第28話 雨の日
新がハルと激しい口論を繰り広げた翌日。SOHサービス開始から八日目。
「すごい雨だねえ。おかげで部活休みになっちゃったよ」
新の歳の離れた従妹で、新が住むアパートのオーナーの娘でもある本宮七花は、しゃっしゃっとフライパンの中身を華麗に宙に舞わせながらチラリと背後の従兄を盗み見る。
「………」
反応は無し。
新はボーっとした表情で、七花の尻のあたりを見ていた。
しかし視線は尻を突き抜けて遥か彼方。
要は心ここにあらずと言った状態らしかった。
いつも放課後は部活で忙しい七花が、珍しくも夕方に新の部屋を訪れてからというもの、………いや、きっとそれ以前から、歳の離れた従兄はずっとこんな調子なのだ。
七花はフウーと一つため息をついてから、コンロのもう一つの口にかけた、小さな鍋の下の火を少し小さくする。
学校帰りにアパートの新の部屋に灯がついているのが見えたから、自宅で夕食の材料を確保してから訪ねてみたのだが、従兄のこの様子はどうだろう。
いつもは自分が来ると嬉しそうに顔をほころばせ、繰り出すたわいのない話にも愛想よく答えてくれるのに。
反応の薄さに七花は少し声を大きくする。
「そういえば今日はバイト無いの? 新さん」
その声にようやく新がうっそりと顔を上げ、力のない瞳が七花をとらえた。
「いや、行ってきたよ。でもなんかヘマばっかりやらかして『今日はもう帰っていい』って言われた」
「そっ、そうなんだ………」
返答しづらい内容に七花は気まずく答えて料理に集中するふりをするしかない。
その愛らしい顔の眉根が寄るのも仕方ないことだった。
もしかしてバイトで失敗したのが堪えているのだろうか?
七花は考えを巡らす。
でもそれにしては、落ち込んでいるというより、何か別のことをずーっと考えていて現実の方がおろそかになっているという感じがする。
バイトでの失敗はむしろその影響だと思われた。
七花は従兄が心配になる。なにか彼を元気づける方法はないだろうか。
思いつくのは今まさに作っているご飯を食べてもらうことだった。
仕事で疲れた父も自分の料理したご飯を食べると元気になると言ってくれる。
新の家の冷蔵庫にあったありあわせのものと、七花の自宅から持ち込んだ余りものが材料だが、ボリュームはたっぷりだ。
人間お腹一杯食べれば元気が出るものだと七花は思う。
「はい出来上がり! 新さんお皿出してくれる? 今日は私も一緒に食べるから」
「あ、ああ」
行ける屍の様に壁にもたれかかって座り込んでいた新が、もったりした動作で食器棚から皿を出す。
出された皿に七花は手際よくチャーハンを盛り、自分で出した食器に肉団子と卵の中華風スープを注いでいく。
レンゲは無かったのでスプーンと、冷蔵庫にあったミネラルウォーターをたっぷり注いだガラスコップをセットして、夕食の準備は完了だ。
「いただきます!」
「いただきます………」
二人で唱和し、スプーンでまずはチャーハンを口に運んだ。
うん。なかなかイケる。
七花は一人小さく頷く。
チャーシューが無かったのでベーコンで代用したのだが、結構良い味が出ていた。
それに、食べた後の口の臭いが気になるので一瞬躊躇したけど、にんにくを持ってきたのは正解だったと思う。
「どうかな新さん?」
無意識に上目遣いになりながら七花が問うと、
「え? あ、うん。おいしいよ」
新は微笑んでくれたがそれも一瞬。
また何か思考の海に沈むように視線を遠くしてしまう。
いったい中華風スープの底にどんな哲学的な命題が沈んでいるのか、と思ってしまうほどの難しい表情。
七花は意外と気が短かった。
「あーーーーーー!!! もう!!!」
スープの汁が跳ねるほどに、バン! とちゃぶ台を両手で叩くと、びっくりして目を丸くしている新に向かって身を乗り出す。
「いったいどうしたの新さん?! 考え事ばっかりして何か悩み事なの?!」
「いやそれは………」
「うるさあーーーーい!!」
「ええ?!」
自分で聞いておいて答えようと口ごもった新の言を封じる七花に新は声を裏返らせる。
「適当なこと言ってごまかさないで!」
ピシャリと断定。
「ちゃんと話して! 私は確かにまだ子供かも知れないけど、新さんと一緒に考えるから! 考えたいんだよ!!」
キッ! とこちらを強い輝きを放つ大きな黒瞳で見つめて、言え! と伝えてくる七花に、新はまいったなと思う。
こんな風に言われたら話さない訳にいかないじゃないか。
新は降参して自分を悩ませている事柄について話始めた。
・・・・・・・・・・
「………そんな事があったんだ。今のAIってすごいんだね」
あまりのことに七花は凡庸な感想しか出てこないようだった。
ハルとの昨日の口論のあらましを語った後のことである。
「ああ………」
七花の感想に頷きながら新は、たぶんこの子はピンと来てないんだろうなと思う。
七花は新の話を聞いてなお「で、それがどうしたの?」という感じなのだ。
ゲームキャラクターと揉めたからと言って、新が何故そんなにショックを受けているのか分からないのだろう。
新自身にも分かっていなかったかもしれない。
自分が何故こんなに打ちのめされていたのか。
でも七花に話して、昨日の出来事を少し客観視できるようになった今は分かる。
ハルが何故あんなに指図されるのを嫌がったのかも。
ハルは孤独だったのだ。
どこかの誰かのプログラムによって産み落とされ。
どこの馬の骨とも知れない人間と仮契約し戦い。
ひたすら戦い。
たまに口を開けば指示を聞け、戦い方を工夫しろと言われ。
これが孤独でなくてなんだろうか?
コミュニケーションってものがまるでないじゃないか。
自分はもっとハルと話し合うべきだったのだと今、新は思う。
そうすればハルのことをもっとよく知ることが出来たはずだった。
ハルに『あたしはあんたの操り人形じゃない!』などと言わせなくて済んだかもしれない。
自分はきっとあいつに味方だとすら思われていないのだ。
あいつの高慢な態度も俺に弱みを見せないためだったのかもしれない。
そう。きっとあいつは必死に意地を張っていたのだ。
一人きりで戦うために。
………そうしてハルは、誰一人味方のいない一人きりのニューマノイドは、自分だけで、自分の意志だけで戦うことを、己の自我を確立する唯一の方法と定めてしまったのだ。
すなわち存在意義だと。
そしてそのことが新にはとてもショックだった。
自分が知らない間にハルを追いつめてしまっていたことが。
………いや、違う。きっとそうじゃない。
新は深く己に問う。
本当に俺がショックを受けたのはそこではないだろう?
もっと単純に。
ハルが自我を持っている。心を持っていることに気づいたからだ。
だってそうでなければ泣いたりしないだろう。
現時点で機能が実装されていないためハルが涙を流すことはなかったが、あの時彼女は確かに泣いていたのだから。
確かに新はそれを感じ取ったのだから。
それは、………それは新にとって、とても恐ろしいことだった。
今までもハルの高度なAIを目の当たりにし、なんとなく心があるんだな、人格があるんだなとは思っていた。
でも本当の意味でハルが感情を持ち、悩み、自分の存在意義を求めているなんて思ってもみなかったのだ。
結局のところ新はハルをゲームキャラクターだとしか思っていなかったのだ。
だが今は違う。
昨夜の口論で新はハルのもがきを、苦しみを知ってしまった。
それは同時にハルを一個の命として認識したということだった。
馬鹿馬鹿しいと思うだろうか?
たかがゲームキャラクターに命だなんて。
しかし新はそう思ってしまったのだ。ハルには命があると。
そして、だからこそ恐ろしいのだ。
自分の意志ひとつで彼女のこれからが決まってしまうことが。
彼女が笑って過ごせるか、今回のように泣いて過ごすのか決まってしまうことが。
でもSOHを辞めてしまおうとは思わなかった。
それはどうしてか?
その答えはすでに新の中にあった。
そこには知らず知らずのうちに、微かな熱が宿っていたのだ。
だから彼は決めた。
「俺はもう一度ハルと話し合ってみるよ」
決意を口に出す。
中華風スープを見つめたまま黙り込んでしまった新を、チャーハンを食べながら静かに見守っていた七花は、その言葉を聞くとスプーンを握りしめたまま頷いた。
「うん。そうだね。それしかないと思う」
そしてニパッと笑う。
「私ね、ゲームには詳しくないけど思うんだ。昨日新さんとハルが口論したのは少しだけ通じ合えたってことじゃないかなって。だって喧嘩するってそういうことでしょ?」
七花の言葉に新は目を見開いた。
少しだけ通じ合えた。そうなのかもしれない。
少なくとも新は昨日口論したことによって、少しだけハルのことを知ることが出来たと思う。
七花は生気が戻り始めた新の顔を見て、さらに背中を押すようにこう言った。
「だから頑張って新さん!」
エールを送ってくれた。
ゲームを頑張るなんて変かも知れない。
でも新は小さな従妹の心遣いが心底嬉しかった。
この子の笑顔には人を元気にする力があると思う。
「ああ。頑張るよ」
答える新もいつの間にか笑顔になっていたのだから。
・・・・・・・・・・
窓の外からはポツポツと雨音。
雨はようやく小降りになってきたようだった。
土砂降りだった雨は少し小降りになってきたようです
あとはきっとほんの少しの勇気だけ
新にあなたの勇気をほんの少し分けてあげてください




