最悪な再会
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「あのー………………真優ちゃん………………小さいやつでいいから………………棚買ってよー……棚ー」
「ダメですよぅ、橋本課長。今月は備品の予算使っちゃってゼロなんです」
私はニッコリ微笑んで、橋本課長の『オネダリ』を退けた。
設計課の橋本課長・推定年齢55歳。
とても穏やかな課長だ。けどね。穏やかだからって、喋るのが遅すぎる。
電話なんて、いつ会話が終了したのか分かったものじゃない。
彼にはいつも妙に長い『間』が存在していて、受話器を置くタイミングがまるで分からないのだ。
入社当時、そんな事知らなかった私は、社内電話の向こうから突然やって来た沈黙に、会話が終ったんだと思って受話器を置いて課に戻ったら、
「まだ…………話してたんだけどー……」
なんて言われて驚いた事がある。
それを聞いていた先輩の妹尾さんが、
「真優ちゃん、橋本課長と話すときはね、最後に『課長、もう電話切っていいですか?』ってちゃんと聞かなきゃダメよ」
という素晴らしいアドバイスをくれたことがある。
その遅すぎる橋本課長が、棚を買って欲しいと言うではないか。
ニッコリ笑顔で拒否したが、思わず眉が寄りそうになる。
だってそうでしょう?!
あんたのデスクがファイルであふれ返るのは、机の引き出しにデカイ枕をしまってるからでしょーがっ!
いつも課長は愛妻弁当を食べたあと、引き出しを開けて愛用の蕎麦枕を取り出すと、ヨッコラショとそれを乱雑なデスクに置き、グースカ眠るのだ。
「えー…………」
ちなみに、まだ棚の件の会話は終了していない。
「僕のデスク…………もうファイルおけないし……」
「課長、引き出しの一番下の、一番広いスペース何か入れてますか?」
枕が入ってるの知ってるけど!
「ここにはー…………まくらー……」
ガクッ。
正直者には違いないでしょうけど……。
その時、
「課長、枕なんかそんなトコ入れるからファイルが入んないんだろ!?枕なんか捨てろよ」
用事でオフィスに来ていた私と同じ生産技術課の石井君(23歳)が、ピシャリと課長に言ってのける。
なんと恐ろしい男なんだ。
「真優ちゃんもハッキリ言っていいんだよ」
よくねえよっ!そんな事したら、今までの苦労が水の泡だ。
『社内では いつもニコニコ 愛想よく』
これが私の座右の銘だ、下手な俳句みたいだけど。
ヒラの分際で、設計課の課長に暴言吐く石井君が怖いわ。
ちなみに年下だというのに、何故か私をちゃん付けで呼ぶというね。
私は石井君にニッコリと笑うと、課長に視線を移して口を開いた。
「来月、予算が余ったら考えましょうね、課長」
橋本課長は、私の言葉に顔を綻ばせた。
「真優ちゃんはー……優しいね…………」
「真優ちゃん、課長に付き合ってたら日が暮れるよ?仕事に戻りな。そういや、生産管理課の前田さんが呼んでたし」
しまった、忘れてた。二時に測定結果の用紙を取りに行く約束だった。
「すみません!じゃあ橋本課長、失礼します」
「まーたーねー……」
幽霊かアンタは。いや、課長だけど。
気を取り直して、安全靴に揉みくちゃにされた自分のローファーを引き寄せて履くと、私は飾り気のない設計課のドアを開けて廊下に出た。
はあー、疲れる。
私は生産技術課所属だ。
けど、技術課に加え、生産管理課と設計課の事務を兼任している。
大体、三つの課に事務員が二人しかいないのがおかしいんだと思う。
私は首を左右に傾け、バキバキと鳴らしながら廊下を足早に進んだ。
「失礼します」
生産管理課のドアを開けると、前田さんが三次元測定機の前で待っていた。しかも仁王立ち。
「五分遅刻!俺、二時って言ったよね?」
そんなの、何もかもスローペースな橋本課長に言いなさいよっ!
思わず眉間に皺が寄りそうになって、私は落ち着こうと大きく息を吸い込んだ。だめ!笑顔よ、笑顔。
「前田さん、ごめんなさい」
私が両手を合わせてキュッと眉を寄せると、前田さんはたちまち苦笑した。
「園田さんに可愛く謝られるとどうしようもないな」
「その代わり、急いで品質管理課にデータ渡してきます。あ、総務に伝票取りに行きますけど何か用事はありますか?」
そう言った私を見下ろして、前田さんが唇を引き結んだ。
ん?
「あの、前田さん?」
「あ?ああ。大丈夫」
「じゃあ、もしよければ後で測定値のデータ入力お手伝いします」
私がニッコリわらってそう言うと、前田さんも笑った。
「じゃあ、お願いするよ、後でね」
「はい!」
あー、助かったあ!許してもらえた……。
何を隠そう、前田さんは社内でもわりと恐れられている存在である。
自分の仕事に絶対の自信があり、他人の指摘に耳を貸さないのだ。
それを男らしいと取るか否かは人それぞれだろうけど、実は……私は少し苦手だったりするんだよな……。
だって、やっぱり怖いんだもん、前田さん。
***
「大体、私は生産技術課ですよっ?!何で生産管理課と設計課の事務仕事しなきゃなんないんですかっ?!」
私はお隣の生産管理課の先輩である妹尾さんに毒ついて、モスコミュールをあおった。
場所は駅前の地下にあるとあるショットバー。
「まあまあ……あれよ、三課に事務員が一人ずつだと仕事が足りないし、逆に一人だと絶対人員が足りないじゃない?だから、ふたりで三課を受け持つっていうね」
妹尾さんは血走った私の眼が怖いのか、凍りついた笑顔で私を慰めた。
「まあまあ、真優ちゃん、そんな四谷怪談みたいな顔しないでさ」
……四谷怪談みたいな顔……?どういう意味?!
「とにかくっ!兼任させるなら壁ぶち破って三課を完全にワンフロアにしてもらいたいです。わざわざオフィスを出て、廊下歩いてドア開けてまたオフィスに入るってのが面倒で仕方ない」
……無理なのはわかってるけどさ。だって、パーテーションじゃなく、普通の部屋だし。
「無理じゃないよ」
……は?
急に背後から男性の声がして、私と妹尾さんはビクッと肩を震わせた。
「秋彦……!」
秋彦?誰ですか、それ……。
なんて思いながら後ろを振り返った私は、大きく息を飲んだ。
それからもう一度前を向き、カウンターのモスコミュールをガブガブと飲み干す。
……私の眼が近視でも乱視でもなけりゃ、後ろの男はどう見てもうちの社長に見えるのだけど。
私はガツンと妹尾さんに肘鉄を食らわせ、彼女の気を自分に向けた。
「痛いわよ、真優ちゃん」
「それより妹尾さん。……秋彦が凄く社長に見えますが」
倒れるように身を寄せ、妹尾さんの耳に小声でこう言うと、彼女はクスッと笑って悪戯っ子のような瞳で私を見た。
「秋彦は、社長だよ」
「マジで!?」
「うん」
ということは何?!
妹尾さんは、私達の勤める会社、源川コーポレーションの社長と知り合いだと。
その時、再び背後の秋彦が明るい声を出した。
「どうも、社長の秋彦ですぅ。真優ちゃん、いつも俺の婚約者がお世話になってます」
……なんだって?!こ、こ、婚約者!
源川コーポレーションの若社長、源川秋彦が、婚約者!
信じられない。
源川秋彦と言えば一年前に先代の社長が会長に就任すると共に社長を引き継いだ長身のイケメンで、わが社の中でもファンが多い。
一体いつの間に、妹尾さんと……。
確かに、妹尾さんは私に『近々、真優ちゃんに話があるの』なんて言っていたけど、まさかこの事……?
「あの、妹尾さん……」
「ま、真優ちゃん、瞳孔が開ききってる……」
そんな私達の後ろで、婚約者で秋彦で社長でもある彼が笑いながらこう言った。
「ここじゃなんだからさ、二人ともこっちきなよ。奥のVIPルーム。一緒に飲もうよ」
嘘でしょ、嫌だ。
「い、いえ、私は結構です。帰ります」
だって、妹尾さんとは仲良くさせてもらってるけど社長なんて、月二の朝礼時にはるか彼方で挨拶している姿しか見たことないし、社内でも見掛けたためしがない。
従って話した事もないし、何と言っても気まずいのが凄く嫌だ。
これ以上引き留められる前に帰らないと。
「妹尾さん、私今日はもう帰ります。今日はおごらせてください。じゃあ、また週明け……」
私は言うや否や、脚の長いスツールから慌てて立ち上がるとバッグを肩に掛けた。
「え、まだ来たとこ……じゃあ、やっぱり私達はこのままここで」
「いえ!妹尾さんは社長といてください。私あの、シーラカンスにご飯あげないとですし」
「えっ!!真優ちゃんシーラカンス飼ってんの?!」
秋彦……じゃなくて社長が驚いて声をあげた。
「そうなんです、うははははは!」
嘘だけどな!言い間違えただけで、アロワナだけどな!
シーラカンスなんて、ワシントン条約とかで飼えないでしょ。条約関係なく飼わないけど。
先週、兄が海外に転勤になった為に水槽ごと我が家にやってきのは確か、アロワナだった。
でも今は、シーラカンスでもアロワナでも構うもんか。
とにかく帰りたい。
「じゃあ妹尾さん、社長、失礼します」
二人にペコリと頭を下げて、狭い通路の先を急いだ矢先、反対側から背の高い男性の姿が見えた。多分今来た客だろう。
「おい、慶太。そのコ確保して」
へ?
「あ?ああ」
はっ?
目一杯壁に貼り付きすれ違う男性をやり過ごそうとしていた私は、社長のその一言で私の腕を掴んだ男性を驚いて見上げた。
その時の衝撃といったら。
見覚えのあるその男性の顔に、私は心臓をグイッと掴み上げられたような感覚を覚えた。
「……っ!」
「あ……」
なんでっ!?
瞬間冷凍されたように硬直する私を見て、腕を掴んだままの男性が小さく呟いた。
「噴水の……」
たちまち、あの噴水の中でキスをした情景が脳裏に蘇った。
「慶太、ナイスタイミングだ。グッジョブ!」
社長の嬉しげな声が、やはり間違いではないと語る。
慶太。
ああ。
二度と会うことはないと思っていたのに、こんな風に出会うなんて。
「ほら、真優ちゃん、俺達だけじゃなくて俺の友達もいるからさ、気兼ねしなくていいんだよ。しかも今日はね、こいつの面白い話を聞く予定なんだ。なんでも、飲み会で知り合った女の子に噴水に突き落とされたらしくてさ。面白そうでしょ」
面白くない、全然面白くない。
私は篠宮慶太から眼をそらすと、観念して両目を閉じた。
****
……五分後。
いまだに私はショットバーから抜け出せずにいた。
完全個室のVIPルームにいるのは、社長と妹尾さん、それに私と篠宮慶太。
「慶太、こちらはうちで働いてくれている園田真優ちゃん」
「は、初めまして!園田真優と申します」
知ってるよ、なんて言われた暁には、私が噴水に突き落としたのがバレるかも知れない。
私は社長の言葉が終わらないうちに篠宮慶太にニッコリ微笑むと、ペコリと頭を下げた。
それから、まるで笑っていない眼を彼に向けると、誰にも気づかれる事なく無言の圧力で言動を制する。
「…………」
「……初めまして」
ホッ。
空気は読めるんだな、一応。
「真優ちゃん、こいつは俺の大学時代からの親友で篠宮慶太。都内で製作の仕事を一部手伝ってもらってるんだ」
「そうですか……」
わが社は、設計の段階から製作を請け負う、言わば物作りの会社である。キッチン用品から自動車部品まで幅広く依頼主のニーズに対応していて中でも製造部の鋳造技術……いわゆるアルミダイキャスト技術はなかなかのもので、世界各国の企業からわが社に研修にくる人間は後を絶たない。
なんでも、うちの会社で研修期間を経た世界各国の会社員は、国に戻るとエリート街道まっしぐらだとか。
「製作って、具体的には何を?」
妹尾さんが、篠宮慶太ににこやかに問うと、彼は静かに口を開いた。
「源川コーポレーションからいただく図面から、機械の加工経路を作成させていただく事もありますし、金型の図面を描かせて頂く事もあります。また、依頼主の漠然としたデザインから、正確な図面を興して設計させて頂く場合もあって大変勉強させて頂いてます」
「へぇ……」
妹尾さんが少し眉を上げて頷き、何故か私を意味ありげに見つめた。
な、んですかっ。
『素敵な人じゃない!気に入ったんじゃない?』
まるでこう言いたげな表情だ。
……確かに今晩の篠宮慶太は、ネクタイこそしていないが、オシャレなシャツと質のよいパンツスタイルがとても様になっている。
「こいつの会社……株式会社デザインタフは、スゲーんだよ。世界中に存在する全てのものを作ることが出来る」
源川社長がそう言うと、篠宮慶太が決まり悪そうにグラスに口をつけた。
「お前は大袈裟なんだよ」
「ははは。それぐらい凄いって言いたいんだよ」
胸が僅かに重くなった。
……いいよね、充実してるんだ、きっと。好きな仕事で生きてるんだろうな。社長にしても、篠宮慶太にしても。
何だかんだ小さな不満はあるものの、妹尾さんも事務の仕事が好きだって言ってたし。
でも……私は……私はそうじゃない。
今の自分の仕事が、本当は好きじゃない。
私がこの源川コーポレーションを就職先に選んだのは、設計の仕事がしたかったからだ。
設計課を希望していたにも関わらず、事務員の人材不足を理由に設計者として雇ってはもらえなかった。
だから私には、仕事に対する情熱などないし、誰かがこんな風に生き生きと仕事の話をしていると、正直居心地が悪い。
「おっと、女子の前で退屈な話はここまでだ。なあ、慶太。お前の家にあったハイヒールの主の話、詳しく教えてくれる約束だろ?!さあ、話せ!」
ぎっくぅ!
その話はダメでしょう!!
私は静かに篠宮慶太を見据えた。
それに、なに?!私が噴水に突き落とした話を、酒の肴にしようとしてたなんて!男のクセに、最低!
「そう言えば、女の子に噴水に突き落とされたって……どうして?」
妹尾さんが不思議そうな顔をして、篠宮慶太を見つめた。
もう、無理!ここにいるの、無理!
「わ、私そろそろシーラカンスのところに戻ります!じゃあ、あの、おやすみなさい」
「えっ、真優ちゃん」
「兄から預かってるシーラカンスが死ぬとまずいので!失礼します」
私はガバッと頭を下げてVIPルームの重厚なドアを開けると、早足で店を後にした。
……代金は週明けに妹尾さんにお支払しよう。
外に出て地下から抜け出すと、爽やかな風に顔を撫でられホッとする。
それと同時にクラッと頭が揺れた。
あれ?この、目眩のような感覚はもしかして……ヤバイヤツなんじゃない?
クラクラするし、ムカムカする。
やだ、嘘でしょ。ムカムカするほど飲んでない。
私はお酒に強い方だし、こんなのありえない。
もしかして、風邪気味なのにアルコールを摂取したのがいけなかったとか?
うわ、マジでヤバイ。
ここから家までは、バスでも15分はかかる。
しかもこのムカムカ加減じゃとてもじゃないけどバスになんか乗っていられない。
最悪だ……。
私は仕方なく歩道の脇の花壇に腰を下ろすと、ハアッと溜め息をついた。直後にグラグラとムカムカの第二波が私を襲う。
ダメだ……ダメ。
誰かに頭をグイ-ンと突かれたような感覚がして、私はとうとう花壇から崩れ落ちた。
……はずが、全然痛くなかった。
「大丈夫かよ……」
「あ、あのすみません、風邪気味なのにお酒飲んじゃって……恥ずかしい……ご迷惑かけてす」
慌てた様子で屈み込み、私の体を地面から庇おうとしてくれたた男性に、こう言いかけて息を飲んだ。
何故にっ?!なんでまた、篠宮慶太……。
「立てる?……立てないか」
私は咄嗟にブンブンと首を振った。途端に激しい目眩が襲う。
「……大丈夫。立てる。ひとりで立てるし大丈夫。ひとりで帰る。シーラカンスとこ帰る」
「……何がシーラカンスだよ。よっと!」
急に身体がフワリと浮いて、多分だけど……その瞬間に篠宮慶太の香りがした。
「な、うわっ、きゃあっ!」
「俺の首に腕回して掴まってて」
大通りからいく本も中に入った通路とはいえ、ロータリーに続く道路に面しているこの通りは人通りが激しい。
「やだ、離して。こんなところでお姫様抱っこなんて、恥ずかしい」
「道端で倒れてる方がどうかと思うけど」
それは……そうかも知れないけど……。
「家、どこ?」
「家?!」
……待って。家なんて教えたくない。
この期に及んで家を教えたくないとかなんか変かも知れないけど、家は教えたくない。
「家どこ?」
「……えっと……さあー」
「…………」
さあー……と言った私を篠宮慶太は一瞬真顔で見た後、あからさまに大きく息をつくと私を抱えたまま歩き出した。
どこに行く気なんだろう。
もしかして特殊能力で私の家が判ったとか!?まさかね、エスパーでもあるまいし。
斜め上にある篠宮慶太の顔は真っ直ぐ前を向いていて今はもう、私なんて一ミリも見ていない。
……しかし綺麗な顔だな。綺麗だからって別に中性的な訳じゃない。
むしろ男らしい顔つきだけど、ひとつひとつのパーツが整っていてバランスよく収まっていて……。
中でも眉の形と涼しげな眼がとても……。あ、口も、口も綺麗。
薄すぎない唇が素敵……。
それにしても、一体どこに……。
篠宮慶太の一歩一歩の振動が、心地好い。
はあー……グー……。