第32話 his happiness
「いやああああ―――――――――!!」
廃工場に少女の悲鳴がこだまする。
ビーストが勝利を宣言するかのように両手を掲げ禍々しい咆哮を上げた。
そのままのしのしと歩き去っていく。
その脇をすり抜けるようにして、モフリンがナギのそばに駆け寄った。
「ナギ! ナギ!」
懸命に仰向けに倒れている青年に声をかける彼女を見ながら、新はあまりのことに呆然としていた。
ビーストのHPはゼロになっていたはずだった。
HPゲージの見た目の上では。
だがおそらく数値にして1か2か、ほんのわずかにHPが残っていたのだ。
だから消滅することなくナギに反撃できた。
そしてその次に起きたことはさらに信じられないことだった。
おそらく何らかの不具合だと思われるが、撤退タブが機能しなかったのだ。
モフリンが何度押しても撤退することができなかった。
いやもしかしてリアリティーを重視して技後硬直中は撤退できない仕様になっていたのか?
もしそうならアナウンスを怠った運営の責任は重い。
だってナギは………。
「モフリン………様」
ナギが弱々しく瞳を開いた。
「申し訳………ありません。ビーストを倒すことが………できませんでした」
「そんなの! そんなのいいよナギ!! だからだから!!」
必死にナギにすがろうとしてしかしVRであるその体に触れられず、パニックに陥りそうになっているモフリンにナギは静かに微笑んだ。
「私にとってあなたとともに過ごした日々は本当に楽しいものでした」
「貴方と話し、あなたと策を練り、戦いの結果に一喜一憂し………。そんな一つ一つがかけがえのない日々でした」
「ナギ! そんな風に言わないでよ! 嘘だよね?! これで終わりなんかじゃないでしょ?!」
モフリンの必死の言葉にも彼は困ったようにわずかに眉を下げるだけだった。
「私は人間になりたかった。貴方と同じ風景を見たかった。貴方と同じ風を感じてみたかった。貴方に………触れたかった」
ナギの手がモフリンの頬に伸ばされる。
しかしそれは彼女に触れることなくすり抜ける。
その手をとらえようとしたモフリンの手も彼の手に触れることはできない。
「でもそれは、………もはや叶わぬ夢のようです」
モフリンは今になって知った。
ナギも自分と同じように願いを持っていたのだと。
人間になって自分と同じものを見て、感じてみたかったことを。
そして彼は………。
「モフリン様。私はあなたのことを………」
そう言いかけたナギの体が少しずつ電子的に分解されるように消えていく。それが足先から胴へと至るの見て、ナギは言葉を止めた。
「私は………」
ツウッと彼の両の瞳から涙が流れた。
「私はあなたに会えて幸せでした」
………それが最後だった。
その言葉を最期にナギの体はすべて消え、光の粒子となった。
「ナギっ!!!」
モフリンが必死に手を伸ばしその光を掻き抱こうとするが、その手は何もつかめず。
ナギだった光の粒子は宙に溶けて消えていった。
YOU LOSE。
後には無機質な文字だけが残されたのだった。
・・・・・・・・・・
「………………」
その場に沈黙が流れていた。
あまりのことに誰も声を発することができない。
やがて、
「あ~あ」
最初に声を上げたのはモフリンだった。
立ち上がりパンパンと膝に付いた埃を払うとさばさばした様子で言う。
「負けちゃった」
その言葉に激高したのはSAIだった。
「そんな言い方………!!」
今まで見たこともない形相でモフリンに詰め寄ろうとした彼を、新がきつく肩をつかんで止める。
SAIが眉を寄せながら彼を見ると、新は静かに首を横に振った。
そんなやり取りをしり目にモフリンはさっさと荷物をまとめる。
うつむきがちの彼女の表情は前髪の影に隠れて見えない。
友人二人に向かって言った。
「じゃあモフリンは用事を思い出したからもう帰るよ。また学校でね」
「モフリンさん、でも………」
何か言おうとしたミナミを今度はアイカが止めた。
ミナミが自分の服の袖を握る彼女を見ると、アイカは口をへの字に引き結んで見上げてくる。
その目は「今はそっとしておいてやれ」と言っているようだった。
アイカはミナミを視線で制し、至極淡々とした調子でモフリンに告げる。
「ん。分かった。また明日学校で」
努めて平静を装い小さく手を振る友人に、モフリンも手を振り返し彼女はそのまま帰途についた。
廃工場を後にし、家路を歩く。
何か頭に靄がかかっているようで、何も考えられない。
ただ自動的に足が動いてモフリンを自宅に運んでいた。
10階建ての瀟洒なマンション。ここがモフリンの家だ。
エントランスに入り、インターフォンに部屋番号を入力して自宅を呼び出す。
母親が在宅していたようですぐに開けてくれた。
オートロックのガラス扉をくぐってそのまま奥に進みエレベーターに乗って上階の自宅に向かう。
自宅玄関にたどり着くとそこにもオートロック。
普段は気にもしないそれがなんだか今は無性に煩わしい。
屋内に入ると料理の匂いがした。
「あら? 早かったわね? 遅くなるって言ってなかった?」
キッチンでシチューの仕込みをしていた母に適当な返事をし、リビングのソファーに体を投げ出す。
なんとなくTVをつけてぼーっと眺めていると晩御飯時になったので、父母そして弟と一緒に、母が作ったクリームシチューを食べる。
食事の後風呂に入ると少し気分が落ち着いた気がした。
風呂から上がりパジャマを着ると、モフリンはいつものようにスマホを手に取った。
SOHのアプリを起動する。
「ねえナギ明日は………」
そこには誰も居なかった。
空っぽのホーム画面があるだけだった。
「う、あ………」
分かっていたことだった。
でも心のどこかで期待していたのだ。
家に帰ってもう一度SOHを起動すれば、彼がそこに居るのではないかと。
『お疲れさまでした、モフリン様』
そう言って微笑みかけてくれるのではないかと。
でもそこには誰も居ない。
いるはずがなかった。
「あ、ああ、あああああ………………!!」
彼はいなくなってしまったのだ。
ビーストに殺されて。
もう二度とは戻ってこないのだ。
「………ナギ。ごめん、ごめんねナギ………」
ぽろぽろと涙があふれてくる。
口をつくのは謝罪。そして、
「私が、私があの時ちゃんと止めていれば、無理にでも止めておけば、ナギは死なずに済んだのに………」
後悔。
「ごめんナギ。ナギ、ナギ、ごめんね」
そこが限界だった。
感情が堰を切って一気にあふれ出す。
「うあああああああーーーー!!!」
モフリンは泣き声を上げていた。
どうしてこんなに悲しいのか、涙が出るのか、ぐちゃぐちゃになった頭の片隅で考えても答えは出ない。
ただただ悲しくて胸が焼けるようだった。
彼女の泣き声は、驚いた両親が彼女の寝室に駆け込んできても止まることは無かった。




