日常と揺れる心
***
週明け。
「フフフフフ!真優にしては想像以上の面白さだわ!どストライクのイケメンを噴水に突き落とし、再会を果たした途端に水浴びしたせいで二人仲良く発熱し、やむなく泊まった彼のベッドで抱き合って眠った翌日に元カレと遭遇!しかもその元カレが、今彼にしたい男のイトコときたもんだ!!」
「こらーっ!ちょっと違う!まず水浴びじゃない!しかも私は別に篠宮さんを今彼にしたいわけじゃないし!」
さっさと牛丼を完食した南ちゃんが、私をシゲシゲと見つめてニターっと笑った。
「ねえ、高広君って確か、イケメンだったよね!?一度会ったことあるよね、私」
「……まあ」
確かに高広はイケメンだと思う。
あの頃は週三でジムに通ってて体型にも気を使ってたし。
「ねえ、なんで別れたんだっけ?!そんなに落ち込んでなかったよね?」
南ちゃんはこれ以上ないというくらい、私の恋愛話に興味津々だ。
……南ちゃんだけならまだしも、カウンター席しか空いてなかった為に、隣のおじさんまで私の話に釘付けという事実。
「もう、南ちゃんたら!出るよ」
カウンター席から立ち上がりながら私がそう言うと、南ちゃんは慌ててお茶を一口飲んで頷いた。
「会社帰りながら聞くわ」
「聞くんかい!」
……確かに高広と別れた時、私はそう落ち込まなかった。
高広はイケメンで明るくて人気者だし、商社勤めでいつも多忙だったから、あまり会えなかった。
……だから結局、ああ私には手の届かない人だったんだなって感じで……自然消滅の事実もすぐ納得出来たというか……。
「なんかね……多分、その当時の私は高広に凄く遠慮してたんだと思うんだ。だから本心も隠してたし、高広の事もよく分かってなかったんだと思うんだ」
南ちゃんがそう言った私に、
「じゃあ、今は?今なら……どう?」
「それがさ」
私は篠宮さんの家での高広を思い返しながら南ちゃんに言った。
「なんか、久々に会ったのに常に会ってる友達並みに普通に会話が出来たの。多分、高広に対する恋愛感情がなくなってるからだと思うけど。しかも、ダッボダボの服にはげ落ちた化粧でしょ?それで完全に開き直ったというか」
南ちゃんは歩きながらウンウンと頷いた。
「そっかー、そーゆーもんかー」
「……うん」
暫く無言で歩いた私達は、開け放たれた会社の門を通過し、総務課の前で足を止めた。
「仕事しますか!」
「ですね!」
「じゃあね」
「うん」
さあ、仕事仕事。
私は深呼吸すると、生産技術課を目指して歩き出した。
***
今日は締日だ。
昼からは、忙しくて先送りしてしまっていた膨大な伝票をパソコンに入力しなければならない。
いつも三課の伝票を妹尾さんと半分にして入力するのだけど、今日妹尾さんは朝からひたすら会議の資料を作っている。
「頼んだわよ、入力の女王!」
「かしこまりました。その代わりエクセルの女王様、資料作成はお任せします!」
私と妹尾さんは、互いに敬礼するとそれぞれの課へと向かった。
伝票入力は、私の方が早い。
でも資料作成は、エクセルを意のままに操る妹尾さんが断然早くて尚且つセンスが良いのだ。
別に用事がある訳じゃないけど、今日は早く帰りたい。
伝票入力はシークレットナンバーを与えられた限られた社員しか入力できない決まりだ。
入力は締日の定時迄に完了しないと翌月に繰り越されてしまう。
さあ、頑張らなきゃ!
私は自分の中で気合いをいれると、パソコンのマウスへと手を伸ばした。
その時、
「おい、生技( 生産技術課 )の事務員!」
不機嫌な声に呼ばれて、私がハイと返事をして振り返ると、製造部の上山さんがこちらを見下ろしていた。
「なんでしょうか」
「なんでしょーかじゃねーんだよっ!」
バン!と手に持っていた革手を空いていた椅子に打ち付けて、上山さんは私を睨み付けた。
一瞬にして生産技術課のオフィスが静まり返る。
稲田さんが気の毒そうに私を見たけど、助けてくれる様子はなく、机上の書類に視線をおとした。
……製造部はわが社の中で最も気の荒い男性が多い。
つい先日も製造部の安川部長が会議中にパイプ椅子を蹴り飛ばして、乱闘騒ぎを起こしたばかりだ。
私はビクッと肩を震わせたものの上山さんの話を聞かなければと思い、椅子から立ち上がった。
「すみません、何かありましたか?」
「五号機の調子が悪くて昼イチで金型下ろすから見てくれって言ってたよな、俺」
鋳造機の具合が悪くて昼イチで点検する話は確かに昼の休憩前に私が石井くんに伝えた。
「……行ってませんか?」
「来てねぇから俺がここにいるんだろーがっ!今日は三時から五号機でトライだぞ?!どーすんだよ!」
トライというのは試作品を作る作業の事だ。
出来た試作品を三次元測定器にかけ、図面にかかれている全ての寸法通りになって初めて、そこからその製品の量産が始まるのだ。
多分上山さんは一直だから、勤務時間の終了する午後七時までに、測定結果が欲しいんだと思う。
「……すみません、すぐ連絡とります」
ホワイトボードには何も書いてなかったから、私は自分のデスクへ戻ると受話器を取り、石井くんの携帯に電話をかけた。
『もしもし』
「石井くん、今どこ?」
『あー、真優ちゃん?今ね、S工場向かってるとこー』
「は?どうして?!」
S工場とはわが社の第二工場で、本社から車で一時間はゆうにかかる。
極力上山さんに聞こえないように圧し殺した声を出す私に、石井くんは訝しげだったが、
『どうしてって、STのラインが調子悪くて今から見に……うわっ!やべぇ!』
上山さんとの約束をやっと思い出したらしい石井くんは、恐る恐る私に尋ねた。
『……上山さん、怒ってる?』
「めちゃくちゃキレてる」
『俺、殺されるかも……どうしよ…けどこっちはマジで急ぎなんだよ!専務直々に電話が、あってさあ』
「……わかった。上山さんの方は、私がなんとかしてみる」
『ごめんな、真優ちゃん!ひとつ貸しにしといて!』
「あいつ、なにしてんだよ」
受話器を置いた私に、上山さんが鋭い視線を送る。
「それが……S工場で専務に呼ばれて」
「はあ?!お前、ちゃんと俺の話、アイツに伝えたのかよ?!コピー取りとお茶くみしか能がねえ挙げ句、伝言すら出来ねーのかよっ!」
「すみません!」
伝えた。確かに私は伝えた。
でもここでそれを言うと、石井くんが悪者になっちゃうし、男同士で揉めると後々大変だろうし……。
「あの上山さん、五分ください!すぐ戻ります」
私は上山さんにそう言うなりガバッと頭を下げると、保全課を目指した。
保全課の藤田さんは数年前まで製造部に所属していた筈だ。
鋳造機にも詳しくて、確か以前、急きょ鋳造機と炉のメンテをしていた事があったような。
もしかしたら、五号機を見てくれるかも知れない。
私は保全課の現場を目指して一目散に駆け出した。
やがてその重い引き戸の前で、ハッと頭に手をやり、思わず溜め息をつく。しまった……!メットを忘れた!メットをかぶらない人間は現場には入れない。
私は保全課の重い引き戸を全力で開けると、作業場を覗き込んだ。
途端に、その気配を感じて入り口付近で作業をしていた男の子が私を見た。
すかさず手招きで呼び寄せると、騒がしい音に負けないように声を張り上げた。
「藤田さんは?」
「さあ……今日は二直だから、まだ帰ってないとは思うけど……」
二直は二時から二時までだ。時計を見ると午後一時だった。
「あ、あそこだ!マスクしてるから気付かなかった」
彼の指の先に、溶接マスクをかぶり、火花を散らしている藤田さんを見つけた。
「藤田さーん!園田さん呼んでます!」
その声で作業を中断し、マスクを脱いだ藤田さんが、私に眼を止めてニッコリと笑った。
「おー、真優ちゃん!ひっさしぶりー!」
藤田さんは四十代後半の渋いオジサマだ。
「藤田さん、あの私」
藤田さんが、少し真剣な眼差しを私に向けた。
「真優ちゃん、落ち着いて。どうした?」
「藤田さん、助けてください!」
***
泥のように身体が重かった。
藤田さんのお陰で五号機はすっかり元通りになり、無事にトライまではこぎつけた。
「いいんだよ、真優ちゃん。困った時はお互い様だろ?」
製造部の現場から帰ってきた藤田さんは、メットを脱ぐと柔らかく微笑んで私を見つめた。
「本当にすみません。勤務時間を一時間も過ぎてしまって……」
申し訳なくて謝ることしか出来ない私に、藤田さんは白い歯を見せてこう言った。
「覚えてる?もうずっと前だけど、設変入った時にさ、俺が溶接棒の発注頼み忘れてた事」
「あ……」
セッペンとは、設計変更の事だ。
たしか、急ぎの設変が入って、金型の溶接をしなきゃならないのに、溶接棒が未発注だったんだ。
それが運の悪いことに土曜日で、T産業さんが休みだったから急きょ私が、仲の良かった営業さんの携帯にダメ元で電話したら繋がって、営業所にあるから取りにおいでって言ってくださって……。
「平日に頼んでも数時間で届かないのに、真優ちゃん、相手先の会社まで車で走ってくれて、一時間で現場まで持ってきてくれただろ?それで間に合ったじゃん?覚えてる?」
「……はい……」
「あの時さ、俺、思ったんだ。真優ちゃんは人と人との繋がりを大切にしてるから困った時に人が手を差し伸べるんだって。凄い事だよ」
……そんな……。勿体無い言葉だ。
私は深々と頭を下げた後、帰宅していく藤田さんの背中を見つめた。
ありがとうございましたと、何度も心の中でお礼を言いながら。
しばらくそうしていると、
「たいして仕事も出来ねえクセに、給料貰えていいよな」
刺々しい言葉と共に上山さんが私のすぐ横を通りすぎた。
上山さんは、まさか石井くんが自分との約束をすっぽかしたとは思っていない。
私の伝言ミスだと思っている。
でも、それでいい。
「本当にすみませんでした」
上山さんの大きな背中を見ながら呟くように謝罪し、私は唇を噛み締めた。
***
定時ギリギリで漸く伝票入力を済ませた私は、疲労のあまりパソコンデスクにぐったりと突っ伏した。
……この疲労感はきっと、入力のせいではあるまい……。
上山さんに叱られたことがかなりこたえたからに決まってる。
……ワイルド系のイケメンは、キレるとその外見に比例して超怖い。
覚えておこう、今後のために。
「真優っぺ、マジごめん!」
こんなに疲労困憊している私の背中をベシッと叩いた奴ぁ誰だ。
しかもなにが『真優っぺ』じゃ!
私はゆっくりと身を起こすと、後ろで手を合わせている石井くんを振り返った。
その、謝ってるのにあんまり悪びれていない石井くんの猫みたいな目を見ていると、椅子に革手を叩きつけた上山さんの恐ろしさが蘇ってくる。
「あの、めちゃくちゃ怖かったんだけど」
「わっかるぅ!」
その顔、張り倒すぞ。
そう言いたいのをグッと飲み込んで、私は帰り支度をしようと立ち上がった。
「じゃあ、私はもう帰るね。お疲れさまでしたー」
オフィスに残っているのは私と今S工場から帰ってきた石井くん、それに稲田さん。
「また、近々なんかおごるから!じゃあね、真優っぺ!」
「はい」
『社内では いつもニコニコ 愛想よく』
私は最後の力を振り絞ってニッコリと笑った。
****
最寄り駅に降り立ち、コンビニで小さなお弁当と缶ビールを買うと、私は近道をするために公園を突っ切ろうと足を進めた。
その途端にライトアップされた噴水が、ゆっくりと圧力をまして天に向かい、私は少し視線を上げた。
吹き出す水にカラフルなライトが混ざり合い、なんだか美味しそうだ。
「甘かったら面白いかもなー」
何の気なしに呟いて、噴水から眼をそらした途端、
「甘そうでも飲むなよ」
へっ?!
驚いて声のした方を見ると、図面ケースを肩に掛けた篠宮さんが笑っていた。
「こんばんは」
「篠宮さん……先日はお世話になりました。あの、どうしたんですか?まだお仕事ですか?」
図面ケースに眼をやりながら私がそう尋ねると、篠宮さんは少し首を振った。
「打ち合わせだったんだ。今から帰るところ。真優ちゃんは?今帰り?」
そう言いながら私を見た篠宮さんは、スーツにネクタイの完全にビジネスマンスタイルだった。
……なんだ、このカッコ良さは。長身で頭が小さくて、広い肩幅が眼をひく。
いいなあ、恵まれた人は。
……そういやこの間部屋にお邪魔した時、別れた彼女のヤツでも気にしないならクレンジングオイル使っていいよ、とか言ってたよな。
……なんで別れたんだろう。こんなにカッコいいのに。
……もしかして……捨てたのか?乗り替えたの?!いや、逆にフラれたとか。
こんな素敵な男を振るなんて、もしかしたら相手は絶世の美女で篠宮さんではもの足らず、ハリウッドスターとかに乗り替えたとか?!
いやいやそれとも彼女が遠慮深い地味子で、希にみる男前と運良く付き合えたけど、やっぱレベル高すぎて『私なんかに貴方は勿体無いわ』みたいな?やだ、どれ?!ちょっと知りたいかも。
その時急に、大きな手が私の額に張り付いた。
「うわっ!なんですかっ」
「いや、急に黙り込むからまた熱が出て、眼を開けたまま寝たのかと思って」
そんなわけあるか。
あんたがどーして彼女と別れたのかという、臆測に夢中だっただけだ。
でもそんな下世話な妄想繰り広げていたなんて言えるわけもなく、私は焦って微笑んだ。
「あの……もう熱は大丈夫ですか?」
「ああ、うん。お陰様で」
……お陰様……。
お陰様って私が噴水に突き落としたせいで風邪引いて熱出したのに?
……何がお陰様なんだか。
いや、日本人は当たり前のようにお陰様じゃなくてもそう言うものだけれど。でも笑っちゃう。噴水に突き落とした張本人に向かって、お陰様って。
「ぷっ……」
思わず吹き出した私を見て一瞬眉を上げた篠宮さんが、声をあげて笑った。それから少しだけ改まって私を見る。
「……よかったら、これから一緒にご飯行かない?」
「えっ!?」
なんで?!
必要以上に大きな声が出てしまい、篠宮さんが少し驚いたように私を見た。
「……あ……もしかして、それ……」
言いながら、私の手のコンビニ袋に視線を落とす。
「そうなんです。今日はコンビニのお弁当なんです。あ、でも篠宮さんさえ良かったら、何か買ってうちで食べませんか?貰い物の白ワインがあるんです。それに実は私の家、この公園のすぐ北側のマンションなんです」
「え!?」
篠宮さんが私に負けず劣らず大きな声を出したから、私はまたしても笑ってしまった。
「そんなに驚かなくても」
「いや、真優ちゃん、家を教えたくないみたいだったから」
「そりゃあ、最初は嫌でしたけど……でも、篠宮さんはそんな私をご自宅にお邪魔させてくださいましたし、最初は嫌いだったけど思ったより性格悪そうじゃないし」
「…………」
「あれ?大丈夫ですか?」
なんだか呆気に取られているような篠宮さんに私は僅かに眉を上げた。
その顔は少し幼く見えて可愛かった。
****
「可愛いシーラカンスだね」
篠宮さんがクスッと笑って玄関に嫌々置いている水槽を見つめた。
「兄が急に海外勤務になっちゃって」
「知ってる?」
「何を?」
私が篠宮さんを振り仰ぐと、彼はニヤニヤしながら先を続けた。
「今は20センチ弱くらいだけど……アロワナって、めちゃくちゃ大きくなるんだよ」
えっ?!怖いこと言わないで欲しい。
「私、アロワナの生体に詳しくないので分からないんですけど、この大きさがMAXじゃないんですか?」
「俺の友達の家には50センチのアロワナがいるよ」
「……マジで?!」
「うん」
クソッ、あのアホ(兄)め。
「……要ります?」
「は?」
「このアロワナ、篠宮さんさえよかったら貰ってくれたら嬉しいなー、なんて」
「いや、お兄さんのアロワナなんだろ?」
……そうなんだけれども。
ほんと、呪ってやりたい。
****
二時間後。
「嫌いって……」
家にあった白ワインがなくなる頃、篠宮さんがポツンと呟いた。
「え?なに?」
私が聞き返すと、篠宮さんはグラスを置きながら苦笑した。
「さっき公園で」
あ……。
「でも……篠宮さんも私が嫌いだったでしょ?飲み会の相手が私って分かってたら来なかったって言ったし」
私がそう言いながら向かいに座っている篠宮さんを見ると、彼は少し焦ったように口を開いた。
「いや、あの時は……理由も説明させてもらえない上に、あんなハッキリ否定されたのが癪に障ったというか。でも、嫌いになったんじゃないよ。ただ、生意気だなって」
……そう……だよね。相手の理由も聞かずに、私……。
私は少し咳払いしてから身を正した。
「私……多分焦っていたんだと思います。親友は皆彼がいるのに、私はいない歴半年で……」
「……たった半年じゃん」
篠宮さんが驚く気持ちも分かる。
私は正直に胸の内を話した。
「……私……逃げたかったんだと思います」
「え?」
こんな事を言うと軽蔑されるかも知れないと思うと、無性に喉が乾いて、私は缶ビールをゴクゴクと飲んでから口を開いた。
「早く誰かいい人を見つけて、仕事を辞めたかったのかも知れません。強く意識した事はないですけど……」
私の言葉に篠宮さんは静かにグラスを置いた。
「真優ちゃんの職種はなに?」
「……事務仕事です。三課を掛け持ちしています」
「仕事、きついの?」
私はゆっくりと首を横に振った。
「確かに忙しいですけど、そうじゃなくて……実は私、設計希望だったんです。でも入社時、設計士よりも事務員が不足していて」
「……そう」
「事務仕事が嫌なわけじゃないんです。大切な仕事だって理解していますし。
……私に勇気があれば設計士として別の会社をさがすなり出来たのかも知れませんが、再び正規社員になれるかなんて分からないし……結局、今の現状から抜け出す勇気と根性がないんですよね。だから結婚に逃げようとか心のどこかで思っていたんだと思います」
「そっか……」
私は篠宮さんを見つめて苦笑した。
「私ったらほんと、情けない。だから……あの時はすみませんでした」
ペコリと頭を下げると、篠宮さんは少し驚いた感じだったけど、すぐに微笑んだ。
「……フッ」
「……何ですか?」
微笑み以上の笑いが生まれたらしく、篠宮さんは白い歯を見せた。
「いや、別に」
別に……なんだろう……。
その時インターフォンが鳴り、私は反射的にキッチンの壁のモニターを見つめた。
……遠くてわからないけど……男性の顔が見える。
時間が時間だし、出ないでおこう。
「……出ないの?」
私は当たり前だと言わんばかりに頷いた。
「夜だし、宅配便なんて頼んでないし。危ないから出ません」
その時、ラグの上に放置していたスマホが鳴って、私はその画面を見て眉を寄せた。
……高広だ。
「なによ」
『居留守すんじゃねーよ』
げっ!高広だったの?
「だって画面遠くて。男だったから出るの止めたの。物騒だし」
『じゃあ、俺って分かったんだからいいだろ。今から上がるからドア開けろよ』
「……わかった」
舌打ちしながらスマホをタップすると、篠宮さんが私に尋ねた。
「今来た人?」
「高広ですよ」
私がそう言ってビールを飲むと、篠宮さんが少し戸惑ったように私を見た。
「……そう」
「すみません、ちょっと鍵開けてきます」
立ち上がってリビングを出ようとしたところで、インターフォンが連打された。
高広の奴っ!子供かっ!
「連打すんなっ!」
「居留守の罰だ!」
「なんであんたに私が罰食らわなきゃなんないのよっ」
玄関ドアを開けた途端、私を見下ろした高広に応戦しながらツンと横を向くと、
「……誰が来てんの」
足元の靴を見ながら高広が声をひそめた。
「篠宮さん」
たちまち高広がムッとして私の手を掴む。
「なんで」
「そこの公園で出会って、食事に誘われたけどもうお弁当買っちゃってたし、ワインが余ってたから家でよかったらご一緒しませんかって、誘っ」
「説明、長ぇ!」
なんだとっ?!自分から訊いたくせにっ!
仏頂面で私を睨んだまま、高広は冷たく口を開いた。
「お前さぁ、ケーニイが好きなの?」
「は?!」
「ケーニイはやめとけ。ケーニイは『好きって感情』が抜け落ちてる人種なんだ。たとえ抱き合ったって絶対心までは許さない人間だから」
その時、篠宮さんがリビングから玄関へとやって来た。
「真優ちゃん、そろそろ帰るよ。御馳走様でした。高弘も、またな」
「あ、ああ」
私の手を慌てて離しながら、高広は篠宮さんに頷いた。
「俺も帰るわ。なんか、今日はやめる」
「何しにきたの、高弘」
訳がわからずに私がそう問うと、高広は相変わらずムッとしたまま言葉を返した。
「……また改めるわ」
言うなり高広は真っ先に出ていってしまい、私は諦めて小さく息をついた。
「じゃあ篠宮さん、おやすみなさい」
「うん。じゃあね」
言いながら篠宮さんは靴を履き、やがて顔を上げて再び私を見た。
「またね」
「……はい」
……ふーん……そうなんだ……。
私はさっき高広が言った言葉を思い返した。
『ケーニイはやめとけ。ケーニイは『好きって感情』が抜け落ちてる人種なんだ。たとえ抱き合ったって絶対心までは許さない人間だから』
……高広は何か知ってるのかな。じゃないとあんな言い方しないよね。
何だか胸がザワザワする。なんだろう、この感じ。
私はなんだか落ち着かなくて、ついさっきの事なのに、『またね』と言って帰っていった篠宮さんの顔を思い出せないでいた。
***
「出向ですか?」
生産技術課の磯山課長が、ごくごく軽い感じで頷いた。
「そ。株式会社デザインタフね。来月一日から」
「なんで?!」
驚きのあまり私は、普段会社ではひたすら押し殺している『素の自分』を出してしまいそうになり、思わず手で口を覆った。
「だって園田さん、元々は設計希望でしょ?」
……それは……そうなんだけど。
「なんでも、デザインタフはうちの契約会社だからさ、設計士としてあちらさんの仕事を頑張ってほしいんだと。あ、三課の事務仕事の事なら心配しなくていいよ。もう派遣から人材確保済みだから。明日、三人来るから簡単に引き継ぎしといてね。来月まであと十日弱あるから大丈夫でしょ?」
「はい……」
デザインタフ……。どっかで聞いたなー……。
****
二時間後。
「なんでそんなにニヤニヤしてるんですか」
「いや、赤い糸を信じちゃいそうで」
「赤い糸?なんですか、それ」
「赤い糸しらないの!?」
「運命の相手と繋がってるとかいう、あれですか?」
「そう!」
私は妹尾さんにコーヒーを手渡しながらシラけた顔で彼女を見つめた。
「……妹尾さんの恋人で社長でもある春彦さんの仕業じゃないんですか?」
私の言葉に妹尾さんはブンブンと首を横に振った。
「真優ちゃん、名前間違えてる。春彦はお兄さんで、彼は秋彦」
………。
「ショットバーで偶然秋彦に出会った時に真優ちゃん言ってたじゃない?三課を掛け持ちするなら、壁ぶち抜いてワンフロアにして欲しいって。秋彦、マジでそれを検討したみたいだけど、それだと工事中部屋使えなくなるし、後々の予定では一課ずつ事務員雇うつもりだったから、それを前倒ししたみたいだよ」
へー……。
「一課ずつ事務員おく話、もしかして妹尾さんは秋彦から聞いてました?」
呼び捨てだけれども。
私のドストレートな質問に、妹尾さんは数回瞬きしてから返答した。
「しらなーい」
なんだその口調は。子供か。
「とにかく篠宮さんの会社なんだからさ、毎日顔合わせる事になるじゃん?彼と恋が芽生えたりしてっ!」
妹尾さんがそう言いながら両手でコーヒーカップを可愛らしく包み込んだ。
「……そんなの多分ないです」
私がポツンとそう言うと、妹尾さんは、飲もうとしたコーヒーを唇の前でピタリと止めて眉を上げた。
「どうして?篠宮さん、めちゃくちゃかっこいじゃん、モデルみたいに。性格も良さそうだし」
どうしてって……。
まさか、『篠宮さんは、好きって感情を持ち合わせていないらしいです』とはいえないしなあ。
それが真実かもわからないんだけども。
「どこが不満?!」
「不満じゃなくて私とは釣り合わない人だなーって。」
「そうかなあー。釣り合わないの理由が良く分からねぇけど」
分からねぇって……急になんなの、キャラ変わりすぎて怖いわ。
「篠宮さんは確かに外見はとても男前の美形ですけど……」
「うんうん、だけど?」
「なんというか……彼の好みは私みたいな人じゃないような気がします」
なんと言ってもお互いに最初の印象が最悪だったし。
「それって、男みたいな性格の女の子は好きじゃないっぽい?」
……サラッと失礼だな、おい。
「あ!悪い意味じゃないのよ?!真優ちゃんて、こう……ネチネチしてないしサッパリしていて前向きだし、私は真優ちゃんの性格好きだよ?!」
「ありがとうございます……」
ダメだ、言えない。第一、語るほど彼を知らないしなあ。
私は残りのコーヒーを飲み干すとホッと小さく息をついた。
****
出向まで残すところあと二日となった金曜日の事だった。
「……お気持ちだけ有り難くいただいておきます」
私は冷や汗の出る思いで前田さんを見上げた。時間は午後七時二十五分。
二時間の残業を終えて、私が帰り支度を始めた数分後の事である。
「どうして?」
いや、どうしてって……。
前田さんはこちらを真正面から見下ろして、再び私に問いかけた。
「俺とは飲みに行けないの?」
……だって……前田さんと二人でなんて話す話題もないし、気まずい。
今までの忘年会とか新年会の類いの飲み会ですら席が離れていたのに、二人きりで私の送別会なんてとんでもない話だ。
第一、意味がわからない。なんで前田さんと二人きりで私の送別会なんだ。……絶対嫌だ。
生産技術課のオフィスに普段は長くいる課長も今日は出張でいないし、石井くんも第二工場から直帰だし。
稲田さんは絶対定時退社だし。
誰も助けてくれる人がいないこの状況。
まあ誰かいたところで、前田さん怖いから皆スルーだろうけど。
……困ったなあ。
私は笑顔を絶やさないようにしながら前田さんを見上げた。
「送別会なんて大袈裟ですよぉ、前田さん。出向といっても会社も近いみたいですし、私しょっ中こっちに来ますし……。それに、前田さんも残業続きでお疲れでしょう?わたしの事は気にしないでください」
私は、デスクから手早くカバンを出すと、肩にかけて前田さんに頭を下げた。
「じゃあ、お疲れさまです」
ああ、早く前田さんから離れたい。でも、笑顔を絶やさずさりげなく。
「石井とはふたりで飲みに行けるのに、俺とは無理なの」
「え?」
素早く前田さんが私の腕を掴んだ。
思わずビクッと身体が震える。
石井くんと飲みに行ったことなんて、ない。一体何の話だろう。
「あの、前田さん」
ゾクッとした。
だって前田さんの眼が何だか感情のない人形の眼みたいだったから。
「社食で石井が言ってたんだ。真優ちゃんに申し訳ないことしたから、お詫びに奢るって」
背の高い前田さんは手も大きくて、振りほどく事が出来ない。
「……なんかそれって……感じ悪いっていうか……俺と飲めない理由はなんなの」
……怖い。もう、笑顔をを作る余裕なんてなかった。
恐怖心からか、心臓が痛いほど鳴り響く。
「前田さん……」
その時、
「園田さん」
え。
この声は……なんで……?
いつの間にかオフィスのドアが開いていて、そこに篠宮さんが立っていた。
彼を見た瞬間、驚きと言葉に出来ない感覚……なんというか、全身がビリッとするような妙な感覚が私を包んだ。
決して嫌な感覚じゃなかった。
「篠宮さん……」
驚いたのか、前田さんが私から手を離した。
「帰るよ、早くおいで」
篠宮さんが待ちくたびれたといったように私を見た。
「あ、はい。すみません。前田さん、さようなら」
私は前田さんに頭を下げると、足早に出入り口に向かい、篠宮さんとオフィスを出た。
廊下を歩き、外につながる扉の手前で篠宮さんが私を振り返る。
「大丈夫?」
「……助けてくださったんですか」
篠宮さんが少しだけ笑った。
「秋彦に用があったんだ。ついでに磯山課長に会っていこうと思ってオフィスにきたら、窓から真優ちゃんが見えて。そしたらあの背の高い彼が急に詰め寄って腕を掴んだから、これはヤバイと思ってさ」
よ、良かった……!
「ありがとうございます……お陰で本当に助かりました……」
全身の力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
「大丈夫?なにかトラブル?」
なんとか踏ん張って篠宮さんを見上げると、彼は私を真っ直ぐに見ていた。
こんな時に変だけど……綺麗な顔……。
それになによりもホッとした。
当たり前だけれど、篠宮さんの瞳がさっきの前田さんとはまるで違っていて、温かくて優しくて。
「真優ちゃん」
急にブルブルと両手が震え出した。
「……何だか良く分からないけど二人だけで送別会って言われて、それを断ったら急に前田さんが」
息が続かなくなって、そこで言葉が途切れた。
大きく息をしているのに、苦しい。やだ、震えがとまらない……。
「怖かったんだね。もう大丈夫だよ」
恥ずかしい。震えを止めようと両腕を抱き締めるも、思うようにならない。
少し眼をあげると篠宮さんと視線が絡んだ。
震える私を見て少し驚いたようだったけど、彼はすぐに私を引き寄せた。
「おいで。もう心配ないから」
フワリと篠宮さんの腕の中に囲われた。彼の固い胸に額が当たる。
「大丈夫」
胸がギュッとした。
****
私は……魔法にでもかかってしまったのだろうか。
篠宮さんの車から降りたくないと思ってしまうなんて。
胸が圧迫されているような、妙にドキドキするこの感じ。
痛いくらい心臓がバクバクして煩くて、緊張している。
顔が見たいのに、運転中の篠宮さんを盗み見るなんて到底できない。
薄暗くて暖房が利いた暖かい車内と、篠宮さんの香りがすごく心地よくて、ずっとここにいたい。
今、私の中で篠宮さんの印象が大きく変わってしまった。
前田さんから助けてもらってあんな風に胸に抱かれて、私の心は篠宮さんにドキドキしている。
運転席と助手席の距離はそう遠くない。
その距離に胸が高鳴って、どうしようもない。
こんな時に限って、さっき胸に抱かれた感覚や噴水でのキスが脳裏に蘇る。
やがて篠宮さんの運転する車が私のマンションの前に停まった。
「……ありがとうございました」
「真優ちゃん」
「……はい」
ドアに手をかけた私を篠宮さんが呼び止める。
「来週から宜しくお願いします」
少し笑ってそう言った篠宮さんに、一際鼓動が跳ねた。
「……はい……」
本当は『精一杯頑張ります』とか『御社のお役に立てるように努力します』とか色々と考えていたのに、私はこう答えるのが精一杯だった。
******
「どーしよー……」
シャワーを浴びてソファに寝転がると、私は思わずこう口にして胸を押さえた。
これは……この気持ちはなんなの?
もしかして恋とか?いや、分からない……そして、ヤバイ。
人を好きになるという行為から遠ざかっていた為に、正直現段階ではよく分からない。
けど、けど!
もし恋だと仮定して……恋に落ちる時って、こういう感じだったっけ?
最初私は篠宮さんが嫌いだった。
長身で端正な顔立ちにも関わらず、嫌いだった。
なのに、恋?それともこれは恋ではなく、ただの好印象?
……わからない。
でも、胸がドキドキしたし……。
その時、テーブルの上のスマホが鳴った。
「は」
『真優、今から会いたい。話あるんだ。近くまで来てるから上げろ』
高広め。
「えー、化粧落としちゃったし部屋着だし」
『気にすんな。飯は?』
「今から」
『じゃ、俺もなんか買ってから行く。じゃな』
……厚かましい男だったんだな、高広って。
プ、と返事も待たずに切れた通話に溜め息が出る。
交際期間が短かったしすれ違いばかりだったから気付かなかった。
私はソファから立ち上がると、夕食の用意をするためにキッチンへと向かった。
****
「ん、美味い!」
「……そ?てゆーかさ、なんで私が高広のコンビニ弁当なの」
私が口を尖らせてそう言うと、高広は私が食べる予定だった肉じゃがをゴクンと飲み込んでニッコリと笑った。
「だって、お前の手料理食ってみたかったもん。ご飯お代わり」
もーっ!
「このキュウリの漬け物も、手作り?」
手作りって……浅漬けの元に漬けただけなんだけども。
「そうだよ」
すると高広は私を見て唇を引き結んだ。
「なに?」
私が首をかしげると、彼は小さく咳払いして眼をそらした。
「いや、別に……なんかいいな、お前」
え。そんなキュウリの漬け物ごときで誉めてもらえるなんて。
「やだなー、肉じゃがは昨日の残りだし、キュウリはビールのアテだよ?カロリー低くて美味しいし、簡単だしさ」
私がそう言いながらお茶碗を高弘に手渡すと、彼は真っ直ぐに私を見て気恥ずかしそうに言った。
「ありがと」
なに、その顔は。
切り込んだような二重の眼をわずかに伏せた高広に、私は不覚にもキュンとしてしまった。
高広といい篠宮さんといい、やっぱりイケメンは女心をくすぐる生き物なんだな。
「マジで美味い。幸せ」
私はマジマジと高広の食べっぷりを見つめていたけれど、何だか嬉しくなって口を開いた。
「なんか、嬉しい。こっちこそありがと」
「え」
「だって、料理を美味しそうに食べてもらった経験なかったし」
「……」
「……」
お互いに無言になって視線が絡んだ後、高広がゆっくりとお箸を置いた。
「真優、俺ともう一度付き合ってくれないか」
「え?」
食器を洗おうと立ち上がったばかりの私は、足を進めることを忘れて硬直した。
高広は立ち上がると私の真正面まで来て真っ直ぐにこちらを見つめた。
「正直な気持ちを言うと、付き合ってた頃はお前の良さが分かってなかった。忙しくて時間が合わなかったし、お互いを知る時間もないまま連絡途絶えたし」
高広は一旦言葉を切った後、僅かに眼を細めてから私をそっと引き寄せた。
吸い込まれるようにそこに収まってしまったのは何故なのか、私は分からないまま彼の体温を感じた。
高広が囁くように続ける。
「ケーニィの家で再会した時に俺、自分でも驚いたんだ。お前と付き合ってた頃は気を使ってて、素の自分なんて当分出せそうにもなくて、正直しんどかった。なのに久し振りに会ったお前はあの頃のお前じゃないみたいですぐにまた顔が見たくなって、話したくなって。それに」
そこまで言った高広は、少し身を起こして私の瞳を覗き込むと、掠れた声でこう告げた。
「それに……ケーニィの家にお前がいて……妬けたんだ」
妬け……た?
「最初はなんで気分悪いのか分からなかったよ。けど帰りながらすぐ分かった。俺は嫉妬してるって。妬く資格なんてないのに、妬けたんだ」
至近距離から見つめられると苦しくて、私は眼をそらすと彼の腕の中でもがいた。
「なあ、真優」
どうしよう、どうしよう。
「そんなこと言われても……困るよ」
すると高広は小さく息をついてからゆっくりと私から離れた。
「今日は帰るから……また返事きかせて」
御馳走様、と言って帰っていった高広の背中を、私は見つめる事しか出来なかった。