前編
「ファビオラ、どうした?どうも、顔色が優れないようだが」
がたごとと揺れる馬車の中、隣に座るファビオラの顔を覗き込み、心配そうに眉を寄せているアシュトンの視線に、ファビオラは慌てて首を横に振った。
「……いえ、たいしたことはございませんわ。馬車の揺れで、少し酔ってしまったようです」
青白い顔をしたファビオラの華奢な身体を労るように、アシュトンは優しくその背をさすった。
「そうか。もうじき馬車も峠を越える頃合いだろう。そうしたら、馬車を止めて少し休憩を取ろうか」
「ありがとうございます、アシュトン様」
ファビオラはぎこちのない笑みを、何とか目の前のアシュトンに返した。
蜂蜜色の鮮やかな金髪に、アメジストのような澄んだ紫色の瞳をしたアシュトンを、ファビオラはちらりと見上げた。一見甘い顔立ちだけれど、形の良く大きな瞳に宿した誠実そうな色からは、彼の真っ直ぐな人柄が見て取れる。
「テッサリア王国までは、この山道を過ぎればもうすぐだ。日が暮れるまでには、屋敷に着くことができるだろう。
他国に嫁ぐというのも心細いとは思うが、そこは僕が君を全力で支えることで補いたいと思っている。だから、遠慮なくこれからは僕のことを頼って欲しい。君も、もうメレディス家の一員になるのだから」
アシュトンの言葉に、ファビオラは俯くとこくりと頷いた。つい先ほど顔合わせをしたばかりとは思えないほどに、彼のファビオラに対する態度は優しかった。けれど、彼の紳士的な態度や、温かな気遣いに触れる度に、ファビオラはいたたまれない気持ちになった。
(……だって、私はお姉様の身代わりだもの。彼はいつ、そのことに気が付くのかしら……)
ファビオラは思わずきゅっと唇を噛んだ。
ファビオラが生まれ育ったルトーリス王国では、現在ではほとんど残ってはいないけれど、魔法の使える血筋が、ほんの片手で数えられるほどだけ存在している。その数少ない一つが、ファビオラの生家であるカドゥ家だった。
他方で、テッサリア王国でも、魔法の使える血筋というのは今日では大変に稀少らしい。魔法の才能を後世に伝えるためにと、魔法の能力を持つ家同士の婚姻を繰り返してきたために、血が濃くなってしまったことから、アシュトンを長子とするメレディス家では、婚姻を結ぶ相手を探す範囲を、他国まで広げたようだ。そこで白羽の矢が立ったのがカドゥ家だったと、ファビオラはそう聞いている。
アシュトンの従者のライルが、小さくなっているファビオラを見てくすりと笑んだ。
「名門カドゥ家のご出身なのに、謙虚で、可愛らしい花嫁様でいらっしゃいますね」
可愛らしい、というライルの言葉に、ファビオラはさらに申し訳なさげに肩を小さくすぼめた。今のファビオラには、姉のユーディリスの魔法が掛けられているのだ。ルトーリスの華とも称される美貌の姉と、同じ外見に見せる魔法が。美しい銀髪に、愛らしい紅玉のような瞳を持つユーディリスは、まるで妖精のように美しいと、ルトーリス王国では口々に賞賛されている。
本当のファビオラは、夜明け前の空のような群青色の髪に、同色の瞳をしている。人目を惹く姉の色彩とは対照的な、目立たない色合いだ。姉と比べると、取り立ててこれといった特徴のない自身の外見を、ファビオラはよく自覚していた。このような、爽やかな美男子と至近距離にいるという状況にも、可愛らしいと言われることにも、まったく免疫のなかったファビオラは、思わず後退りしそうになる自分を叱咤しながら、勇気を出して口を開いた。
「あの、アシュトン様」
「ん、何だい?」
穏やかな優しい笑みを浮かべて、アシュトンはファビオラを見つめた。
ファビオラは幾度か口を開けたり閉じたりを繰り返してから、小さく溜息を吐いた。
「……。いえ、何でもございませんわ。すみません」
(お姉様は、私に口封じの魔法も掛けたのね)
やはりこのままではいけないと、本当のことをアシュトンに告げ、この話はなかったことにしてもらおうと思ったファビオラだったけれど、どうやらそれも叶わないようだ。
ファビオラは、メレディス家からの手紙が届いた時の姉の言葉を思い出した。
「長姉から嫁ぐのが本来なのでしょうけれど、お父様は、私が他国に嫁ぐことは嫌がっているし。……テッサリア王国は大国ではあるけれど、素朴な自然が広がるばかりで、この国ほど文化的にも進んでいないそうだし、私だって田舎に嫁ぐのは御免だわ。
でも、テッサリア王国の、それなりに名のある家からの頼みを無下にする訳にもいかないの。だから、私の代わりに、あなたが嫁いでくれる?」
そして、口の端に薄く笑みを浮かべながら、ユーディリスはファビオラの前に手を翳した。その手からは淡く白い光が放たれる。
「お、お姉様……?」
戸惑うファビオラに、ユーディリスはにっこりと微笑んだ。
「少し急だけれど、もう、明日にはメレディス家のアシュトン様自ら、この家にあなたを迎えにいらっしゃるのですって。
でも、これであなたも、胸を張ってメレディス家に嫁げるわよ」
ユーディリスは、部屋の姿見の方向をくいっと顎でファビオラに示した。
姿見に駆け寄ったファビオラは、鏡の奥にユーディリスが2人映っている様子に驚愕して、鏡越しに本物のユーディリスを見つめた。
「……!!どうして、このような魔法を私に?」
「あら、さっきも言ったけれど、先方が妻にと望んでいるのはきっと私よ。
でも、テッサリア王国では、一度婚姻を結んでしまえば離縁は固く禁じられているわ。そのうち私の魔法が解けたとしても、それまでに結婚さえしてしまえば、あなたの身分も安泰のはず。
……浮いた話もないあなたには、またとない機会じゃないかしら?それに、お父様もこの縁談を喜んでいたし」
ファビオラは苦々しく笑った。カドゥ家の中心は、美しく魔法の才能にも恵まれたユーディリスだった。父も母も、成長するにつれ輝きを増すユーディリスの美貌と能力を褒めそやしたけれど、ファビオラは常に影の薄い存在だった。暗い髪や目の色も、ルトーリス王国ではあまり望まれない色で、魔女の血筋とも言われるカドゥ家の先祖返りとも囁かれていた。それなのにたいした魔法の才能もないファビオラを厄介払いできて、きっと父も母も喜んでいるのだろう。それを証明するかのように、他国にユーディリスを手放す気のなかった父も、そして母も、あっさりとファビオラをメレディス家に送ることを承諾した上、ファビオラが家を出る時も、他に約束があるからと、見送りにすら現れなかったのだから。
カドゥ家にという話で来たこの縁談だったけれど、ファビオラは、妹の自分ではなく、やはり姉のユーディリスを望んだものだったのだろうと、余りものの自分が嫁ぐことに申し訳なさを隠せずにいた。
「でも、お姉様。私は夫になる方を騙したくはないわ。本当の私を見ていただいて、それで断られたなら、それも仕方のないことだと思うの。だから、この魔法を解いてくださらない?」
「……それで破談になりでもしたら、さっきも言ったけれどお父様が困るのよ。それに、私もね」
「……」
自分のことしか考えていない様子の姉は、いつか魔法が解けた後に混乱に陥るであろうメレディス家や、針の筵の中に放り出されるであろうファビオラのことなど、きっと頭になどないのだろうと、ファビオラは思った。
言い返すこともできないままに、流されるように翌日を迎え、メレディス家からの馬車に乗り込んだファビオラだったけれど、ユーディリスの姿を借りたファビオラを見て嬉しそうに微笑んだアシュトンに対して感じた罪悪感が、さらにどんどんと膨らんで来ることに、耐え難くなってきていたのだった。
それに、ほかにも引っ掛かっていることがもう一つあった。
(アシュトン様を見た時の、お姉様のあの表情……)
ファビオラを迎えに来たアシュトンの様子を、二階の部屋のカーテンの影から盗み見ていた姉の姿に、ファビオラは気付いていた。カドゥ家のものよりも数段立派な迎えの馬車に、彼女が目を見開いたことも、そして、眉目秀麗なアシュトンを一目見て、彼女が頬を染めていたことも。
ファビオラがここ数日の出来事を思い返していると、馬車が次第に速度を緩め、アシュトンがにこりとファビオラに話し掛けた。
「さあ、一旦馬車を降りて外の空気でも吸おうか。それに、ここからはメレディス家の領地が一望できるんだ」
アシュトンの手を借りて馬車から降りたファビオラは、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。高台で眺めの良いその場所からは、豊穣な土地と恵まれた自然で知られるテッサリア王国の、メレディス家の領地の様子がよく見えた。
「わあ、綺麗な景色ですね。懐かしいわ……。昔、家族で一度、テッサリア王国を訪れたことがあるのです。ちょうど、国境から少し入った辺りの、この近くだったと思います。澄んだ川の水がきらきらと輝いていて、樹々の間から陽光が差し込んでいて、自然が豊かで美しい場所だと思ったことを覚えています」
「豊かな自然と言えば聞こえは良いが、手付かずの自然がそのまま残っているということでもあるからね。洗練されたルトーリス王国の文化に比べたら、物足りなく思うかもしれない。もし、気に入ってもらえたなら嬉しいのだが」
ファビオラは、目の前に広がる景色を眺めながらふわりと微笑んだ。
「私は、どこもかしこも人の手が加えられたルトーリス王国よりも、むしろ伸びやかな自然の残るテッサリア王国の方が好きですわ」
「そうか、なら良かった」
アシュトンがはっとするほど美しい笑みをファビオラに返したので、ファビオラは耳まで赤く染まった。
「さあ、ではそろそろメレディス家に向かおうか」
「はい」
優しくファビオラの手を取ったアシュトンに、もし自分が彼に望まれた花嫁だったならと、ファビオラは考えずにはいられなかった。