月下のキス
「俺だってキミみたいな女が来るって分かってたら、ここにいないよ」
その言葉が耳に届いた途端、暑いのか、寒いのか分からなくなった。
いや、確か残暑なわりに朝夕は爽やかで、実際はどちらでもなかったけれど。
というか……なんですって?
女性に対して、そういう言い方はないでしょう?
私、園田真優は、かなり上からこちらを見下ろす男性の無駄に整った顔を見て、驚きのあまり息を飲んだ。
この二時間前。
****
駅の東口から程近い洋風居酒屋で、私は目の前に座る二名の男性にニッコリと微笑んだ。
ドアのある完全個室の空間には甘い蜂蜜色の照明が揺らめき、椅子の背もたれに施された透かし模様が、壁に繊細な絵を描き出している。
私はその空いた一脚の椅子を見つめながら、今夜の飲み会の主催者で、高校時代の親友である池田瞳の耳に口を寄せた。
「一人男が足りないけど」
「ホント。なんで?」
女性は私、瞳、恵里の三人に対し、男性が二名しかいない。
そのうちのひとり、瞳の彼氏である佐田君を外すと、狙える男性が一人しかいないわけで。
私と恵里の鋭い眼差しに、佐田君がニッコリと微笑んだ。
「ごめん、一人遅れてるけど、必ず来るから」
来てもらわないと困る。
だって既に到着している男性、勿論瞳の彼である佐田君じゃない方(後に有賀さんと判明)は、どうやら恵里狙いだ。
視線でわかるし予想はしていた。
なんてったって恵里は柔和で優しく、可愛らしい印象だ。
童顔で背も高くなく、男性からすれば守りたくなるようなタイプなのだ。
一方私と言えば……自分では良く分からないけれど、恵里のように柔らかい雰囲気を持っていないのは確かで。
自己紹介も終わり、ワインとメインの肉料理が到着しても、もう一人の男性は姿を現さなかった。
アルコールが入るにつれ、疎外感がハンパない。
ああ、来るんじゃなかった。
そんな私を察してか、有賀さんが申し訳なさそうに私に口を開いた。
「園田さん、食べてますか?ワイン、注ぎましょうか?」
有賀さんは都内でデザイン会社を立ち上げた起業家だそうだ。
話によると、某有名ヒューマンヘルスケア会社との契約に成功し、経営も順調らしい。
年齢は三十歳。背も高くないしめちゃくちゃイケメンって訳ではないけど人好きのする印象で、何よりとても優しそうな男性だ。
うん、恵里にぴったりだ。
「ああ、ワインの味が合わないなら、もう少し甘いのをオーダーするよ?」
優しい。本当に優しい。
けど、これ以上甘いワインなんて飲めない。
最初からフルボディの辛口が良かった。ううん本当は、白の辛口が好み。けど、あれよ。
『和牛に白ワイン?!』
なんて言われたくなかった。
正直に言えば私は、肉だろうがなんだろうが白ワインで食べたいのだ。
いや、違う。本当はワインなんて興味ない。酒はビールかハイボールが好き。
それに、本当はこんな夜遅くに肉なんて食べない。
けれど今日という日に少し期待していた私は、自分を押し殺してここに来たのだ。
ああ、なのに。
「あの、園田さん?」
あっ、しまった。 話しかけられていたのをすっかり忘れていた。
「お気遣いありがとうございます。このワイン美味しいですね。お肉も最高」
フワリと微笑んで有賀さんを見上げると、彼はホッとしたように顔をほころばせた。
「良かった」
……よくないわ。
その時、ドアが静かに開き、一人の男性が姿を現した。
「慶太おせえよっ」
佐田君に慶太と呼ばれた男性が部屋を見回して少し頭を下げた。
「悪い、トラブル発生で」
低くて静かな声で彼がそう言うと、
「いいから座れよ」
有賀さんに促され、慶太とやらは私の真正面に腰を下ろした。
途端にバチッと眼が合う。
長身のわりに座るとそれを感じさせないのは、足が長い証拠なのか。
中高で品の良い顔立ちが、かなり眼を引く。
切り込んだような二重の眼や、清潔そうな口元、男らしい首から肩にかけてのラインがなんとも男の色気を感じさせる。
「慶太、自己紹介しろ!」
佐田君がそう言うと、慶太とやらはニコリともせずに頭を下げた。
「篠宮慶太です。遅れてすみません」
有賀さんが呆れたように笑った。
「それだけ?慶太らしいけど」
瞳が私の方に身体を傾けて少し仰け反ると、耳元で呟いた。
「超絶イケメン。良かったね」
全然よくない!
確かに慶太……篠宮慶太はとても綺麗な顔立ちをしている。
けど許せない。なんで?どうして一時間も遅れてくるの?
そして、どうして作業服?!
そう、篠宮慶太は、この大人的ムーディな空間にまるでそぐわない出で立ちでやって来たのだ。
……上半身は白いTシャツ、下は薄いグレーのストレートパンツ。どこからどう見ても作業服だ。
なに?配送業?清掃員?それともどこかの会社の一従業員?建築関係の職人?
私の視線を感じてか、彼が再び私を見た。それも真っ直ぐ。
有賀さんはそんな篠宮慶太の様子に何を勘違いしたのか、
「慶太!園田さんが美人だからって見つめすぎだろ。遅れてきた分、ちゃんと話せよ」
結構です、こんな人。
時間にルーズ、場違いな服装の男とはなにも始まらない。
「ちょっと、外の空気でも吸ってきますぅ」
右隣の瞳にボソリと呟き、そのまま左側のドアから外に消えた私に、はたして有賀さんは気付いただろうか。いや、気づくまい。
彼も佐田君共々、漸く到着した篠宮慶太に私が気を良くしたと勘違いし、心置きなく意中の女子と楽しく飲めると安心していることだろう。
店の中は洋風居酒屋らしく、ほどよい賑わいを見せている。
私は化粧室を出た後、スマホを取り出した。
『飲み会どう?イイ男、いた?』
会社の同僚で、総務課の南ちゃんからLINEがきていた。
だめ。
無駄な時間を過ごした憤りを、文字じゃなくて肉声で伝えたい。
「もしもし、最低」
私は広い通路に置かれた観葉植物と向かい合うと、南ちゃんに悲劇を伝えた。
まだまだ言い足りなかったがこのまま喋り続けることもできず、私が部屋に戻るとみな相変わらず盛り上がっていた。
作業服の篠宮慶太も、適当にワインを飲んで談笑している。
私はチラリとその笑顔を盗み見した。
……セクシーだ、確かに。切れ長の目元に、僅かに甘く滲むような微笑みがゾクゾクする。
だが作業服!
佐田君は家業をついで次期社長だし、有賀さんだって起業年数は浅いがなかなかの有望株。
それに引き換え……目の前の作業服は、どうよ。
絶対に社長じゃないと思う。
いや、誰も社長としか付き合いたくないとか、そんなんじゃない。
でも嫌。ダサい男は嫌なのよ。
「そろそろお時間でーす」
若いスタッフの声が私の心を掬い上げる。
助かった、もう帰りたい。
会計を済ませて店を出たところで、佐田君が瞳の肩を抱きながら私と一番後ろにいた篠宮慶太を交互に見た。
「慶太、恵里ちゃんは有賀が送るから、お前は真優ちゃんを頼んだぞ。じゃあな」
「じゃね、真優。また連絡するから」
「近々ランチしようね」
早くお互いのパートナーと二人きりになりたいのか、私と篠宮慶太を残して彼らは去っていった。
気まず……。
どうしていいか分からず、通りを行き交う車に視線を送っていると、
「家、どこ?」
抑揚のない声が、私のテンションを更に下げる。
けれど、私はこの上ない極上の笑顔で彼を見上げた。
だってもう二度と会うことはないもの。
とびきりの笑顔は自分の印象を悪くしない為と、作業服へのプレゼントということで。
「大丈夫です。私、このすぐ近くに住んでますから一人で帰れます」
私がそう言って頭を下げようとした時、
「遅れたのも作業服なのも、謝るよ。だけど」
彼はそこで言葉を切ると、私の顔を真っ直ぐに見下ろして再び口を開いた。
「俺だってキミみたいな女が来るって分かってたら、ここにいないよ」
****
そして現在。
眼の前の作業服は、こう言っているのだ。
最初から、私みたいな女だって分かってたら来なかった、と。
どうやら南ちゃんに不満をぶつける私の会話を、篠宮慶太は聞いていたらしかった。
きっと他の男性二名に、部屋を出ていった私を気遣うように言われ、後を追った結果、スマホを耳に当てながら毒ついていた私を発見したのだろう。
けどね。どっちが悪いのよ。時間には遅れるわ、服装は作業服だし。
それを、棚のいっちばん上に上げて、よくもこんな失礼な言葉を……。
作業服男は怒りを顕にするわけでもなく、淡々とそう言った後、私を見つめている。
私はというと……きっと呆気に取られたのは一瞬で、彼が言い終えた数秒後には、怒りのあまり眉間にシワが寄ったに違いない。
「女性に対して、失礼だと思わないの?」
「お互い様だと思うけど」
「私はこの日に合わせて仕事だって調整したのよ。トラブル発生なんて、あなたの仕事に対する姿勢がなってなかったんじゃないの?」
甘ったるいワインで悪酔いしたのか、もう会うこともない相手に腹立たしい事を言われたからなのかは定かではないけど、私は敢然と言い返した。
予想外の私の暴言に驚いたのか、彼は一瞬眼を大きく見開いた。
「それに作業服なんて、初めて会う相手に対して配慮がなさすぎる」
真っ直ぐに彼を見据えてそう言うと、篠宮慶太は唇を引き結んだまま私を見つめた。
「とにかく、もう二度とお会いすることもありませんけどお元気で」
もう、あと一言ですら言葉を交わしたくない。
私は彼の横をすり抜けると、二車線の道を横断しようと左右を確かめた。
「おい、危な……」
篠宮慶太が咄嗟にそう言ったけど、私はスルーした。
心配ご無用!
中央にある分離帯で反対車線の車の流れを確かめると、私はダッシュで道を渡りきった。
そしてそのまま歩道をそれて、公園へと歩を進める。
あー、気分悪い!最低!
なんで私がこんな不愉快なめに遭わなきゃいけないのよ。
その時、公園の噴水がゆっくりとライトアップされた。
淡い光が吹き上がる水を彩り始めて、私は思わず足を止めた。
普段なら横目で見ながら通りすぎ、足を止めることもない。
なのにこの日に限って私は、フラフラと噴水に近づいた。
今まで気にしたことなどなかったけれど、噴水の際に立って下を見ると、水面がハイヒールの爪先間際まで迫っていた。
へえ、わりとギリギリまで水があるんだ……。
この綺麗な噴水を眺めたら少しは腹立たしさが癒えるだろうか。
美しいものを見たら、さっきの出来事なんて取るに足らないワンシーンだと心が静まるだろうか。
その時急に声がした。
「送るって言っただろ。この公園の北側の出入り口は木で陰になってて、女性がたびたび襲われてるんだ。犯人はまだ捕まってない」
噴水の音で足音に気づかず、急に腕を掴まれた私は腕の主を振り返り、ビクッと反射的に仰け反った。
それと同時に、かくん、と左足に変な感覚が広がる。
あ、れ。
「危な……」
「きゃああっ」
血相を変えた篠宮慶太の顔が、ライトでやけにはっきり見えた。
私を引き寄せた腕も、固い胸も。
柑橘系の爽やかな匂いと温かい篠宮慶太の身体を間近に感じて、私は息を飲んだ。なんでこうなるの。
しかも、モロしっかりと抱き締められて、私の胸が彼の身体に当たっている。
胸が、初対面の男に。
胸が。胸がっ!
カアアッと全身が熱くなり、私は頭の血管がキレそうな気がした。
だから私、一人で帰れるって言ったじゃない!
それをなに!?勝手に追い掛けてきて、急に腕を掴むなんて、驚くに決まってるじゃない!
それに私、噴水の際に立ってたんだよ?!驚いた私が噴水の中に落ちちゃうかもとか、どうして想定出来ないのよ!
噴水に落ちるのを助けてくれたかも知れないけど、その元凶はこの作業服のせいで、私が自分で落ちようとしたわけでも抱き締められたかったわけでもない。
なのにこんなに密着して、胸まで……!許せない!
噴水に背を向けて私を胸に抱く篠宮慶太に果てしない怒りを覚えながら、私は口を開いた。
「離して」
少しもがくと、篠宮慶太は両腕を緩めた。
こんな男は大嫌いだ。
……こんな男に庇われるくらいなら、噴水に落ちてた方がマシ。
ううん、違う。
この作業服が来なかったら噴水に落ちそうになることも、抱き締められて胸の感覚知られる事もなかったのに。
「あ、えっと」
私から身を起こした篠宮慶太が、気まずそうに何か言おうとした。
もう我慢できない。
落ちてろ。落ちてしまえっ。
「うわあっ」
私はドン!と彼の胸を押すと、素早く一歩下がった。
噴水に人を突き落としたのは、当たり前だけれど生まれて初めてだ。
水深は浅いし、腹立たしかったために罪悪感はさほどなかった。
ざまあみろ。
……んっ?!
あ……れ……。
噴水の中の彼を見て、私は呼吸を忘れた。
清々した顔で作業服の顔を見下ろしてやるつもりだったのに、私は思わず小さく口を開けた。
嘘でしょ、なんか……あれ?
満月の光と宝石のような水の滴が降り注ぎ、それを受けながら佇む篠宮慶太に、私は不覚にも怯んだ。
なんて綺麗な男なんだろう。水も滴るいい男、まさにそれだった。
その時信じられないことが起きて、私はギクリとした。
噴水に落ちて私を見つめていた篠宮慶太が、素早く上がってきたのだ。
しかも、私の方に近付いてくる。
逃げることも出来ず、目の前までやって来た彼に成す術もなかった。
篠宮慶太はそんな私を見つめて、低く艶やかな声で言った。
「言っただろ、お互い様だって」
言い終えて、篠宮慶太が私の手を握った。
「なによ、離してっ」
一瞬だった。彼が私を噴水の中に引きずりこんだのは。
「きゃああっ、嘘ーっ!」
アッと言う間に全身が冷えていき、酔いも吹っ飛んだ。
驚きのあまり悲鳴の後の言葉が思い浮かばない。
なのに状況だけは、しっかりと眼に焼き付いていた。
少し黄みがかった銀の満月。パステルカラーの水しぶきと明るい外灯。
それに、篠宮慶太。
きらびやかな噴水が、まるで私と篠宮慶太を恋人か何かと勘違いしてるようだ。
こんなことは初めてで、私はポカンとして篠宮慶太を見上げた。
なにこれ。なにこの状況。
その時、篠宮慶太が私を見つめてクスリと笑った。
それから握ったままの手を引き寄せると、自分の身体に私を押し付けた。
ゆっくり、それでいて優しく。
「……寒くない?」
寒くないと答えたら、彼は私を離すだろうか。
じゃあ……寒いと答えたら?
男らしい眉の下の、涼やかな眼から視線が外せない。確か……彼の瞳は栗色だったように思うけど……。
なにも言えずただ一心に見つめることしか出来ない私を見下ろして、何故か篠宮慶太は形の良い唇を僅かに開いた。
その唇が、私の眼を捉えて離さなくて。
「……っ」
唇に広がる柔らかな感覚に、火花が飛んだ。
端正な篠宮慶太の顔が、ゆっくりと傾いた時から予感していたクセに、動けなかった。
彼が私にしたキスに、動けなくなったのだ。
直後に噴水のライトアップが終わる。
たちまち現実に引き戻された私の脳裏に魔法が解けたシンデレラの話が蘇った。
魔法が……解けた……。
「ば、ばかーっ!!!」
「ってぇ!」
持っていたハンドバッグでバコッと篠宮慶太をブッ叩くと、私は噴水から飛び出して公園を走った。
信じられない!キスしたじゃん!
しかも、大人になってから服のまま水に入るなんて。
公園を抜けたら自宅であるマンションは目の前だ。
私は震える手でバッグから鍵を取り出すと、エントランスへと向かった。そこでようやく、ハイヒールが無いことに気付く。
片方なら自分をシンデレラと重ね合わせたかも知れない。
けれど。
「両方脱げてるし!!」
自分の汚い足に目眩がした。
****
翌日。
「あり得なくない?!もう、ホントに時間の無駄だった!しかも、頭痛いし悪寒がする!」
会社の向かい側にある丼専門店で、同期で総務課の南ちゃんに毒ついた私は、グラスの水をイッキ飲みして息をついた。
「けど、カッコ良かったんでしょ?ならいーじゃん。しかもあんた、頭痛いわりにカツ丼大盛り食ってるし」
「よくないよ。女性にあんな事言うなんて、最悪じゃん。カツ丼大盛りは、引き始めの風邪を撃退するため」
私の膨れっ面を横目で見たのか、南ちゃんが少し溜め息をついた。
「まあ、そのイケメンもアクシデントで飲み会に遅れたんでしょ?着替える暇を惜しんで駆けつけたと思えばいーじゃん」
大事そうに湯呑みを口に運ぶ南ちゃんに、私は大袈裟な咳払いをした。
「そうだとしても、私をヤな女扱いしたのが許せない」
「で、噴水に突き落としたんだ」
「あーゆー男は噴水に落としてもいいんです」
「で、キスしたんだ」
「自分でしたんじゃないよっ!されたんです!」
すると南ちゃんは財布を手にしながらニヤリと笑った。
「面白くなりそうね。これからどーなるか、逐一報告してね」
「楽しむの?!私のこの状況を!」
ワクワクするといった風に私の瞳を覗き込む南ちゃんに呆れながら、ハアとため息をついた。
あの靴……。お気に入りだったハイヒールが……。
ダメだ。今月はもう、大好きなブランド『YUMEKI』のハイヒールを買えるだけのお金がない。
かといって、あの篠宮慶太が私のハイヒールを預かってくれているわけもないだろうし。
たとえ預かってくれていたとしても、あんな事がありながらノコノコ取りに行けないし。
「あああっ!」
モヤモヤの挙げ句イライラして低く叫んだ私を、隣の席の男性客が張り付いたように見てきたけれど、どうでもよかった。
「悩ましい声出さないでよ。隣の客が欲情するわよ」
「南ちゃん、笑えない。私の靴ぅ……」
店を出て社に帰りながらも、私の溜め息はやむことがなかった。