奇妙な外泊
****
あったかい……。
なんて温かいんだろう。もうずっと、こうしていたい。
「……ちょっと……園田さん」
んあ?
「離して」
んあっ!?
「……離して……?」
「そ。腕、俺の首から離して」
離してって、私がくっ付いてるって事?
意味が判らなくてソッと眼を開けると、至近距離に男性の顔があった。
「うわっ、なに?!」
なんで篠宮慶太が?!
慌てて距離を取ろうと仰け反ると、篠宮慶太は私の上に屈み込むように曲げていた身体を起こした。
左側の視界にソファの背もたれが映り、どうやら私は篠宮慶太にソファへと下ろされたらしかった。
……そうだ、そう言えばショットバーを出て、植え込みから転げ落ちそうになったところを助けてもらって抱き上げられて……。
そこからの記憶が全くない。
「ここは俺の家」
「えっ!」
驚いた私を篠宮慶太は静かに見つめた。
「仕方ないだろ。園田さん、家教えたくないみたいだったから。しかも寝ちゃうし」
あ……。
「あの、ごめんなさい……」
あまりにも申し訳なくなって、私は勢いよく立ち上がると篠宮慶太に頭を下げた。途端に、またしても目眩に襲われる。
「あ」
「おっと」
クラッとよろけた私の腕を篠宮慶太が掴んだ。
「いいから座ってて。薬持ってくるから」
「いえ、そんな」
私が言い終わる前に彼は部屋を出ていってしまい、暫くすると薬を手に戻ってきた。
「抱いてた時に思ったんだけど」
だ、だ、抱いてた時!
「な、なに!」
過剰に反応してしまった私に、篠宮慶太は一瞬言葉を失ったみたいだったけど、気を取り直したのか後の言葉を続けた。
「園田さん、熱があるみたいだ。身体が凄く熱い」
……やっぱりか。
「……今日は泊まれば?ベッド貸すから」
……そ……んな事言われても……。
「でもなんか、古い考えかもしれませんが、知り合って間なしだし、そういうのは……」
ソファに腰を下ろして膝の上で両手を握り締めながら私がそう言いかけた時、どこかで小さくチチチ、と電子音が鳴った。
「あー……ヤバ」
少し眼をあげた私の前で、篠宮慶太が自分の脇の下から取り出した体温計を見つめて眉を寄せた。
……もしかして……。
「あの、熱があるんですか?」
篠宮慶太は何故か首をかしげた。
「……壊れてんのかも」
………壊れてる?体温計が?
訝しげに篠宮慶太を凝視していると妙な感じがして、私は思わず眉を寄せた。
彼の額に……汗がびっしりだ。
いくら私が劇的に重かったとしても、寒々しいこんな夜に、こんなに沢山の汗をかくものなんだろうか。
しかも顔色も良くない。もしかして、病気かも。
「ちょっとごめんなさい」
言うなり私は立ち上がり、篠宮慶太の喉元に手を当てた。
とても熱い。絶対に熱がある。
「体温計見せて」
「え」
ヒョイッと彼の横から液晶画面に眼をやると、私は思わず息を飲んだ。
38度5分。
「多分、体温計は壊れてない。服、脱いで」
「え、いや、」
言いながら私が篠宮慶太のシャツに手をかけると、彼は戸惑ったように私の手首を掴んだ。
そこでようやく私はハッとしたけど、でも……。
「ご、めんなさい。だけどもっと楽な格好じゃなきゃ休めないし……部屋着どこ?取ってきてあげる」
私が篠宮慶太を見上げてそう言うと、何故か彼は私を一瞬真顔で見た後、呆れたように笑った。
「あ、の」
「おいで」
「へっ?!」
「いいから」
柔らかい笑顔を浮かべたまま、篠宮慶太はこちらを見下ろすと私の手を握って引いた。
……何処に連れていくんだろう……と思いながらリビングを出ると、彼は廊下に出てすぐ隣の部屋のドアを開けた。
「入って」
手を引かれたまま入ったドアの先は、寝室だった。
なんだか急に鼓動が速まる。
「……ちょっと、ごめん」
部屋のタンスに歩み寄ると彼は私に背を向け、少し肩を揺すって上着をスルリと脱いだ。
う、わ。
広い肩幅と、キュッとしまった腰。
その後カチャンと小さくベルトの金属音がして、私は慌てて彼に背を向けた。
さすがにズボン下ろすところは見ちゃダメでしょ。
「……いいよ。はい、これ貸すよ」
「え?」
振り向いて彼の手元を見つめると、それはどうやら部屋着のようだった。
「俺のだから、かなり大きいと思うけど」
……本当は断りたいし帰りたかった。
けど、私も熱があるのは確かなようで、寒気と全身のダルさが半端なかった。きっと、こんな状態で家に辿り着くのは無理だ。
「あの、別れた彼女の物で悪いけど、洗面所にメイク落としのヤツ……クレンジングだっけ?そーゆーのもまだ処分してないから、自由に使っていいよ。あ……その、園田さんさえ構わないなら」
「……ありが……とう」
お借りできるのはありがたいけど、素っぴんをさらけ出すような間柄ではないわけで……。
だけど、化粧はきちんとおとして寝なきゃ肌に悪くて……。
一段と悪寒とダルさが増していくなか、もはや思考回路もまともかどうか定かではない。
す……素っぴんは見られたくない。
でも肌トラブルは避けたい。関節がギシギシする。
借りたこの服に着替えるのが精一杯……。
私はヨロヨロしながら、教えてもらったバスルームへと向かった。
着替えるだけで息が上がるなんて、ほんとに病気だわ、私。
逞しいだけが取り柄なのに……よりによってこんな時に……。
着替え終わると私は、ヘナヘナと脱衣場の床へとヘタリ込んだ。
……もう……いい。考えるのも……疲れた。
私は、よく知りもしない男性宅で一夜を明かす羽目になってしまった事への罪悪感を胸に、ゆっくりと眼を閉じた。
****
……寒い……。
私はモゾモゾと温かいものを探しながら動いた。
「こっちおいで」
その時誰かの声がして、腕を引かれた。
その腕が背中に回ると、ギュッと抱き締められて私は思わず微笑んだ。
「あったかい」
ああ、たとえ夢でも幸せ。
だって凄く寒かったし、こういうのは久し振りで……。
声の主はクスリと笑うと、
「心配ない。抱いててやるから、寝な」
「高広……気持ちいい……ずっと抱いてて」
「……ああ」
…………。
あれ私、高広とは半年前に別れて……。
……夢か?これは。そうだ、夢だ、多分。夢ってホント奇妙だよね……。
そんなことを思いながら、ウツラウツラと再び私は眠りの中へと落ちていった。
****
……んー……。
なんか微かに、イイ匂いがする。なに?スープ?分かんないけど。そういや、凄くお腹が空いてる。
でも……ここは……。
……は?
ゆっくり眼を開けると見慣れない部屋の中が眼に飛び込み、私は思わずガバッと起き上がった。
直後に目まぐるしく昨夜の出来事を思い返す。
ちょ、ちょっと待てよ確か……確か……。
「起きた?」
「きゃああっ!」
急にドアがガチャリと開いたかと思うと、篠宮慶太の声がして、私は驚きのあまり叫んだ。
「あ、あのあの、ご迷惑かけてごめんなさい」
ベッドで身を起こして私がそう言うと、ドアから部屋を覗いた篠宮慶太がフウッと笑った。
それからおもむろに部屋の中に入り、ベッドに腰かけると私を見つめた。
「ちょっとごめん」
言うなり掌をそっと私の額に押し当てて、数秒唇を引き結んだ。
「……下がったな。良かった」
反射的に眼を閉じてしまっていたけれど、その言葉の直後に額だけに新しい空気を感じ、彼の手が離れたのが分かった。
眼を開けると同時に視線が合って、気まずいなと思った瞬間、篠宮慶太がニッコリと笑った。
「スープ作ったんだ。一緒に食べない?」
「よ、よいの……ですか」
「プッ……」
「なに……」
「……別に」
「あの、篠宮さんも熱、下がったんですか」
「うん」
うん、と言った彼が、さりげなく私から眼をそらした気がした。
いや、気のせいか。でも……。
「……っ!」
「ダメです、ジッとして」
伸ばした手を反射的に避けようとした篠宮慶太の額に、私は強引に掌を押し付けた。
やっぱりな。
「……まだ熱いけど」
私がそう言うと、彼は決まり悪そうに笑った。
「女の子よりも長引くなんて、カッコ悪いだろ」
「……別にカッコ悪くはないです。私が逞しいだけで。取り敢えず寝ててください。料理は私が代わります」
私はそう言うとベッドから出て、代わりに篠宮慶太をベッドに寝かせようと彼の腕を引いた。
「いやでも」
「あっ、その、篠宮慶太が迷惑じゃなかったら」
わ、しまったっ!呼び捨てだし、フルネームだしっ!
まさかの恐ろしいミスに、カアアッと一気に顔が熱くなって、私は俯いた。
「すみません……」
消え入りそうな声で私が謝ると、彼は笑いを含んだ声で言った。
「いいよ、慶太で。フルネームで呼ばれるより下の名前で呼ばれる方が。俺も真優ちゃんって呼ぶから」
「……はい……」
「じゃあ……あと、味を整えるだけだから、かわってもらっていいかな?」
「はい。じゃあ、キッチンお借りします」
私がドアの手前でこう言うと、慶太さん……いや、篠宮さん……は、丁寧に頭を下げてから微笑んだ。
****
あー、ドキドキした。いや、今もしているんだけども。
……篠宮さんの部屋はとても素敵だと思った。
黒を基調としたリビングはゆったりとしていて、収納が充実しているのか眼に付くところに無駄なものはなかった。
それに続くキッチンは対照的に白で統一されていたけど、こちらもとても綺麗だった。
クッキングヒーターの上にはフランスの有名メーカーの鍋があり、その中身は具沢山の野菜スープで、私は思わず眼を見張った。
……料理好きなんだろうか。
シンクのすみの三角コーナーに数種類の野菜の皮などが見えたから、どうやら冷凍のミックスベジタブルなんかじゃなく、ちゃんとした生野菜を使ったみたいだ。
お……美味しいじゃないか……!!
小さな小皿にスープを少しだけすくって入れ、フーフーと冷ましてから味見をした結果、私は思わず寝室の方を振り返ってしまった。
ほんの少しだけ、塩と胡椒で味を整えれば完璧だ。
私は食器棚からスープ皿を取り出すと、一人分だけよそい、テーブルに置いた。
「……ごめん、お客さんにこんな事させて」
その時後方から篠宮さんの声がして、私は振り返って首を振った。
「……いえ、ご迷惑をおかけしているのは私の方ですし。あの、ここで召し上がりますか?寝室に運んだ方がいいですか?」
「ここでいいよ。一緒に食べよう」
…………。
それは……嫌だ。凄くお腹は減っているけど、私は嫌だった。
だって確か昨日は、着替えたところで力尽きてお化粧したまま寝ちゃったし、篠宮さんに借りた服があまりにもブカブカで変だし、とにかく私は今、ヒドイ有り様なのだ。
こんな姿をこんなイケメンに、正面切ってさらす勇気はまるでない。
「とても美味しそうですけど、私は結構です」
「どうして?」
どうしてって、それはその……。
巧い理由を考えられず口ごもる私の脇を抜けて、篠宮さんはスープ皿から美味しそうな液体をひとすくいした。
「美味しい。味、整えてくれたんだね」
「……はい……」
私が小さく頷くと、篠宮さんはフウッと笑ってスープをもうひとすくいした。
「はい。食べて」
フーフーと息を吹きかけたスプーンを私の唇の前まで持ち上げて、彼は再び微笑んだ。
「ほら」
至近距離で見る篠宮さんの瞳は濃い茶色で凄く綺麗だった。
おまけに清潔そうな口元があまりにも魅力的で、私は息をするのも忘れて彼の顔を見入ってしまった。
起きた瞬間から鼓動が早いままなのに、これ以上はもう、酸欠になるかもしれない。
「真優ちゃん?」
「は、はい!」
急に呼ばれて我に返り、私の眼にようやく銀色のスプーンが飛び込んできた。
「ん、飲んでみ」
口を開けるのですら恥ずかしいのに……でももう逃げられない。
観念した私の唇に、篠宮さんはスプーンを付けるとゆっくりと傾けた。
「美味しい……です」
「真優ちゃんのおかげだよ」
……ダメだ、もうダメだ。これ以上はもう無理。男前は、緊張する!
その時、開けっぱなしのリビングのドアの方から何やら音が響いた。
「兄貴ー?いねーのー?」
ドアが閉まる音と、こちらに近づく足音。
誰か、来た。
篠宮さんを兄貴と呼ぶからには弟だろうけど、兄貴だけじゃなく、私もいるわけで……。
ど、どうしようっ、兄貴の服着てるし化粧落ちかけだしっ。
こんなの、あらぬ誤解を……。
「えっ?!」
「……嘘!」
隠れる時間なんかあるわけもなく、私はやって来た篠宮さんの弟と顔を合わせると、衝撃のあまり息を飲んだ。
「真優!」
「な、んで高広が……?」
予想していなかった展開に、頭が混乱する。
高広……高広は、半年前に別れた私の元カレだ。別れるに至った決定的な理由こそないが、お互いに多忙で、すれ違い気味になった為に自然消滅してしまったのだ。
その高広が、なんで……。
無言で数秒見つめ合った後、高広が私を上から下まで舐めるように眺めた。
「真優、兄貴と付き合ってんの」
ほらきた!
「ち、違う、これには理由が……って、高広、あんたの名字、本城だよね?!」
高広は、疑いの眼差しを向けたまま、私の質問に答えた。
「兄貴っつっても、ケーニィはイトコだよ。それよりさ、お前、なんでケーニィといるわけ?しかもその服……」
「いやだから、理由が」
「理由って?」
「そ……れは……」
そこでようやく篠宮さんが、口を開いた。
「高広、真優ちゃんと知り合い?」
一瞬、高広が僅かに眉を寄せた。それから事も無げに篠宮さんに視線を合わせて返事を返した。
「俺の彼女」
「ちょっと、高広っ」
「間違ってねーだろ。はっきり別れてないし」
高広は私を真正面から見据えた。
それは……そうだけど……。
その射るような瞳にグッと言葉が詰まる。
なに、この沈黙。
……ちょっと待って、色々嫌な予感が……噴水突き落とし事件や、シーラカンス、いや、シーラカンスはこの際どーでもいーとして、二人仲良く熱出して寝込んでたとか……。
そう言えば夢だと思って抱き合ったのはもしかしたら篠宮さんなんじゃ……?だって、脱衣所でヘタリ込んでたのに気付いたらベッドの中だったし……。
それより二人がイトコだということは、ここ最近の出来事は元より、過去の私と高広の恋愛話なんかも情報交換されたりとかして……。
嫌だ、絶対嫌だ、どうしよう。
「ケーニィと関係ないなら着替えろよ。家まで送るから」
「でも、高広は篠宮さんに用があるんじゃ」
「別に。イイから着替えろ。ケーニィ、今日は帰るわ」
篠宮さんの返事も聞かずに高広は少し手を上げると、玄関へと踵を返した。
再び私と篠宮さんだけになった部屋に、なんだか気まずさが漂う。
「あの、熱……大丈夫ですか?」
私がそう問うと、篠宮さんはホッと息をついてから頷いた。
「スープ飲んだあと薬飲んで寝るよ。明日は日曜だしゆっくり体休めたらすぐ治ると思う」
「そうですか……じゃあ私、これで失礼します。色々とありがとうございました」
ペコリと頭を下げて部屋を出ようとした時、篠宮さんが私を呼び止めた。
「真優ちゃん」
「……はい」
「真優、早くしろ」
廊下の先で高広の声が響いた。
「あ、うん」
「またね」
……え。
私は僅かに眉を上げた。
だって篠宮さんに、そんな事言われるなんて思いもしなかったから。
『またね』
振り返って見上げた篠宮さんの顔は少しだけ微笑んでいて、私はそんな彼に頷く事しか出来ずにバスルームへと向かった。
またねと言われてドキドキしたのは初めてだった。
****
「詳しく話せよ」
ハンドルを握りながら不機嫌そうな顔で、高広が私をチラリと見た。
「関係ないでしょ?!飲み会でたまたま知り合っただけ!とにかく、篠宮さんに余計なことベラベラ喋んないでよね」
「……いつ?」
「先週」
「なんで泊まってたの」
なにその偉そうな口調は。
「さっさと答えろよ」
「もーっ!アンタは私のお父さんかっ!色々あったの!」
「……ヤったのかよ」
「はあっ?!ヤってないわっ」
キ……キスはしたけどな!
ドキッとしたのを知られたくなくて、私は喧嘩腰で返した。
「……」
高広の仏頂面に苛ついて、更に私は声を荒げる。
「大体さあ、私と高広って自然消滅したよね!?久々に会ってこの態度はないんじゃないの?!しかも何が『俺の彼女』よ?!元が抜けてるでしょーが!」
ギラッと真横から睨むと、高広が怯んだ。
「そ、れは……」
「それは、なに?!」
噛みつくように私がそう言うと、高広は小さな子供並みに頬を膨らませた。
「ケーニィに盗られたくなくて」
はい?!
もう私はお前の物でも何でもないわっ!
私は溜まらずに横から高広の頬をムギュッとつねった。
「どの口が言ってんの!別れた男が言っていい台詞じゃないわっ」
「いてーっ!」
「降りる!もうすぐそこだから歩く!」
丁度信号待ちで停車していた高広の車から素早くドアを開けて降りると、私は歩道へと走り車から離れた。
慌てた高広が、窓を開けて叫ぶ。
「忍者かお前はっ!」
「うるさい!」
「また連絡するから!」
そこで信号が青に変わり、私が反撃する隙を与えず高広の車は発進し、みるみる小さくなっていった。
……なに?!負けた感じじゃん!悔しい!
何が悔しいって、半年も前に自然消滅したにも関わらず、『はっきり別れた訳じゃない』という高広の言葉に少し納得してしまった自分が悔しい!
音信不通は、別れたのと一緒!!
こんど会ったらバシッと言ってやる!
私は込み上げる怒りに任せて家までの道のりを男らしく闊歩した。




