前編
診断メーカーより
戦闘狂な猫の獣人で餌付けをする話を書きます。 http://shindanmaker.com/483657
「マリー!そろそろ暗くなるからもう上がんな」
洗い終わった調理器具を片付けていると、背中に女性の声が掛かる。その声に振り返ると、私が働いているパン屋の奥さんが余ったパンを下げながら私を見ていた。
見上げるほどに高い場所にある、彼女の頭には一対の丸耳。頭どころか顔にはふさふさとチョコレート色の毛が生えている。そう、彼女の頭部は私がテレビで見たことがあるヒグマのそれと一寸の違いもないものなのだ。
「あっ、はい」
「これ、残りで悪いけど持って帰んなね」
「ダーナさん、いつもありがとうございます」
「いいんだよ。どうせ残りもんさ。ところで、マリー」
「はい?」
今日もパンの余りを貰うことができた。ほくほく顔で彼女を見上げれば、ダーナさんはつぶらな瞳で心配そうに私を見ている。
「最近、この辺りで胡散臭い連中が彷徨いてるってよ。やっぱり、うちに一緒に住んだ方が良いんじゃないかねぇ?」
「大丈夫ですよ。借りてる部屋は目と鼻の先じゃないですか。それに、何かあったらそこの八百屋のベンに助けて貰いますから。私、結構声が大きいのダーナさんも知ってるでしょ?」
今いるパン屋からほんの二、三軒しか離れていない場所にあるのが八百屋だ。兎の姿を持つ青年が元気に声を上げながら店先に立っている。私自身も料理に使う野菜を買いによく利用するので、最早常連と言っても良いかしれない。
「アンタの声が大きいのはよく知ってるけど、この町じゃ人間は珍しいんだ。他の娘より気を付けるくらいでちょうどいいんだよ。――そうだ、うちのテッドに送らせようか」
「ダーナさんは心配症なんですから。私の住んでる家なんて、すぐそこだから平気ですって」
「……はぁ。とにかく、マリーはまだ若い娘なんだから気を付けなね」
「大丈夫ですって!それじゃあ、お先しますね」
心配そうな顔で見送るダーナさんに笑顔で言い切って職場を出た。
私の名前はマリー……ではなくて、本当の名前は柚木万里。いつも通りに同じ会社からアパートまでの帰り道を歩いている最中に迷子になって、ここにいる。何年も通った道だったと言うのに、気が付いたら町を外れ帰り道を見失ってしまった。
それから空腹に行き倒れそうになっていたところをダーナさんに拾われ、パン屋での職に就かせてもらって住むところまで世話してもらったのである。彼女には頭が上がらないし、足を向けても眠れない。今生きているのは彼女のおかげなので、まさに女神様のような人なのだ。見た目はヒグマだけれど。
未だに信じられない話だけれど、今いるこの場所はまるで被り物でもしているかのような動物の頭の人たちが普通に生活している。彼らのことは獣人と言うらしい。一応、私のような普通の人間もいるらしいのだけれど、この国にはあまり多くなくて、特に王都から離れたこの町には私しかいない。
「……帰り道、どこかなぁ」
ぽつりと漏らした言葉に返してくれる人はいない。
私は昔から道を覚えるのが苦手で、所謂方向音痴である。迷子としての経験は数えることができないくらいだ。……誇れることではないけれど。
それでも、会社から家までの道に関しては何年も通った道である。私は自分が方向音痴だと自覚している方向音痴なので、決して冒険をしようなんて思わない。どんなに気になる道があってもその道には進まないし、常に同じ道を通るようにしているのだ。それでも、道を外してしまうのだから私の方向音痴は筋金入りなのかもしれないけれど。
そんなことを振り返っていると、いつもの八百屋はあっという間だ。
「マリー!今日はじゃがいもと玉ねぎが安いよ。買ってくかい?」
「あ。ちょうど無くなったところだったの。二つずつもらえる?あとはにんじんを一本」
「はいよっと」
八百屋のベンから野菜を受け取って、左手に下げる。パンの重さは大したこともないけれど、じゃがいもも玉ねぎもにんじんも思っていたよりも大きくてずっしりくる。というか、私の知っている野菜のサイズとは違うと思う。じゃがいもと言われているけれど、袋の中にあるのは小さいかぼちゃサイズだ。玉ねぎもまた然り。味も匂いも同じなのに、サイズ感だけがちぐはぐだ。でも何となくお得感はある。
「すいません。このベーコンをください」
「ベーコンね。これ、おまけのソーセージ。屑だけど貰ってよ」
「わ。ありがとうございます!」
「また、ご贔屓にね」
肉屋ではベーコンとおまけの小さいソーセージが少し。これでポトフの材料が揃ったので、今日の夕飯はポトフにすることが決まった。買うよりは安いから手作りをしているけれど、気楽な一人暮らし。特別に手の込んだ料理というのは随分とご無沙汰である。何よりも空腹は最大の調味料というやつで、大体がおいしく食べられるので十分というわけだ。
そんな夕飯に思いを馳せてほくほく顔で歩いていたのが良くなかったのか、商店街を過ぎてもう少しで家というところで背後に人の気配を感じる。人の住んでない町でもないし、それなりに人の通りがある道だ。自分の後ろを人が歩いていてもおかしい話ではないだろう。だが、私の歩く速度にぴったりと合わせるような足音が一度耳に入ると耳から離れない。試しにちょっと立ち止まって見れば、その足音も止まるのだから尚更である。
そして脳裏に過ぎるのはダーナさんが話した言葉である。
『――最近、この辺りで胡散臭い連中が彷徨いてるってよ』
彼女は確かにそう忠告したし、私もその言葉を聞いた。しかし、話半分に聞き流したのも事実である。私のような姿の人間が少ない町とは言え、だからこそ人の目がある町でもある。何かあれば、声を上げれば――そう思った時には見覚えのない場所を歩いていた。どうやら考えながら歩いていたせいで、奇跡の方向音痴力を発揮してしまったらしいと気付いた時には遅かったのである。
「――なぁ、お嬢ちゃん」
「ひっ……!」
後ろからかけられた男の声に、私は声にならない声しか上げることができなかった。ぎゅっと腕を強く握られて、咄嗟に体を固くする。しかし、それでも大の大人が数人相手。分が悪いどころか、悪い予感しかしない。
「お嬢ちゃん、俺たちに着いて来てもらおうか」
「やっ、離してください!」
「まぁまぁ、俺たちも乱暴なことはしたくねぇから。――なぁ?」
見るからに人相の悪い男たちである。一人は犬、他は鼠か何かだろうか。それらがそのまま動物であったのなら、まだ可愛らしいと思えるはずなのに。にやりと汚い笑みを浮かべる彼らは獣の臭いが強い。顔を顰めて、その腕を振りほどこうとするのにキツく握られた腕は振りほどけそうにもなかった。
「――俺、今暇してんだ。相手してくれねぇか?」
その声の主の動きは俊敏で、そして一切の無駄がなかった。
***
「――大丈夫か!?」
「え、あ、はい」
「今、自警団呼んだからね」
寂れた暗がりの細い路地。目の前にはまともに動くこともできずに地面に伏せる数人の男達。それぞれ痛むのだろう部分を押さえて、低い呻き声をあげている。
小さく震えてそれを見る私に、通りがかりの人が心配そうに声をかけてくれる。自警団も呼んでくれたそうで、この男たちの処理も彼らがやって来次第
するのだろう。
当然ながら、男達を地に伏せるような目に遭わせたのは私ではない。私の持つ武器と言えば、少し固くなったパンと、かぼちゃほどの大きさのじゃがいもと玉ねぎ、にんじんである。男たちを動けなくするほどのものではないし、それらの野菜は傷も付けず無事に私の腕に抱えられていた。
男たちを地に伏したのは、すぐ側の壁に寄り掛かって立っている男である。黄色に光る鋭い眼光の瞳孔は縦に割れている。細身の身体は決して貧相ではなく、しなやかな筋肉に覆われていた。その身体を被うように生えている体毛は黒一色。頭の上にある一対の三角の耳とゆらりゆらりと揺れる尾の先は僅かに白色である。
ふと、じっとこちらを見ていた男と目が合う。
「あの、ありが……」
言いかけたお礼の言葉は彼のぐぅと鳴ったお腹の音で止まる。そして、少しの間を置いて再び口を開く。
「――あの。ええと、ごはん食べます?」
「……ああ」
そして私はこの黒猫の青年を連れて、家に向かったのであった。