自分の形
自分の事を全て知っている他人がいたとしたら、自分がどこにいるのか分からない。と、思っていました。自分を形作っているのは自分から見た自分と、他人から見た自分だからです。自分の事を全て知っている他人がいるということは、自分から見た自分を全て知られているということで、その人は当然、客観的に見た私の姿を知っているわけなので、そうなると自分が自分なのか、あるいは他人が自分なのか分からなくなってしまうと思ったのです。
でもよく考えたらちょっとおかしいですよね。だって、私は他人から見た自分を全て知っているのかって話になりますし。私は内面から自分の姿を見ているので、自分から見た自分を知っています。でもそれだけでは自分を形作ることが出来ません。他人から見た自分を知らなければ、いつまで経っても私は半分だけの私でしかありません。じゃあどうすれば他人から見た自分を知ることが出来るのか。答えは考えるまでもない。他人と関わることですね。他人と関わることで、その人に自分がどう見えているのか分かる。そして自分は自分のことをどう見ているのかも分かる。その二つがあって初めて自分という存在を固定することが出来る。よく考えてみると、座標を決めるときにも縦軸と横軸の二つを使いますよね。全く気がつきませんでした。ともあれ、ここでようやく私は、他人と関わることが大切な理由を理解することが出来たような気がします。
しかしここで新たな疑問が。では他人から見た自分が間違っていることはないのか。他人の自分に対するイメージが自分の思っている自分とかけ離れている場合、間違ったイメージで自分を形作ることになりはしないか。しかしまあ、そう思うこと自体が主観的というか、他人から見た自分の姿って自分自身は知らないわけなので、そもそも間違ってるのかどうか分からないはずなんです。だからこそ自分を形作るのに必要なわけですが。たぶん間違ってはいないんじゃないですかね。他人の抱くイメージといっても私からでた要素の一部を組み立てて作られたものなので、間違いではないと思います。もちろん、何よりも正確な、真の自分を探すやり方というか、生き方もありだと思いますよ。自分から見た自分の姿を突き詰めていって、内面により深く潜っていく。そういうのもいいと思います。ただその場合も、他人から見た自分という存在を知っているのと知らないのとでは大きく違いが出てくる気がします。より究極に近づけそうな。まあ根拠はありませんが。
さて、ようやく他人と関わることの重要性について理解したところで早速実践に移りたいのですが、やっぱりそう簡単にはいきません。他人と関わるのは怖いのです。私には私のイメージがあります。しかし他人のイメージを取り込むことで、今までとは全く違うものに変性してしまうかも知れない。たとえそれが正しかったとしても、変化は怖い。しかしこのままでは形を持たない私のまま、輪郭が溶けているような喪失感と隣り合わせで生きていかなければならない。そうなると今度は生きていかないという選択肢も生まれるし、あるいは内面を突き詰めることで無理矢理形を作ってしまうという方法もある。結局のところ、何も変わっていないような感じになってしまう。それでも、一つ理解した私は理解していなかった私とは違う。一歩、あるいは半歩でも前にいれば、見える景色は同じでも内容は全然違う。意味を理解すれば解き方が分かる。解き方が分かればあとは納得するだけだ。そこが一番難しいのだが、やりようはいくらでもある。私が私という存在をちゃんと認識できるように、出来たらまあ、いいかなぁー……といった感じである。