桜の花の下で3
「よし、これにしよう」
手に取ったのは花の柄の入ったマグカップ。
あの日王城を覆った幻の桜を皆が見たらしい。
火狐であるイキシュさんの能力は本当に凄いものだった。
それから淡いピンク色の花の製品がこの国には増えた。
街中ちょっとした桜ブームだ。
あの日、桜の下で号泣してから私は少しだけすっきりした。
胸のつかえが全て取れるなんて都合のいいことはなかったけれど、封印していた向こうへの想いを見つめなおしたら少しだけ、本当に少しだけ、心が軽くなった。
ごめんなさいと言えたから。
今は向こうの大切な人たちを時の流れがすべてを癒すことを望むだけだ。
きっと近いうちに両親には孫が産まれるから。
私が引き取る約束をしていた保護猫のニャー太はまだ若いメスだから、実家にいったらもしかしたら子供を産むかもしれない。
会社では新しい社員が私の席を埋めるだろうし、結婚した友達には子供だってできるだろう。
そうして皆が日々の煩雑さの中で、すこしづつ私を忘れていってくれればいい。
今はそう思うことにした。
それから私は街で見つけた大きな薄紅色の貝殻を切り出してお守りを作った。
薄いのにとても硬いその貝殻の加工は難しく、そのため繊細なデザインは難しいと断られてしまったけれど、悔しいので補助魔術が刻まれている彫刻刀もどきを自分で作った。
お守り1号君はそれなりの出来だったけれど、2号、3号と彫り進める頃にはすっかり職人顔負けのクオリティになった。こんなところで日本人の手先の器用さが発揮されるとは…と、ちょっとだけ笑った。
出来上がった桜のお守りは小さな袋にいれてあの日そばにいてくれた皆に渡した。
それから厨房の皆にも。
皆はとても喜んでくれた。
そして、私を優しく撫でたり抱き締めたりしてくれた。
それは行く宛のない子供に対する優しさのようで、子供のように泣き叫んだこともあり、少しだけ気恥ずかしい気持ちになった。
相変わらずこの国の人達は底抜けに優しい。
あの日、ライオン男もアアカさんもいたらしい。
少し離れていた場所で私をみていたと。
全ての元凶となった二人は私の涙に何か思うところがあったのか、あれ以降顔を見せることはなかった。
サトゥナ殿下のどや顔も、アアカさんの控え目な笑い方も見ないことに少しだけ寂しいと思う自分に苦笑しながら、ふたりの分も貝殻を削った。
そのうち、渡せる日がくるだろうから。
貝殻の最後のひとつは作っているレシピ本の最後のページに張り付けた。
もしかしたらいつかこの世界に来るかもしれない同郷の人間のために。
食べていいもの、食べてはいけないもの、おいしもの、食文化や風習、そういったものを残している。
私は、私という日本人がいた形跡を残すことにしたのだ。
だって、この世界には奇跡があるから。
誂えたように運命的な出会いがあるから。きっといつか、同郷の誰かの助けになるだろうって。
そうしてようやく私は…
この異世界に私がいた証拠を刻むことを自分に許した。
昨日も厨房で使いこんで馴染むようになった包丁片手に下準備をした。
私しか使わない踏み台にのってお皿を洗った。
今日は買ったばかりの新しいマグカップを持って厨房の皆と美味しいお茶を飲む。
もしかしたらそこにヤラールさんとイキシュさんも来るかもしれない。
そうやって…
私はこれから変わらない毎日を異世界で過ごしていく。