオンライン生活で鈍りきった身体にむちを打ち、全力で駆け抜ける。
俺は死に物狂いで走りながら後ろを確認した。猪は追ってきてなくて、その代わり政府の重機──無限軌道の二脚に大きな盾とガトリング砲を備えた戦闘車両が壁にめり込み黒煙を上げていた。
◇
ふう、ふう、ふう、……
どれだけ走ったことか、いや、普段歩いても15分かそこらの距離だからさほど長くは走っていないはずだが、それでも、普通に全力で走ったとしてもこの世の終わりのように息が切れる道のりを、人っ子一人抱えて走りきったのだから褒めて欲しい。
辿り着いたのは地下鉄入口。この辺の区域の避難先は基本的に市営地下鉄だ。まだまだ流れ込む住民を受け入れるそこは人で混みあっていて、だけども憔悴した子供を背負う俺を、対策町会(災害時の対策を行う、住民間の自治体)のおじさんは運搬通路から通してくれた。それから、臨時衛生所の場所も教えてくれた。
駅舎に入ると、やっぱりそこは人で埋まっていた。
「ぃってえなっ!」
「アッ!押さないでよもう!」
叫び声が飛び交う。流れに逆らわず線路の奥の方へ順に移動していると、背中にピクリと動く感触が。続いてふわぁ〜という気の抜けた声がした。
「起きた?」
「え……」
声をかけると、俺の背中に担いでいた女の子はびくりと硬直してそのまま動かなくなった。
「道端で倒れていたから、ここまで連れてきた。名前は?」
「えっ……あっ……にぃな……」
「にいなちゃん、ご両親は?」
「えっと……」
「お父さんとお母さん」
「あっ……父は隣にいて、一緒に走ってて、それから……あれ、どうなったのだ……」
父親らしき人なんて、あの場にいなかったけどな……。
「あっ、そうだ、あのあと急に押し飛ばされて、……。──」
……。猪の激突によって、民家の塀が、母屋が吹き飛んでいた。もし仮に、それに誰かが巻き込まれていたら。俺はそこに人がいたことすら気が付かなかっただろう。鉄筋コンクリートさえ、その一瞬でただの瓦礫の山と化す衝撃だったのだから。
「お母さんはいるか?」
「母は……お仕事に行ってる」
「君の苗字と歳も教えて欲しい。あと、お母さんの名前も。探してやんよ」
「うん……」
線路に下りて南に向かう。
この街をピッタリ南北に縦断する市営地下鉄は、ここから2キロ余り南下したところにあるターミナル駅でJRと接続し、さらに一駅南の大通駅で東西に分岐する。
背中にしがみつく少女は、その東西線沿線に住んでいるらしい。具体的には円山公園──南北線から東西線に乗り換えて、西に3駅ほど行った辺りだそうだ。今日は父親と共に私立の中学校に見学しに来ていたらしい。
この辺、別にパッとした私立中学なんてないと思うけどな。わざわざこんな遠いところまで中学受験して来る必要はないだろうし、地元の公立中学に行けばいいと思うのだが、教育熱心なご家庭はそういうもんではないのかね。
線路沿いに南下する途中、駅に立ち寄って対策町会の人ににいなちゃんの情報を伝えた。本人の名前と住所、それにご家族の名前も登録して、各町会──しばらくすれば役所に引き継がれるだろうが──に伝達されるのだ。
それから俺は、にいなちゃんには聞かれないよう、父親のことも伝えた。多分、生きてないだろう、と。
「お待たせ。じゃあ行こうか、にいなちゃんの家まで」
線路上は行き交う人々でごった返していた。
本来は地下歩道空間が通っているから道も広いはずなのだが、今はそれら全部が避難民の小部屋になっていて、仮設ブースに区切られている。
住民票を持つほとんど全ての住民は部屋を与えられていて、俺の割り当てられた部屋も最寄り駅からそう遠くない場所にある。
線路は言わば、地下歩道空間の代わりに廊下の役割を果たしているわけだ。だから非常用を想定して改築されたこの線路は幾分か歩きやすいのだが、今は移動する人の数が圧倒的に多く、いくら拡張工事したとはいえ混みあって仕方ない。
「お兄ちゃんの名前はなんなのだ」
「好きに呼んでくれ」
「好きに、と言われても何も取っ掛りがないと困る」
「……分かったよ。…………藍。それだけでいい」
「らん……いい名前」
「そうか?」
「うん、いい名だ」
「俺は女っぽくてヤだったけどな」
「女っぽくてダメか?」
「……そうだな、何も悪かないわな。揶揄われんのが怖かっただけだ。ただ、それだけ」
それから俺らはずうっと歩き続けた。流石にもう重いから、にいなにも歩いてもらった。12歳にしては小さな、けれどもずっと背負っているには大きいその身体は、おぼつかない足取りで俺の傍から離れないようくっついて歩いた。初詣かと思うほどの人波で、決して離さないよう俺とにいなの手は固く握り合った。
いつもだったら電車ですぐの場所でも、歩いて、しかも人混みに揉まれてなんて、結構しんどい。
道中、若い人、多分俺と同じくらいの歳の男性に声をかけられた。
にいなはおっかなびっくり俺の後ろに隠れている。
おっ、九木じゃねえかって、やけに馴れ馴れしい。
到底そいつの名前は分からないが、全く検討がつかない訳じゃない。多分、同じ部活の人間だ。
いや、だったと言うべきだろうか。
こっちに来てから俺は、例にも漏れずサークルを探した。大学生と言えば、バイトとサークルだろ?だからリア充になろうって決意して選んだ先がテニス部だ。
ただ、これが大失敗だった。
あいつらは、いやどこの部活でも同じだと思うが、「サークル」と呼ばれることに並々ならぬ忌避感を抱く。
俺らは真剣にやってるんだってやけに本気がるんだ。
知ってるか?驚いたよ、彼らが年間にかけている費用に。
いやもちろん、タダで済むとは思ってなかったけどさ、まさか毎週のようにクソ高い練習場に行くとは思わないじゃん馬鹿なのかよ?
大体な、サークルの奴らより下手なくせに上等なラケット買って、やたらと合宿開きたがって、大会も出てさ。
中身も追いついてねえくせにカッコだけ整えたがる、金持ちのボンボンしかいないとこだよ、あそこはさ。
で、俺はいよいよそいつらに付き合う金がなくってしかたなく退部したんだけど、目の前のそいつからはそのボンボンの臭いがめちゃくちゃする。それに俺の大学の知り合いは部活の人間くらいだ。だから間違いない。
こいつは、隙あらば俺に意識高い系アピをカマしてくる!!!!!
「……か?なあ、九木。聞いてるか?」
「ふぇっ!はいっ!な!なんでしょか!」
「お前ん家24条の方だよな?なんでこっちきてんの?」
「あっ……こっ、この子を円山の方までっ!」
「ん?おお、女の子か。嬢ちゃん、迷子か?この兄ちゃん悪い人じゃないからな、いい子にしてついて行きなよ。……九木、ちゃんと送り届けるんだぞ。あとな、南の方は余計被害が酷いらしい。大通くらいまでならいいけど、あんまりあっちに行くなよ」
「ひゃっ、……はい!」
陽キャとの会話は、本当に疲れる。
「らん……会話、下手なのか?」
「うるさい。そういうのは黙っとくの」
そうして歩くこと30分ほど、大通で道を乗り換えようやく俺たちは円山に着いた。と言っても……
「だからぁ!外に出てえだけなんだよ!なあ!」
「そうは言っても今はここを通す訳にはいかなくて……外には鬼獣がウロウロしてますし……」
「知らねえよお前に迷惑かけるわけじゃないだろ?じゃあ出せよ!お前ら責任取れんのか?嫁と子が死んでたら返してくれんのかよ!」
中年の男が、外に通ずる階段の前に立つ若者に怒鳴っていた。
「やっぱ出られないよなあ」
それは、閉じ込めるためではなく守るためではある。
しかし、対策町会の掲示板で確認したところにいなの母親の生存届が未だ申告されていなかった。もちろん、死亡届の欄も、だ。
だから探すなら外なのだ。それは年甲斐もなく、はしたなく当たり散らしているあの男も同じなのだろう。
「なあ、ここからどうするよ」
俺たちはにいな達家族に割り当てられていたはずの区画で座り込み、休憩をしていた。3人家族用のここは、2人で使う分には十分なほど広かった。
「家に寄りたい」
補給所で貰ってきた温かいスープを啜りながら、俺たちは今後の予定を立てていた。
「家?忘れものか?」
「うん。取りに行きたいのがある」
「つっても封鎖されてるっぽいし……今必要なのか?」
「……生きるのと同じくらい、大切なもの」
「明日なら……行けるかもな」
今日はもうよそう。
俺たちはそのまま、男の怒声と女の金切り声を子守唄に浅い眠りへとついた。
次回、陰キャラ九木藍くん、死す!!!