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あなたにspark joy  作者: 友崎沙咲
vol.3
5/8

気付くとき

****


株式会社デザインタフは、想像以上に立派な会社だった。

鋳造設備のある源川コーポレーションより部所数は少ないけれど、設計課の規模は比べ物にならないくらい大きかった。


設計課には他社からの出向者が私を含め5人いたけど、その他30人はデザインタフの正社員だった。

皆の前でグループリーダーの田辺さんに紹介された後、私は佐伯麻耶さんに呼ばれた。

私が受け持った仕事は、正社員である佐伯さんの補佐だ。

佐伯さんは私より二歳年上の27歳で、凄く華奢な美しい女性だった。


「出来るだけ早く仕事覚えてね。私に補佐なんて必要ないから、邪魔だし」


佐伯さんは私を横目でチラリと見て早口でこう言うと、CADの電源を入れた。


「……はい、佐伯さんの足手まといにならないように頑張ります」


少々怯みながらも私がこう言うと、佐伯さんは完全スルーで先を続けた。


「それから」

「はい」


パーテーションで区切られたデスクに手早く図面を広げながら、佐伯さんは少し低い声をだした。


「あなた源川コーポレーションから来たのよね。源川コーポレーションとうちのデザインタフは社長同士が親友なの知ってる?」

「はい、存じてます」


佐伯さんがなにを言いたいのかよくわからないけれど、私はパーテーションの入り口に突っ立ったまま佐伯さんの横顔を見つめた。


「あなた、聞いた話によると源川社長の婚約者と仲がいいんですってね」

「……」


なんと答えていいのかわからない私に、佐伯さんが冷たく言い放った。


「あなたがここに来た理由はたったそれだけ。イイ気にならないでよね」


身体の中で心臓だけがギュッと縮まる。

どうしてこんな事を言われているのかが、さっぱりわからない。

けど、一つだけ分かった。

どうやら私は佐伯さんにあまり好かれていないみたいだった。


*****


定時後。


「園田さん、今日は源川コーポレーションに戻る?戻るなら俺、秋彦と打ち合わせあるから送るけど」


設計課のオフィスに現れた篠宮さんが、入り口から私に声をかけた。

佐伯さんの指示で設計変更箇所にマーカーを入れていた私は取り敢えず返事をしてから、彼を振り返った。

その時、


「社長。園田さんには設変の図面指示を任せています。プリントアウトした正規図面をマーキングしてから届けてもらうので、まだしばらくかかります」


私が答えるよりも早く佐伯さんがこう言うと、何故か他の設計士がさりげなく彼女を見た。


「打ち合わせ段階ならそれでいいけどもうその過程は済んでるでしょ?図面が完成しているなら、メールに添付すればいいんじゃない?直接持っていかなくてもいいよ」


佐伯さんに向き直ってこう言った篠宮さんに、彼女は何故かムッとしながら言葉を返した。


「でも……」


みるみる佐伯さんの表情が険しくなり、それと同時にオフィスに不穏な空気が広がる。

皆が篠宮さんと佐伯さんを気にしている中、私は慌てて口を開いた。


「あの、篠宮さん。山崎製作所は私の家の最寄り駅付近ですし、チェックが終わり次第直接届けます」


私の言葉に篠宮さんが軽く頷いた。


「じゃあ、今日は直帰だね。分かりました」


篠宮さんがオフィスから出ていくと、皆が各々の作業に戻る。

その直後、ガタンという音を響かせて佐伯さんが席を立ち、まるで篠宮さんを追いかけるかのようにオフィスから飛び出した。


「やあねー、仕事とプライベートは分けてほしいわ。雰囲気悪くなるし」


私の後ろで中村さんがウンザリしたように呟いた。

……呟いてはいるけど、確実に私にフっているのは明白で。

振り向いたものの、何と言っていいか分からない。

すると中村さんが、私をチラリと見て肩をすくめた。


「社長と佐伯さんって、三ヶ月前まで付き合ってたのよね。……」

「そう……ですか」


ていうことは、私……もう少しで佐伯さんのクレンジングオイルを借りるところだったのか。その前に力尽きちゃったんだけど。

中村さんは更に続けた。


「佐伯さんってさ、あの佐伯グループの御令嬢なのよ。彼女のお兄さんは佐伯設計事務所のトップで、組織設計事務所の中でも一、二を争う事務所なのよね。なのに彼女、篠宮社長を好きになっちゃってさ、佐伯グループに入るのを拒否したみたい。こういっちゃなんだけど、デザインタフは独立系だし規模も佐伯グループに比べると小さいじゃない?佐伯さんのお兄さんにしたら気に入らないところもあったみたいで篠宮社長に圧力かけたらしいの。で、次第に二人の関係はギクシャクして……それにほら、佐伯さんて性格に難アリじゃない?」


声を潜めるわりには話したくて仕方なかったのか、中村さんはペラペラと喋り続けた。


「これはあくまで私の想像だけど、最初から篠宮社長は」


その時、中村さんの言葉を遮るかのように鋭い声が響いた。


「なに無駄話してるの?!先方が待ってるのよ?!」


帰ってきた佐伯さんが、オフィスのドアの前で私達を睨んだ。


「すみません!」

「まだ休憩時間だっつーの。……じゃあ園田さん、お疲れ。お先に失礼します」


少し屈んで私の耳に顔を近付けて中村さんはこう言うと、自分のデスクに戻り帰り支度を始めた。

その間に佐伯さんは早足で私に近付き、ファイルを乱暴に置いた。


「設変指示書の用紙。指示書は必ず詳しく書いて二部コピー。一部は保管して、一部は先方に渡すように」

「分かりました」

「それから」


佐伯さんが私を冷たく見下ろした。


「慶太とどうこうなろうとか、思わない事ね」


篠宮さんの元カノが佐伯さんだと知った時よりも、今言われた言葉の方が私をヒヤリとさせた。

何……?どうして佐伯さんはこんな事をいうのだろう。

硬直する私に佐伯さんが意地の悪い微笑みを見せた。


「慶太が好きだって顔に書いてある」



****


『慶太が好きだって顔に書いてある』

 

本当に書いてあるのだろうか。

いや、実際の話じゃなくて本当にそう見えるのだろうか。

それとも佐伯さんはまだ篠宮さんに未練があって、なにか勘違いをしているだけなんじゃないだろうか。


書類をコピーしながら考えてみたけれど、佐伯さんの私に対する態度は最初から冷たくて疑問ばかりが浮かぶ。

……ダメだ、分からない。

私は篠宮さんに対する感情の追求を諦めてデスクに戻ると、マーカーを取り出してコピーし終わった書類に視線を落とした。


****


残業を終えてデザインタフを出たところで携帯が鳴った。南ちゃんだ。

私は南ちゃんに、今日自分の身に振りかかった出来事を手短に話した。


『なんだそれ!感じ悪いブスだな!』

「いやいや南ちゃん、佐伯さんめちゃくちゃ美人だし」


勝手にブスと仮定して言い放つところが南ちゃんらしくて、私は思わず笑ってしまった。

定時で仕事を終えた南ちゃんは、デザインタフに出向した私を心配して飲みに誘ってくれたのだけど、あいにく私は残業だ。


『佐伯グループの御令嬢で美人?!その上性格まで良かったら私は神を呪うわ!』


吐き捨てるようにそう言った南ちゃんの口調で、彼女が電話の向こうで眉を寄せているのが分かる。


『でもまあ、佐伯さんがそう言ったのは、第六感じゃない?シックスセンスよ。あとは牽制だね』

「シックスセンスはまだしも、牽制とは……」


私が眉を寄せて嫌そうに言葉を返すと、南ちゃんがシラケた声で言った。


『鈍いアンタには理解できないかも知れないけど、何となく匂うんじゃない?ああ、この二人にはなにかあったな、もしくは、なんか起こりそうな予感がするな、みたいな感じで』


そう言われると返す答えが見つからなくて、私は黙りこんだ。


『誰かを好きになるとさ、その人を取り巻く全てのものに敏感になるんだよ。人にも物にもね。多分佐伯さんは、真優に篠宮さんをとられたくないんだと思う。ヤな女だとは思うけど、好きな人をとられたくないって気持ちは理解できるな』


それは、私も分かるけど……。

でも私は、その敵意にも似た感情をぶつけられるのは納得できなかった。


****


最寄り駅で降り、山崎製作所に辿り着いたところで事件は起きた。

門のすぐ脇にあるセキュリティールームのガードマンに用件を伝えた私は、ガードマンの思わぬ一言に凍りついたのだ。


「シリアルIDを入力願います」


差し出された電子パネルを見て息を飲む私。


「え?」

「わが社は、定時後の来客全ての方にシリアルIDを入力していただくシステムをとっておりますがご存じありませんか?」


たちまち、スーッと全身が冷たくなっていく。

出向者である私は、シリアルIDを知らないという旨を一体どう伝えればいいのか迷い、思わず絶句した。


「セキュリティー強化の為に、内部との取り継ぎはできかねます。シリアルIDをご入力されますと、ご希望の課につながるゲートを通過できますので」


……嘘でしょ、なにそれ……。でも、図面の納期は今日の午後八時までだ。時計を見るとあと10分しかなかった。


「申し訳ございません。私、シリアルIDの存在を存じ上げなくて……電話で確認いたします」


どうしよう。デザインタフの電話番号は登録済みだけど、設計課はもう全員帰ってるし、誰に聞けばいいか分からない。

焦りながらデザインタフに電話するも、山崎製作所の設計課のシリアルIDを、総務課が知るわけがなかった。


「申し訳ないけど、設計課が窓口となってる件はそちらしか分からないわ」


そ…そうだよね……でもどうしよう。

あと私が電話番号知っているのは篠宮さんしかいない。緊急事態だ、仕方がない。

意を決して篠宮さんの番号を出し通話ボタンを押すも、彼が電話に出ることはなかった。

ゴクリと生唾をのむ私にガードマンが、


「どうなさいますか?」

「えっと、あの……」


どうしたらいいかなんて、そんなの私も分かんない。

焦るばかりでなす術がなくて、私は図面ケースを握りしめて立ち尽くした。

その時、


「園田さん?」


すぐ隣に人の気配を感じた時には既に顔を覗き込まれていて、私は反射的に声の主を振り仰いだ。

……前田さんだった。

週末の気まずかった記憶が蘇ったけれど、今はそれどころではない。


「俺は三次元測定を頼まれてたんだ。園田さんはどうしたの?」


背の高い前田さんが、身を屈ませて私を見た。

彼の片手にはグラファイト専用のプラスチックケースが握られている。


「あの、私は設変の図面を持ってきたんですけど、シリアルIDを知らなくて」


一瞬、前田さんの表情が変わった。それからすぐに、


「助けてあげてもいいよ。設計課と、俺がいく製作課はシリアルID一緒だから」

「有り難うございます、前田さん!助かります!」


前田さんがぎこちなく笑った。


「ただし……このあと飲みに付き合ってくれたら」


ギクリとした。

だって先日と同じように、前田さんの眼が少し怖かったから。

でも……図面はどうしても納めたい。

私の脳裏に佐伯さんや篠宮さんの顔がよぎる。

デザインタフに出向した初日からミスなんて絶対に嫌だ。


これも仕事だと思えば……耐えられなくもない。

納期を守れない方が嫌だもの。

私は心の中で深呼吸をすると、ゆっくりと前田さんを見上げて微笑んだ。


「是非、一緒に中に入れてください」


前田さんが眉をあげて驚いたように私を見た。


「じゃあ……このあと……」

「はい!私でよければ飲みに付き合わせていただきます」


ニッコリと笑って前田さんを見つめると、彼はゴクリと喉を鳴らした後、小刻みに頷いた。


「う、うん、分かった。じゃあ、い、一緒に」


シリアルIDを押す前田さんの右手がわずかに震えていて、私は思わず眉を寄せた。

……こんな前田さんは見たこともない。

前田さんはといえばいつも、どこかぞんざいな眼差しで他人を見ていて、誰に何と言われても横柄で……。

こんな風に我を忘れるというか取り乱すというか、とにかく緊張している感じでいるなんて意外だった。


「オッケイです。ゲートを通過する前にこのカードをかざしてください」


ガードマンに手渡されたカードを前田さんが受け取り、私を振り返った。


「行こうか、園田さん」


平静を装ってるようだけれど、前田さんの瞳は忙しなく揺れている。

……もう、仕方がない。


「はい」


私は少し微笑んだあと、ガードマンに頭を下げて前田さんの後に続いた。



***



前田さんに連れてこられたのは賑やかな居酒屋だった。

店内の騒々しさに幾分か救われて、私は出されたおしぼりを手に、前田さんを見つめた。


「前田さん、今日は本当に助かりました。私、シリアルID教えてもらってなくて。存在すら知りませんでした」

「そうなんだ。山崎製作所はね、去年実験棟で盗撮騒ぎがあってからセキュリティーがめちゃくちゃ厳しくなったんだ。だから定時内だと許可証と共通カードがあれば問題ないんだけど、定時後はシリアルIDが必要になるんだよ」


「そうだったんだ……」

「そんな事よりさ、飲もうよ」


ちょうど運ばれてきた二つのジョッキを見て前田さんがこう言い、私は頷くとその一つを引き寄せた。


「じゃあ、飲みましょう」


まだ残業だと思え、私!だからまだ、ちゃんとニコニコと愛想よく。

……これを飲んで、少しだけ話したらすぐに帰ろう。

私はジョッキを眼の高さまで上げると、前田さんを見てニッコリと微笑んだ。


***


三十分後。


「あの、前田さん。私そろそろ帰ります」


さりげなく時計を見ながらビールを飲み終えると、私は頃合いを見計らって前田さんにこう切り出した。

案の定会話は弾まなかったし、そのせいなのか前田さんは飲みながら私をジロジロと見てばかりだった。

ちょうど会話も途切れたし、いいタイミングだと思った。

なのに、


「まだ飲みたいんだ、園田さんと。もっと飲みなよ。ちゃんと玄関先まで送るから」


呟くようにそう言った前田さんの眼が、充血していてギラギラしている。

やだ、なんか怖い。

……もう、これ以上は一緒にいない方がいい、絶対。

バッグの中の財布を探しながら私は、出来るだけ自然な笑みを作った。


「前田さん、眼が赤いですよ?お疲れなんじゃないですか?私は一人で帰れますから、前田さんも帰って休んでください」


そう言いながら席から立ち上がって前田さんを見ると、私はペコリと頭を下げた。


「待ってよ、園田さん!」


ジョッキを慌てて置いた前田さんが、ガタンと椅子を鳴らした。

その素早さにビクッとしたのは私だけで、騒がしい店の中でその音はさして大きくもなく、誰もこちらを見なかった。


前田さんはそのまま立ち上がると、私を見下ろした。

その瞳が苛立ちに光り、彼はムッとしたまま私を見据えている。

ヤバイ、怖い。


私は敢えて、それに気付かぬフリをした。

その時、バッグの中で小さな緑色のランプが点滅したのが見えて、私は夢中でスマホを引き寄せた。

……そういえばシリアルIDの件で……。


画面をタップすると、着信を知らせる表示が浮かび上がる。

篠宮さんだった。帰るチャンスに思えた。


「前田さん、じゃあ私失礼します。電話をかけないと」


素早くビール代をテーブルに置き、スマホを耳に当てながら店の通路を歩いていると、すぐに篠宮さんが出た。


『真優ちゃん』

「篠宮さん……」


声を聞いたとたん、全身から力が抜けそうになる。

篠宮さんの声が、耳に心地よい。

ううん、耳にだけじゃない。身体中が温かくなっていく感覚に、私は思わず両目を閉じた。


「篠宮さん……」


何を喋ればいいんだっけ。言葉が出てこない。

そんな私を何となく察してくれたのか、篠宮さんがはっきりとした声を出した。


『迎えにいくよ。真優ちゃん、いまどこ?』

「え、あの山崎製作所の近くの居酒屋に前田さんと……シリアルIDが判らなくて助けてもらったので、それで。でも、でも私、」

『そこって、山崎製作所の東側のコンビニの横?』

「え?……はい」

『五分で迎えにいくから、隣のコンビニ入ってて』


信じられない。でも……嬉しい。


「……はい」

『じゃあね』


スマホを持つ手に汗が滲んでいる。

早く、早く前田さんから離れたい。早く……篠宮さんの顔が見たい。

私は幅の狭い階段を駆け上がりながら、とにかく地上を目指した。


その時、


「あの男と会うの」

「きゃあっ!」


声と共に突然後ろから左腕を掴まれて、私は階段から引きずり下ろされた。

一瞬見えた壁のライトが眼に飛び込み、その強烈な明るさのせいで次は目の前がやけに暗く感じた。


店のドアが閉まっているらしく店内の音楽が遠い。

それが私の焦りを煽る。

アッと思った時には既に遅く、前田さんの大きな身体が私を包み込んでいた。


「アイツと会うの?答えてよ」

「や、やめて」


前田さんの顔が私の顔に近付く。


「俺、見たんだよ。アイツと……キスしてたよね?」


心臓を掴み上げられたような感覚と、前田さんのどこか虚ろな瞳。

私は必死で口を開いた。


「やめてください!」

「あいつならいいの?俺ともしてよ、キス。ずっと好きだったのに」


狭い階段で抱きすくめられて、前田さんの腕からまるで抜け出せない。

嫌だ、怖い……怖い!!


「大体さ、真優は誰にでもニコニコしすぎなんだよ」


真優。

前田さんとは、そんな風に下の名前で呼ばれるような仲じゃない。

前田さんは続けた。


「誰にでも愛想よくしてるけどさ、そんなに男にチヤホヤされたいの?見てて凄くイライラするんだけど」

「やめて!離して!」

「もう、我慢できない」


私の頬を片手で掴むと、前田さんは力任せにそれを自分の方に向けた。

指が頬に食い込み、激痛が走る。


「俺のものになってよ」

「い、いやあっ!!」


酒臭い息と、唇に広がる前田さんの感覚。

キス、された。

キスされた!!


「あー、腹へったあ!」

「アイツらもう着いてるかな」


その時突然頭上から声がして、前田さんが私を離した。無我夢中だった。

狭い階段はすれ違えないため、来たばかりの客が頭上で私を待っている。

泣き顔を見られるとか、そんなのはもうどうでもよかった。

一気に階段を駆け上がって来客の脇を抜けると、私は涙を拭って歩道へと飛び出した。


キスされた、前田さんに。

嫌だ、嫌だ!!

前田さんの異様な眼差しと唇の感覚が気持ち悪くてたまらない。

そうだ……拭かないと。唇、拭かなきゃ!!


コンビニの手前で立ち止まると、私はバッグの中の除菌シートを探した。

信じられないくらい手が震えていて、そのせいなのか見つからない。

早く、早く拭きたい。

心臓が激しく脈打ち、身体が冷えていく感覚が全然治らない。


「逃げるなよ。俺に恥をかかせるな」

「っ……!!」


グイッと肩を掴まれて、ビクンと身体が跳ねた。

背後からぐぐもった前田さんの声がして、私は恐怖のあまり硬直した。

……逃げなきゃ。


その瞬間、ガクンと足首が内側に曲がり、私は地面に落ちるように両手と膝をついた。

誰か……助けて。助けて。

怖くて身体が震えて、もう声がでない。


「真優ちゃん!」


反射的に前を見ると、数メートル先に篠宮さんが見えた。


「篠宮……さん」

「真優ちゃん!」


駆け寄ってきた篠宮さんが、床に膝をついて私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か?」


大丈夫じゃない。怖い。


「ううっ……」


我慢できずに泣き声を上げた私を見て、篠宮さんの瞳が鋭く私の後方を見た。


「今、逃げていったアイツ……先週末、真優ちゃんの腕を掴んでた奴だよね?」

「……」


黙って頷くのが精一杯の私を、篠宮さんが優しく腕に囲った。


「よしよし。もう大丈夫。立てる?」

「……はい……」


何とか涙をこらえてそう返事をすると、私は篠宮さんに腕を引かれてゆっくりと立ち上がった。


「近くのパーキングに車停めてるんだ。送るからおいで」

「……すみません……」


一歩踏み出そうとして足首に激痛が走った。

そんな私を見て、篠宮さんが足を止める。


「足、痛い?」

「……ゆっくりなら歩けます」

「いいよ、無理しないで。俺に掴まって」


篠宮さんが、フワリと笑った。それから私をゆっくりと抱き上げる。

ああ、と思った。

当たり前だけど、前田さんとは全然違う。

密接した篠宮さんの身体が温かくて心地よい。


前田さんのような、恐怖からくる心拍の上昇じゃなくて、安心でそれでいて踊るように胸の中で何かが弾ける。 

甘くて切なくて、嬉しくて。

これは……好きって気持ちだ。私、篠宮さんが好きだ。


いくら鈍感な私でもこの気持ちが何か、はっきりと分かった。

私、篠宮さんを好きなんだ。

なのに、前田さんにキスなんかされて……!


嫌だ、凄く嫌だ!

篠宮さんの車の中で、ようやくバッグの中の除菌シートを探し当てることが出来た。

取り出して、唇を何度も何度もゴシゴシと拭く。

拭いていると、あの時迫ってきた前田さんの顔が思い出されて涙が溢れる。


前田さんを責める気持ちと同じくらい、自分にも腹が立つ。

どうして私、二人きりで飲みになんかいっちゃったんだろう。

どうしてもっと警戒しなかったんだろう。

もうどうしようもないのに、悔やまれてならなかった。


「部屋まで送るよ」

「すみません……」


痛みは大分落ち着いてきた。

篠宮さんは私の足首を気遣いながら、遅い歩調に黙って合わせてくれた。

エレベーターを降り、部屋の前まで来た時、篠宮さんが私を見つめた。


「湿布ある?」

「ないです……」

「貼って寝た方がいい。俺、買ってくるからシャワー浴びて着替えておいて」

「でも、そんなのご迷惑じゃ」

「迷惑じゃないから。ここで俺が帰ると真優ちゃんは手当てとかしそうじゃないし」


悪戯っぽく笑った篠宮さんを見て、キュ、と胸が鳴った。

これは篠宮さんの優しさなのだ。

湿布なら途中で買えたのに、足の痛みだけじゃなく様子のおかしい私を気遣って、真っ先に家に送ってくれたのだ。

私に、待ち時間を作らせないように。

胸が熱い。好きという気持ちが、胸だけじゃなく全身に溢れる。


「じゃあ、後で」

「……はい」


熱いシャワーを思いきり浴びた。

メイクも落とし、唇が磨り減るくらい擦って洗った。

前田さんの顔が脳裏に焼き付いて忘れられない。

私はシャワーを浴びながら、声をあげて泣いた。


****


「はい。これでよし」

「ありがとうございます……」


恐ろしくテンションの低い私を、篠宮さんは黙って見つめた。


「もう少しいようか?それとも、ゆっくり休む?」


……帰ってほしくない。傍にいてほしい。でもそんな事言えない。言えるわけがない。


「大丈夫です。お世話かけてすみません」


ポツンと呟くようにそう言うと、篠宮さんは唇を引き結んだ。


「……」

「……」


その時、私達の沈黙を終わらせるかのようにインターホンが鳴った。

パネルを見ると高広が写っていて、私はチラリと篠宮さんを見た。

……高広とヨリを戻したと思われているんじゃないだろうか。

……誤解されたくないという思いが湧き上がり、胸が苦しくなる。

篠宮さんはパネルを見た後、私を見つめた。


「高広が来たなら……安心だね。俺はもう帰るよ」

「……」


二度目のインターホンが鳴った。


「……真優?」

「うん、ちょっと待って、今開ける」


開けた玄関ドアから入る新しい空気。

私と篠宮さんを見て息を飲む高広の瞳。


「ちょっとトラブルが起きたんだ。……高広。あとは任せたから」

「……分かった」


篠宮さんは高広にこう言うと、私にじゃあ、と手を上げてドアの外に消えた。


「上がっていい?」


……嫌だった。

篠宮さんに誤解されたかも知れないのに、高広と二人でいたくなかった。


「ごめん。今日ね、最悪な目に遭って足を怪我しちゃったの。近くに篠宮さんがいて送ってもらったんだけど、もうヘトヘトで。悪いけど今日は無理」


高広を見上げて私がそう言うと、彼はジッと私を見下ろした。


「……ごめん、高広」

「……分かった。これ出張の土産。じゃあな」


手渡された袋を受け取り、私が頷いて高広を見ると、彼は少しだけ笑った。


「どうせだから、ケーニィ追いかけて飲みにでも行くわ」

「ん」


私は手を振って踵を返した高広の背中を見つめると小さく息をついた。

高広を見ているのに、私の胸は篠宮さんでいっぱいだった。


****


翌日。

私はいつもよりひとつ早い電車に乗ると、デザインタフに出社した。


「おはようございます」


設計課には既に課長がいて、頭を下げた私にニコニコと笑った。


「早いね、園田さん」

「課長こそお早いですね。今コーヒー淹れますね」

「ありがとう」


デスクにバッグを置き、設計課の中にあるブレイクルームに一歩足を踏み入れると、私はコーヒーメーカーの脇の棚に手を伸ばした。


その時、


「ちゃんと図面は渡したの?」


急に声がして振り向くと、入り口のドアに寄りかかって腕を組んでいる佐伯さんの姿が眼に飛び込んできた。


「おはようございます。図、」


言いかけた私の声を遮って、佐伯さんは私の前で歩を進めると威圧的な眼差しを更に強めた。


「納期はね、絶対厳守なのよ。一分でも遅れるのは許されないわ」


その言葉に、私は反射的に両目を細めた。

たちまちひとつの疑念が胸に生まれ、それが身体中を駆け巡る。

あたかも私が図面を渡し損ねたと言わんばかりの口調。

クッと顎を上げ、ぞんざいな瞬きを宿したその顔。


……もしかして……佐伯さんはわざと私にシリアルIDを教えなかったんじゃないだろうか。

出向の初日に、私がミスをするように。だとしたら……。

私は佐伯さんに微笑みながら頷いた。


「図面は無事、納期内にお渡しできました。設計変更担当の竹中さんに直接確認してもらいましたので安心してください」

「っ……」


佐伯さんが息を飲むのが分かった。

彼女のその態度に、胸がグッと重くなる。

自分に向けられた悪意を感じて、身体が締め付けられたように苦しく痛い。

言い終えた私を見つめて小さく口を開けていた佐伯さんが、グッと眉を寄せた。


「慶太に聞いたの?!シリアルIDがないと、山崎製作所には入れないわよね?!やっぱりあなたと慶太は」

「佐伯さん」


我慢できなかった。



『やあねー、仕事とプライベートは分けてほしいわ。雰囲気悪くなるし』



昨日の中村さんの言葉が胸に蘇る。

この先、デザインタフの設計課にいる限り、佐伯さんのこの悪意が私に襲いかかってくるのかと思うとたまらなかった。

例えば私が仕事上でミスばかり連発し、佐伯さんに迷惑をかけ続けたなら彼女の私に対する風当たりが強くなっても仕方ないと思う。


でも、仕事なんか関係ないところ……篠宮さんに対する私的な感情の捌け口にされて、この先もずっと嫌がらせを受けるなんて我慢ならない。

私は、至近距離からこちらを睨み付ける佐伯さんに続けた。


「わざと私にシリアルIDを教えてくれなかったんですか?」


佐伯さんが大きくため息をついて天井を仰いだ。


「なに、変な言いがかりはよしてよ」


そこまで言った後、再び佐伯さんは私を見下ろしてニヤリと笑った。

それから小さな声で呟くように続ける。


「……仮の話だとして……だったら、なに?」


その瞳が、IDをわざと教えなかったと語っていた。

嘲笑うかのようなその眼差し。許せない。

シリアルIDを教えてくれていたら、前田さんにあんな事をされないですんだのに。


悔しくて全身が震えそうになった。感情に任せて怒鳴り付けてやりたい。

でもそんなのダメだ、分かってる。

私は両目を閉じて深呼吸をしたあと、佐伯さんを見つめた。


「シリアルIDの件はもうすんだことです。でも」

「……でもなによ?ろくに仕事も覚えてないうちから私に楯突く気?まったく源川コーポレーションって、とんでもない社員教育してるのね」


私が言い返してくると察知した佐伯さんが苛立ちを含んだ口調で言葉を返してきた。

もう、黙ってはいられなかった。


私だけじゃなく、源川コーポレーションまでバカにするなんて、我慢できない。

私はまっすぐに佐伯さんを見つめて口を開いた。


「……私は……源川コーポレーションで何より大切なことを学ばせていただきました」

「なによ。聞いてあげるわよ」


カラカラになって痛い喉を必死に押し開いて私は続けた。


「『自分以外はすべてお客様だと思え』と学びました。つまり、社内の仕事仲間であってもお客だと思い、誠心誠意をもって対せよという事です。じゃないと良いものなんて作れない。大切なバトンを繋ぐように仕事を繋がなきゃ、本当に良いものを世に送り出すことなんて出来ません。私を嫌いかもしれませんが、今後は仕事に私情をはさまないでください。篠宮さんと私は無関係です」


みるみる佐伯さんの顔が上気し、屈辱に歪んだ。

ああ言っちゃった!ぶたれるかも……。

その時、私達の間に割って入るかのように低くて落ち着いた声が耳に届いた。


「佐伯さん」

「……慶、太……」


いつの間にかブレイクルームの入り口に、篠宮さんが立っていた。

その彼の声と姿にビクッとしたのは、佐伯さんだけじゃなかった。


……聞かれて……しまった。

心臓が一枚の画になり、グシャリと丸められたような絶望感。

もうそれが皺ひとつ無かった元の紙には戻せないという無念さに支配される。



『私と篠宮さんは無関係です』



さっきの言葉と、昨夜突然来た高広。

誤解という名の距離の広がりに拍車がかかる。

硬直する私達の前で篠宮さんは続けた。


「佐伯さん、ここは職場です。業務に差し障りの出る言動は控えてください」

「……!」


佐伯さんが俯いたまま出ていき、あとには篠宮さんと私だけが残った。

そんな私に篠宮さんが口を開いた。


「足の具合はどう?腫れてない?」


涼しげな眼差しに、胸が軋む。


「……はい……」

「……そう。よかった。それから昨日の事だけど、秋彦に話しておいたから」


その途端前田さんのキスが蘇り、思わず私は唇に手をやった。

そんな私を篠宮さんが黙って見つめる。

……もしかして……今ので気付かれたかもしれない。前田さんとキスしたって。嫌だ、あれは望んでじゃない、違う。


私はそんな自分を見られたくなくて篠宮さんに背を向けると、課長のコーヒーを淹れ始めた。


「……お気遣いありがとうございます」

「それから……ごめん」


トクン、と鼓動が跳ねた。

どうしたらいいか分からず、振り向けなかった。

コーヒーを持つ手が無意識に止まる。

やはり前田さんとキスしたのを篠宮さんは気付いていたのだ。

その上で謝るというのはつまり……。


「俺も最低だ。傷付けてごめん」


私は、篠宮さんと初めて会ったあの夜を思い出していた。

パステルカラーの噴水、濡れた身体、それから篠宮さんとのキス。

痺れるような感覚が身体の中に生まれて、それが指先まで届き弾ける。


キスを謝られて苦しくて、胸がキュッと軋んだ。

謝ってほしくなかった。

だって篠宮さんとのキスを、なかった事にしたくないから。

ダメだ、泣くな。ここは仕事場だ。

私は力を振りしぼると、篠宮さんを振り返った。


「……大丈夫です」


私は篠宮さんに頭を下げると、課長のデスクへと急いだ。


****


帰り支度を始めていたとき、妹尾さんが電話をくれた。

心配そうな声が耳に流れ、私は頷きながら返事をし、足の具合を伝えた。

妹尾さん曰く、前田さんは朝イチで社長から厳重注意を受け、彼は今後一切私に近づかないと約束したそうだ。


……前田さんがその約束を守るかどうか分からないけれど、社長の耳に入ったことで少しは安心出来る。

つくづく、あの時篠宮さんが来てくれて良かったと思った。

私は妹尾さんにお礼を言って電話を切ると、皆に挨拶をしてから設計課を出た。


****


自宅へつくと真っ先にシャワーを浴び、私はリビングのソファへと倒れ込んだ。

突っ伏して眼を閉じても、私を睨み付けた佐伯さんの顔が浮かぶ。

それから彼女に言った自分の言葉を思い出して、私は無意識に眉を寄せた。


『今後は仕事に私情をはさまないでください。篠宮さんと私は無関係です』


……確かに無関係だけれど……私は恋に落ちてしまった。

プライベートを持ち込まず業務に向き合えばいい話だけれど、単純には気持ちを片付けられない。

それは多分、佐伯さんの勘が当たっていたからだ。



『慶太が好きだって顔に書いてある』



佐伯さんの言葉通りだという事実が、私の心を乱して居心地が悪い。

……明日も佐伯さんと顔を合わせなければならないという事実が私の胸に重くのし掛かり憂鬱だ。

私は暫く動く気になれず、そのままの状態で眠りに落ちていった。



****


数日後。

あのブレイクルームの一件以来、佐伯さんは私を目の敵にする事はなかった。

それどころか必要最低限の会話しか交わさず、彼女は私と眼を合わそうともしなかった。


「この加工図、すぐに源川コーポレーションの製作課にメールしてもらえる?担当者は金田さん。電話もお願い」

「分かりました」


私はスマホを取り出すと、現場の金田さんに電話をかけた。


『はい。真優ちゃん?』

「金田さん、お久しぶりです。デザインタフで作成した加工図面送ります。オフィスに行ってプリントアウトしてもらってください。機種名大丈夫ですか?」


『あー、昼イチから取りかかる予定のヤツね。機種名は、メモしてるから大丈夫だよ。一時には段取り始められるとおもうんだけど、ちょっと今鋳造でトラブル発生してさあ、工程組み直しなんだ。で、現場全体が超忙しくって』


「鋳造でなにかあったんですか?」

「上山のミスで、溶接した金型が割れちゃったんだ」


上山さん?あの上山さんがミス?信じられなかった。

私は、石井くんの件で上山さんに怒鳴られたのを思い出しながら金田さんの話に耳を傾けた。

あの、仕事に対して怖いくらい厳しい上山さんが……。


「なんでも、溶接したての金型を現場の外に放り出して帰ったみたい。冷え込んだ上に夜中から雨が降りだしてさ」


……確か今朝はこの季節らしからぬ、真冬並みの冷え込みだったって、朝のニュースで……。

溶接の規模にもよるけど、寒空の中に溶接したばかりの金型を放置していたら急激な温度変化に耐えられず、割れる可能性はおおいにあり得ることだ。 


「上山さんが、ミスなんて……なにかあったんですか?」


私がこう言うと、金田さんは沈黙の後、こう言った。


『上山さ、年の離れた弟がいるんだ。その弟がバイク事故起こして意識不明になっちゃってさ。アイツ慌てて病院に駆けつけたんだ。で、任されてたイレコをそのままにして……』

「このまま待ってください。考えます」

『え?真優ちゃん?』


考えろ、考えろ、私。

取り引き先はK鋼材株式会社だ。

営業部長の石川さんに頼めば、かなり無理な工程だけど、切り出しから焼き入れまでを三日でやってもらえるはず。


「金田さん、私に考えがあります。今からK鋼材株式会社の石川さんに電話しますから、割れたイレコと同じサイズの物を差し替えてつかってください。製作課には後で混乱しないよう、差し替えの事実をしっかり伝えてくださいね。それからすぐに放電加工をして、翌朝にはK鋼材株式会社に届けて。すぐに焼き入れをすませてもらいます」


私が早口でそう言うと、金田さんは驚いて言葉を返した。


『だけど真優ちゃん、そんなのK鋼材がやってくれる?!』

「やってもらいます。絶対に。金田さん、後でもう一度連絡しますから放電加工機を確保しておいてください」

『わ、わかった!あのプログラムはまだ消去してないから、すぐ段取り出来るよ』


あの上山さんの事だ。自分のミスを誰よりも強く責めている事だろう。


「じゃあ、私は今から石川さんに連絡とります」


私は電話を切ると、呆気に取られている佐伯さんに言った。


「すみません、佐伯さん。源川コーポレーションの仲間が困っているので一本電話をさせてください!」


私はそう言って佐伯さんに頭を下げると設計課のオフィスを飛び出した。


*****


定時後。

私はそのままK鋼材へと向かった。

ひとこと、石川さんにお礼を言おうと思って。

K鋼材は本社を関西に構えている老舗だけど、都内に営業所が三ヶ所ある。

そのひとつである営業所に石川さんが立ち寄るというので少し時間をつくってもらったのだ。


「石川部長!」

「やあ、園田さん!」


石川さんは若くして営業部長となられた方で、私が入社した時からの付き合いだ。


「石川部長、この度は無理を聞いてくださってありがとうございました」


入り口の前で深々と頭を下げる私に、石川さんが柔らかく笑った。


「園田さん。僕はね、君の頼みなら出来る限りそれに答えるよ。今都内に営業所があるのは、君のお陰だから」


私はもう一度、彼に頭を下げた。


「あの時のことを持ち出すつもりじゃなかったんですけど……結果的にお気を遣わせてしまって、申し訳ございません」

「いやいや、僕はあの日の事を一日も忘れたことはないんだよ。源川コーポレーションとの取り引きを切られそうになったところを助けてもらったんだから。だから、これしきの事やらせてもらわないと、こちらの方こそ恩知らずになってしまうよ」


私はブンブンと頭を振った。


「私、御社の技術の高さや弊社に対する細やかなお気遣いが好きなんです。いくら他の会社が近くても、御社とずっとお取り引きをさせていただきたかっただけです。多分……設計課も保全課も同じ気持ちだと思います」


そう言った私を、石川さんが眩しそうに見つめた。


「君は……いや 」

「なんですか?気になるじゃないですか」


私が少し眉をあげると、石川さんが柔らかい眼差しをこちらに向けた。


「源川コーポレーションは、良い人材を得たなと思って。羨ましいよ」


ありがたいお言葉だと思った。


「ありがとうございます!」


私は、金型に関する材料手配を任されていた当時を懐かしく思いながら笑った。

良かった。本当に良かった。久々に清々しく、嬉しかった。


****


週末の定時後、私は久々に源川コーポレーションへと立ち寄った。

南ちゃんと飲みに行く約束で。


「真優ちゃん!」


顔馴染みのガードマンに手をあげ、総務課の建物に入ろうとした私に、誰かが声をかけた。金田さんだった。


「真優ちゃん、この間はありがとう!れいの機種、今トライやってるんだ。これから測定に回してオッケイなら明日から量産に入れるよ」

「良かったです。安心しました」


私が笑顔でこう言うと、金田さんは白い歯を見せて笑った。


「石川営業部長に会いにいったんでしょ?」

「はい。飛び入りでしかも最速でお願いしたので、やっぱり直にお会いしてご挨拶した方がいいと思って。快く引く受けてくださって助かりましたね!」


私がそう言うと、金田さんが少し困ったように頭を掻いた。


「実はさ、真優ちゃん、この件に関わったことを上山さんに内緒にしてって言ってたじゃん?でも……製造部の安川部長があまりにも対応が素早いから不思議に思ったらしくて、製作課と保全課の課長に事情を聴いて、真優ちゃんがK鋼材の石川さんに掛け合ったのを知られちゃったんだよね」


私は息を飲んだけど、その先を聞いてさらに硬直した。


「しかも、上山さんだけじゃなくて、安川部長が会議中にこの話をしたものだから、社長の耳にも入っちゃって」


えー……。


「あの、上山さんは……大丈夫ですか?安川部長、怖いから……」


……まあ、上山さんも怖いけれども。

立場的には上山さんよりも部長のが上なわけで……。

それに上山さんは私をよく思っていないから、私が石川さんに掛け合ったなんて知ってしまったら嫌な気分になったんじゃないだろうか。

そう考えるといたたまれなくなって、私は金田さんに焦って言った。


「あの、私が首を突っ込んだために上山さんを嫌な気分にしちゃってたら申し訳ないので、金田さん、これは偶然の賜だと上山さんに……」

「偶然の賜じゃねえし、嫌な気分になんてなってねえし」

「きゃあっ!」

「わっ!」


突然背後からぶっきらぼうな低い声が耳に飛び込んできて、並んで話をしていた私と金田さんは飛び上がらんばかりに驚いた。


「う、上山さん!」

「びっくりしたぁ!」


私と金田さんは一瞬顔を見合わせたあと、ホッと大きく息をついた。


「じゃあ、俺、行くわ。またね真優ちゃん」


手を上げて現場に走って帰っていく金田さんの背中を見送った後、私は上山さんを見上げた。


「あの……弟さんはその後いかがですか?意識は取り戻したって伺ったんですけど……」


私が南ちゃんのラインを思い出しながらこう切り出すと、上山さんは私を見下ろして小さく頷いた。


「ああ……。運び込まれた次の日に。メットのお陰で頭は無事だったんだけど、全身の骨折と打撲で当分入院だけど。医者ももう命に別状はないって」

「良かったですね!」


私がホッとしながらそう言うと上山さんは少し眉を寄せて眼を伏せた。


「……悪かったな色々。お前を知りもしないのにヒドイ事言ったりして。あの後、石井にちゃんと聞いたよ。お前は悪くないのに、頭から決めつけて怒鳴り散らした俺に弁解もしないで……色々、考えたんだろ?この先、この会社でやっていく俺たちの関係とか考えて……それに、今回の事も」


私は慌てて首を振った。


「私は……自分に出来そうな事をやってみただけだし、上山さんや石井くんの働きに比べたら全然、」


私の言葉が終わらないうちに、今度は上山さんが首を振った。


「いや、園田。俺、女だからって差別してたんだ。悪かったよ」


上山さんは、恥ずかしそうに少し笑った。


「見て見ぬふりだって出来たのに、お前は俺を助けてくれた。ほんとに、ありがとう」


上山さんが、私に……。

私はペコリと頭を下げた上山さんに慌てて言葉を返した。


「上山さん、私、やっと今デザインタフで設計課に配属されたんです。これから先、製造部には今まで以上にお世話になるかもしれませんし、ミスしちゃうかもしれませんけど精一杯頑張ります。どうぞよろしくお願いします」


ガバッと頭を下げた私に上山さんが笑った。


「お前の名前が書いてある図面、楽しみに待ってるよ」


ヤバイ、泣きそうだ。


「はい!」

「真優ー、お待たせー!」


総務課の入っている建物から南ちゃんが飛び出してきたのを見て、クスッと笑った。


「ちなみに、アイツ、怖いよな」

「え?南ちゃんがですか?」

「俺、帰るわ。じゃあな」


上山さんが、南ちゃんを見て身を翻した。

その顔が何とも愉快そうだったから、私は安心して微笑んだ。


「行こう、南ちゃん」

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