窓辺の猫 上
アアカ×主人公
出番があんまり無かったんですけど…こんな人でしたって話です。
最近、陛下は脱走癖が酷くなった。
アアカはため息をつきながら無人の執務室の奥の扉をあけた。
執務室の控えの間の一番奥の窓から外を覗く。
そこには休憩中に歌う彼女と、その歌声を木の影から隠れて聞いている陛下の姿が見えた。
陛下は僅かな時間があれば番の様子を見に行っている。
声もかけずに遠くから見ていることもあれば、声をかけて肩を落として帰ってくることもある。
甘い彼女の香りと共に。
ここからは、彼女がよく休憩時間を過ごしている、寂れた庭園の一角が見える。
そのことに気づいたのはもうずいぶんと前のこと。
彼女の休憩時間に合わせて、この部屋のカーテンの影で隠れるようにその歌声を聞くようになったのも。
彼女がこの国に来たあの日、彼女を見たとき、身体に雷がおちたかのような衝撃をうけた。
まだ魔術の制御が未熟者だった頃に、雷属性の魔術を発動し損ねた時以来の衝撃だった。
その衝撃に陛下に罵倒され、寄る辺なく震えるその姿を護ることも出来ずただ立ち尽くした。
この恋は実らない。
彼女を一目みて、恋に落ち、そして同じ瞬間に本能がそう告げるた。
陛下の番に恋をするなど…不敬にもほどがある。
動揺を隠したまま彼女に部屋を与え、荒ぶる陛下を宥めた。
その後、再び彼女に話をしに部屋を訪れると…先ほどまで彼女に付着していた雄の臭いは薄まり、代わりに彼女本来の甘い香りが部屋に満ちていた。
その香りは私の理性を酷くかきむしるため、鼻を抑えながら話をすることになってしまった。
おそらく私はひどい顔をしていたのだろう、彼女を傷つけてしまったのは解っていたが…それに構えるほど私に余裕はなかった。
彼女の部屋を去った後、私は急ぎ発動した魔術陣を確認することにした。
何かの間違いで、私の番を呼んでしまったのではないかと…淡い期待を抱いたのだ。
けれど、そこには一字一句違うことなく陛下の御名が刻まれていた。
そして…私は気付いた己の過失に声にならぬ悲鳴をあげた。
彼女を召喚する前に陛下と酌み交わしていた酔いがザアッと醒めていった。
甘く、苦い恋の余韻も。
『陛下の魂の片割れが、今は側に居なくとも、その魂は何処かに必ず居る筈です。それはまだ見ぬ未来か、過去か。ならば、その障害となる時の壁を越えさせればいいではないですか。』
会えぬ番に嘆き、夜毎酒に溺れる陛下に進言したのは数刻前のこと。
酔っていたのだ、酒に。
そして何より、当代一と言われる魔術師の称号に。
私に出来ぬものなどなにひとつないと…傲っていたのだ。
時を越えて呼び寄せた彼女は、陛下の番でもあったが、同時に私の番でもあった。
番を召喚することは推奨されていない。
禁止されてはいないけれど、良しともされてはいなかった。本来あるべき流れを狂わせることもさることながら、番の環境を大きく変え、負担を強いたことを召喚した側も一生涯後悔するからだ…とは聞いていた。
だが、相手は陛下だ。この国の王だ賢王と称えられるサトゥナ陛下ならば、喜びこそすれ、後悔することなどないだろう、そう本気で思っていた。
けれど、事態はもっと深刻で彼女を中心に歪む魔力の流れは、彼女が長い時を越えたことで、誕生する前に消し去られた数多の命の存在を私に知らしめた。
私は、彼女が産まれてくるまでの長い、長い間に結ばれる筈だった多くの魂の繋がりを断ち切ったのだ。
私は殺したのだ。
この手で産まれてくる筈だった多くの命を。
私は消したのだ。
己の番さえも。
「うっ…うげっ…かはっ」
猛烈な吐き気に襲われ、床に書かれた陣の上に吐瀉物を撒き散らした。
赤い肉片と濁った葡萄酒色のそれは、まるで声もなく消されてしまったものたちの欠片のようだった。
私は吐瀉物にまみれながら獣のように哭いた。
次の日、彼女に渡すための身分証に私の名を刻んだ時、胸に浮かんだ喜びに私の心は千々に乱れ、ほとんど逃げるように彼女の前から立ち去ってしまった。
そして、私はそれ以降、彼女について考えることを放棄した。
部屋にも足を向けず、力のない人族の少女が一人でいきていけないであろうことも承知していながらも、己の罪に向き合うことができず、ただ時だけが過ぎていった。
そんな折に、城で働く人族の少女の噂を聞くことになった。
牙狼隊の隊長に保護された魔術部隊の隊長の番。
彼女がこの世界に馴染んで行っているのを知り、あの日からざらざらとしていた胸のうちが、僅かなりとも癒されるような気さえした。
そして、彼女が多くの獣人を魅了しているという噂が流れ出すと、そのことに夜毎寝られぬほどに悩まされた。
おそらく陛下の本当の番は多産な獣人だったのだろう。
彼らは弱く命も短い。
しかし、その繁殖力だけは凄まじいものがある。
兎か、ネズミか…
彼女の祖先にあたるその獣人は、本来ならば多くの子孫を生む筈だったのだろう。
産まれてくる子供達が持つ予定であった番の紋が、時を曲げて彼女が現れたことで行き先を失い、
彼女に集約した。
その為に異例なほど彼女は多くの番を持つこととなった。
この予測はおそらく間違いではないのだろう。
彼女を中心に激しく歪んでいた魔力の流れが落ち着き、彼女がこの地に定着していく様を見ながら…
私はこの事実は決して口には出さず、墓まで持っていこうと頑く心に決めた。
そして、私は全てを忘れるために以前より仕事に没頭するようになった。
不眠による寝不足と過労で足元がふらついていた私に、執務室の控えの間で休むようにと陛下に休憩を申し渡されたある日、
彼女の歌を聞いた。
短い夏が終わり、冬の足音がすぐそこまできている頃。
開け放していた窓から風にのって彼女の歌声は私の元に届いた。
子供のならい歌から不思議な言葉の歌と、聞こえる歌はとりとめもなくかわる。
しかし、かすかに震えるようなその声は今にも泣きそうで、壊れそうで…
失われた多くのものを求める悲痛な歌声だった。
その時、私は彼女の失ったものの重さにはじめて気付いた。
己の罪の重さに戦き、背をむけるばかりでなにひとつ向き合わず、事実から逃げていた私は…
一番の被害者である彼女を支えることすらしなかった。
そのことに初めて気付かされた。
この恋は決して叶わない。
出会ったあの瞬間そう直感した。
本当にその通りだ。
獣人の本能とはかくも正しいのか。
彼女に愛を囁く資格など私には一欠片もない。
触れることも、横に並び立つことも、許されはしないだろう。
誰が許したとしても…
何よりも自分自身がそれを許せはしなかった。
私はカーテンを握り締め、あの日以来脆くなった涙腺から溢れる涙を上を向くことで堪えた。
泣いていいのは私ではない。
涙は、ただ哀しく歌う彼女のものであるべきだと思った。