第3話 それは人形へと至る道
「この辺りなら誰も来ないはずだから、お喋りしてても大丈夫かな」
一面雪化粧をしたかのような風景。影も、そして光すらも無い、ただ真っ白なだけの世界。
「あなたには今、何が見えているのかな? 私と同じ真っ白な荒野、それとも――――」
私達はそこに腰を下ろす。固くも柔らかくもない地面。ただそこに有ること以外は何も確定していないソレ。私の心の中の風景。
「僕には、知らない教室が見えてます。木で出来た机と椅子がたくさん並んでいて、窓からは夕日が差し込んでいて」
彼の心の中の風景は私のと違ってちゃんと色が付いているみたいで。私と同じじゃなくて良かったという気持ちが心を支配する。
この教室。私も知っている場所。私がかつて生きていた頃に通っていた高校。その端っこの方の空き教室。
「クリーム色のカーテンが揺れて、外から元気な掛け声が聞こえてくる……で合ってるかな?」
私と君が放課後にお喋りしてた場所。何年、何十年、いや何百年経ったってここだけは絶対に忘れない。忘れたりはしない。
「なんでわかったんですか?」
「……なんとなく、だよ。私だって詳しくは知らないけど、あなたの心残りと何か関係あると思うんだ」
「この場所って僕にとってどんな場所だったんですか?」
「そうだね……。あなたにとってこの場所は――――」
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黄色い葉が舞い散る季節。
その時にはもう、君はそこにいた。
「あれっ、ここって空き教室だよな……?」
最初に聞こえたのは、たった一つの疑問符。
君はカラフルに彩られたキャンバスの前に立っていて。片手にパレット、もう片方の手に絵筆を持っていて。
教室いっぱいに揮発した油の強烈な匂いが染み付いていて。
「う、うん。その……一人になりたくてさ」
「見てるだけなら別にいいぞ。俺もそこまで心が狭い人じゃあないし」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
君が見える席に座って過ごす放課後。本をめくる手は時折、いやずっと止まっていて。いつからか君に夢中になっていたんだっけ。
「なぁ、この絵どう思う?」
「えっと……そんなに絵とか詳しくないからわからないけど、なんかどこまでも続いてる平原って感じがする」
そんな感じに聞かれたり、あるいは。
「どんな本読んでるんだ?」
「これ……? えっと、ヘッセの『車輪の下』っていう本だけど」
そうしているうちに季節は流れ、空き教室には数枚の油絵が飾られるようになった。空っぽだった心のキャンバスはその頃には――――
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「――――その頃には、カラフルに彩られてたってわけ」
「それなら心残りも何も生まれずに僕は成仏するんじゃないですか? だって彼女と幸せに」
「なれなかったんだよ。なりたくても、ね」
ならないという選択肢なんて無かった。私はあの放課後の風景が大好きで大好きで仕方なかったから。
私は、私に彩りをくれた彼とずっと一緒にいたかった。それだけなのに。私の願いはそれだけだったのに。
「彼女は、高校を卒業出来なかったんだ。正確にはそこまで生きられなかった、かな。……今もこの世界のどこかを彷徨ってるかもね」
「なんか、ごめんなさい……」
「当事者じゃない私に言われてもちょっと困っちゃうかな」
何も出来ないまま、私という存在は世界からデリートされて。
そう。これはある春のことだったと思う。
「まぁ、救いがあるとすれば――――彼女は突然消えたわけじゃないんだ。少しずつ少しずつ、神様ってやつに身体を持っていかれてった感じかな」
「神様に、ですか?」
「あぁ、神様だろうね。あんな嫌がらせをするのはきっと」
死因はただの衰弱。足が、腕が、指が動かなくなっていくのを永遠に見せつけられる。医者と親が深刻そうな話をしているのに、私の前では貼り付けたような笑顔を見せてきて。
それが嫌だった。絶望した。
いつからか私の目には白しか映らなくなっていた。
「その、何も知らない僕が言っちゃ駄目だと思うんですが、大変だったんですね……」
「さぁ、私は当事者じゃないから又聞きしただけだよ」
私はそこにいたカラフルな彼女じゃない、ただの真っ白な天使で。どこまでも白く、純粋で、清廉なお人形だから。
「それは――――」
憐憫なんていらない。
同情なんていらない。
ただ、あの少女のために幸せになって欲しかった。なのに君は。だというのに、君は。
「じゃあ、とある少年の話の続きをしようか」