前編
かくれんぼが、大好きだった。
見つけるのも、見つけられるのも。
隠れているのは、見つけてもらうため。
見つけた。
そう言って笑う顔を見るのが、また楽しい。
だから早く、見つけてほしい。
お母さん、ぼくはここだよ。
頬をなでる風が、冷たい。
鬼は窓を開け、まだ夜が明けきらない空を見上げる。
月が白い。
「どうしたんですか?」
寝床から、狐の末姫が声を掛けてきた。
小屋に流れる夜風を感じて目を覚ましたが、隣にいるはずの夫がいなくて驚いたようだ。
布団から体を起こそうとした妻を、軽く手で制す。
「なんでもない。寝てていいよ」
その笑顔に安心したのか、末姫は頷いてまた布団に潜り込んだ。
すぐに寝息をたてる。その無防備な仕草は、自分に心を開いているからだ。
そう思うと、なお、いとおしい。
しばし月の光を浴びたあと、鬼も布団の中に入り、末姫の頬を優しく撫でた。くすぐったそうに身をよじるのが、獣のようで可笑しい。
一人で暮らしていたときは粗末な筵で充分だったが、所帯を持った友人のためにと、天狗達が最低限のものを揃えてくれたのだ。
狐の化生である妻も贅沢を望んでいるわけでは決して無いが、自分とともにいてくれると言ったこの娘のために、鬼は友人の厚意を有り難く受け入れた。
狐の姫は、九尾の狐を父に持つ。
妖力を操る一族の長に比べると、変化ができる程度の狐たちは、あっけないほど短命だ。
姫を生んだ母も、姫が幼い頃にこの世を去った。
でも、父上がいたから。
そう笑った姫の笑顔は、受けた愛情をそのまま現すような、曇りのないものだ。
俺はいま、幸せだと思う。
天狗は、無二の親友だ。そして、可愛い伴侶も得た。
ただ、大事なものが増えていくと、知らないことが多いことに気付いて、時折無性にもどかしくなる。
俺は、どこで生を受けたのか。
誰の腹から生まれたのか。それとも何かから作られたのか。
自分は一体、誰なのか。
「秋だなあ」
「秋ですねえ」
いつもの威厳はどこへ行ったか、大天狗が珍しく、縁側で十五夜の月を眺めながら妻の烏天狗と酒を酌み交わしている。
今年は豊作だ。
米が美味いと、酒も美味い。村人が持ってくる新酒で晩酌をする正月を思うと、自然と笑みがこぼれる。
「あちらの長にも、届けましょうか?」
新米の俵を見て、大天狗は少し思案する。
「そうだな…まあ付き合いもあるし。九尾も寂しかろうからな」
「末姫に頼みますか?それともあの子に持たせます?」
あの子、とは、赤い髪の鬼のことだ。
「ああ…いや。うーん…」
「あの子、まだ会ったことないのでしょう?九尾殿と」
「いや、九尾はたまにこっそり見てるから…」
え?と眉間に皺を寄せた妻に、いやいやいや、と慌てて手を振る。烏天狗は、深い溜め息を吐いた。
「不粋ね」
言い切られて、返す言葉がない。
妙な間を埋めるように、大天狗は酒を一口飲んだ。
「俺が覗き見してるわけではないが…なんかすまん」
大天狗の元に、鬼と末姫が揃って呼ばれるのは珍しい。
若干緊張したような姫とは逆に、鬼はいつもと変わらぬ様子で長の話を聞いていた。
「わかった、これを届けたら良いんだな」
鬼はそう言って、米俵を2つ肩に担いだ。まるでお手玉でもするような仕草だ。
相変わらず馬鹿力だな、と、大天狗は思ったが口には出さない。
「では、いって参ります」
隣でちょこんとお辞儀をしたのは、狐の末姫である。
「うむ」
可愛い。
九尾の台詞ではないが、本当に可愛い。
こちらは、思わず口元が緩んでしまったが、妻に脇腹を小突かれた。
「…妬いたのか」
「私じゃありません」
しれっと言う妻の目線の先には、息子とその彼女がいる。
鬼が初めて九尾に会いにいくというので、興味津々で見送りに来たのだ。
末姫は、仲良しの烏天狗に向かって無邪気に手を振る。
しかし、白い短髪の息子が、微妙な顔をして隣の彼女を制していた。その腰まである黒髪が逆立ちそうな、険しい空気をまとっている。
「どうして男は、守ってあげたくなるような若い女子に弱いのかしら…」
「姉さんだって中年好きなのに」
不満そうな彼女に、天狗は呆れたように返す。
「姉さんて呼ばないでよ。年上扱いしないで頂戴」
「いや、年上だろ」
「あんたが年下でさらに童顔なのが悪いのよ」
「それは親に言ってくれ」
「長に似ないあんたが悪いんでしょ」
痴話喧嘩なのか軽口なのかよくわからないこの光景も、いつものことだ。
「仲良いですねえ」
姫が少し羨ましそうに呟く。鬼はとにかく優しいので、ついぞ夫婦喧嘩などしたことはない。
「…喧嘩したいのか?」
「わざわさしたいわけじゃ、ありませんけど」
無い物ねだりの気持ちはわかるが、そんな姿も可愛くてたまらず、鬼は姫の肩を抱き寄せた。
きゃあきゃあ、と、小柄な姫が、照れながらも鬼の腕にすっぽり収まる姿はほほえましい。
あらあら。
おお。
年長者たちは、若者は良いなあなどと呑気に話している。
しかし、もう一組の若者達の表情は微妙だ。
「姉さん…もし姉さんが守ってやりたくなるような女子だとしても、あれは俺には無理だと思う。人前で。しかも親の前で」
「わかってる。こういう時、胸が無い姫が心底羨ましいと思うわ」
「いや、そういう問題じゃないし。胸が無いと俺が困る」
天狗の頬に、平手が飛んだ。
あらあら、あちらも仲良しねえー、とわかっていながら微笑む妻を見て、大天狗の眉間に皺が寄る。
「女は怖いな…」
「強いと言って下さい。本当にあの子はあなたに似て女心がわからないんだから。ねえ?」
大天狗も、さすがに何も言えない。
「いってきまーす」
広がる波紋を気にも止めず、鬼は快活に手を振って、末姫を伴い出発していった。
鬼は、末姫の隣で歩調を合わせながらゆっくり歩いている。それでもそれほど遠いわけではないので、休憩は取らずとも順調に山を越えた。
そろそろ狐たちの里に差し掛かるはずだが、鬼には里の入り口はわからない。
「親父さん、いつもどこにいるんだ?」
歩きながら、鬼は末姫に聞いた。
「そのへんにいますよ」
「そのへん?」
鬼は立ち止まり、辺りを見回した。
秋の山は静かだ。うん、と軽く頷くと、肩に担いでいた米俵を足元に置き、おもむろに末姫に口付けする。
「…え?ええと…」
末姫は顔を赤くして慌てて口を離したが、山は静かで、特に何も起こらない。
なんだ、と、つまらなそうに鬼が言う。
「天狗が、狐の長はお前のことが大好きだから、見せつけたら本性を現すんじゃないかって」
中途半端に子供みたいな発想だ。言い出す天狗もだが、実践する鬼も、である。
「えーと!そのへん…と言うのは比喩であって、その、どこかで見守ってくれているという意味で…!」
「なんだ。本当にその辺にいるわけじゃないのか」
鬼は、じゃあ気兼ねなく、と言いながら、姫を抱き寄せ耳に頬擦りをする。
「父はっ、私たちのことを認めてくれましたし、そんな狭量な方では…。あの…」
外では止めて下さい…と身をよじりながら消え入りそうな声で言う姫を、鬼は胸元に抱いたまま離さない。
「だめ」
えーん、と困ったような声を出す姫に、鬼は耳打ちした。
「今お前を離すと、俺、ほんとに親父さんに殺されちゃいそうだからさ…」
え?と、姫は首を回して、鬼の腕の間からちらりと辺りを見る。
いつの間にか、辺りは漆黒の闇だ。
「…あ、はい…そうですね…」
静かに頷く姫に、鬼は、さて困った、などと、全く困っていないような口調で言う。
「俺、山に帰れるかな…。九尾の姿が見れたら、天狗にも教えてやりたいけどなあ。うーん、むしろ今からでも天狗をここに呼びたいなあ…」
「え?そこですか?!」
姫が思わず顔を上げる。
「え?姫は見たくないの?」
いたずら心…というよりは純粋な好奇心で思っているらしい。確かに見たことないかも…と姫も同意しかけたところで、怒号が飛んできた。
「こら!そこ!離れろ!!」
いつのまにやら、役者のように男前な青年が、少し離れた場所に立っていた。垂れた目を細めて、腕を組んでこちらを見下ろしている。
「あっ、父上…」
「父上?」
末姫の言葉に、鬼は訝しげな視線を青年に向けた。
「親父さん、若作りだな」
「大天狗と同じことを言うな。とにかく離れなさい。何もしないから」
しっしっ、と九尾が手を振り促す。
父親に言われたからというよりは気恥ずかしさで、末姫は鬼の腕から抜け出した。
獣のような、鋭い瞳が角を持つ異形の姿をじっと見つめている。
目が合ったところで、九尾は静かに言った。
「赤い目をした、鬼よ」
口元が、ふっと緩み、口角が上がった。
「よく来たな」
狐の里は、賑やかだ。
人里から距離をおき、九尾が化け狐の一族のために作ったという。
住むのは九尾にゆかりのあるもの達だけではないが、人々の満たされない欲の中で過ごすことに辟易した同種の者たちが自然と集まってくる。もちろん、人の世の方が性に合う者が出ていくのも、引き留めたりはしない。
縛られて生きるも気ままに過ごすも、自由だ。
鬼と末姫は、九尾に招き入れられた里のなかを、並んで歩いている。
「久しぶりだよな。楽しいか?」
「はい!」
鬼の言葉に、にこやかに返事をしたあと、末姫は、あ、と気を遣うように黙ってしまった。
その仕草も、可愛らしい。
「生まれ育った場所だからな。遠慮しないでもう少し頻繁に帰ってきてもいいのに」
本心だ。
山にいても、毎日なんとはなしに過ぎていくだけ。町に行き来したり、賑やかな場所に少しでも身を置いたことがある者は、さぞ退屈だろうと鬼は思っている。
しかし、末姫は首を振る。
「私は、山の暮らしが楽しいです。母とも、よく山に出ていましたから」
へえ、と鬼は妻を見る。
「狐の姿でか」
「はい。母が亡くなってからは、一人で」
「それで危ない目に遭ってりゃ世話ない」
「おかげであなたに出会えました」
鬼は、苦笑した。
末姫も、ふふ、と笑う。
見かけよりはるかに芯が強いこの末姫の性格は、亡き母狐譲りなのだろうか。
「しばらく、ゆっくりしていきなさいと、父が」
九尾は、よく来たな、と言った。少なくとも追い返されないことはわかったが、特にそのあと会話をするでもなく、九尾は軽々と米俵を担いで、すぐ奥に戻ってしまった。
振り向き、一言。大天狗によろしく、と。
「大天狗と九尾は、仲がいいんだよな」
「仲がいいかは…でも、もうかなり長い付き合いとは聞きました」
九尾のほうがはるかに長生きだ。
何がきっかけで交流を持つようになったかは語られたことがないが、一族を束ねている者として、お互いに一目置いているのは感じとれる。
それこそ、鬼にはわからないことだ。
「長同士、色々あるんだろうな」
ふと、見知らぬ者と目があった。末姫と鬼を順に見ていくのだ。
末姫が擦れ違う者達に会釈するのに倣い、鬼も軽く頭を下げる。
時たま、鬼に向かって挨拶をしてくる女性たちもいた。あれ?とちょっと驚いたように、鬼も挨拶を返すと、姫が眉間に皺を寄せた。
「…お知り合いですか」
「…まあ、色々あるよな」
目を逸らす鬼を、姫はじっと見つめ、口を尖らせる。
「私、出会う前の鬼殿のこと、ほとんど知りません。天狗さん達に聞いたことくらい」
「あいつらに聞けば充分だろ」
鬼は、不満げな姫に向かって言う。
里には店も並んでいるので、ふい、と旨そうな匂いに惹かれ、饅頭を買った。買ったと言っても九尾のつけだ。どうやら客人が来ていることは、長より通達されているらしい。
1つ、姫にも饅頭を渡し、自分も頬張る。
姫は、鬼を見上げた。鬼は、前を見ながら歩いている。しかし、店を見ているわけではない。
「俺は今、姫や天狗たちといることが一番楽しいからさ」
遠く、ここからでは見えない山の方に目をやりながら言う。
鬼の言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。