六話「厳格」
休憩を終えて歩き続けてしばらく経ち、廃工場の前を通りかかったときだった。何処からか聞こえた男の悲鳴が静寂を裂く。その切羽詰まった声を聞くや否や、アキレアは弾かれたように走り出した。半ばうんざりしたような心持ちでゆっくりついて行くと、工場の倉庫裏からアキレアがアスルを呼んだ。
二人の男が発症者から逃げ惑っていた。敵は十体。無精ヒゲを生やした男はトラックの上によじ登って難を逃れたが、彼より若い坊主頭の男が逃げ遅れたらしく、ヒゲの男は彼に向かって手を差し伸べるが、その手を掴む前に発症者の手に捕まった。
「襲われてるわ、助けないと!」
「ええ? なんでさ。放っておけばいいじゃん。折角発症者どもの気を引いてくれてるんだからさ」
「見捨てるつもり!? 信じられない。私は行くわよ」
「ご勝手に」
アキレアに背を向けて引き返す。しかし、その途中でアスルはあるものを見つけた。シャッターが全開になり、裏から表へ通り抜けが出来るように解放された倉庫の中に待機させられていたソレを見て、アスルは口角を上げると再び踵を返した。
その短時間でアキレアは三体の発症者を倒していた。襲われていた男も、落ちていた角材を振り回して応戦している。ヒゲの男がトラックから飛び降りて発症者を踏みつけた。残りが五体になったところで、坊主頭の男が持っていた角材が折れた。内側が腐っていたのだ。
動揺する男に発症者が掴みかかる。悲鳴を上げながら押し倒され、噛みつこうと迫ってくる頭を、絶叫しながら必死に押し返す。アキレアがそれに気付き助けようとするが、他の発症者に飛びかかられて思うように動けない。無精ヒゲの男も同じように発症者に掴まっている。
坊主頭の男に噛みつこうとしていた頭が、その直前でぼとりと地面に落ちる。
ヒゲの男を掴んでいた腕が二の腕のあたりから切れ、男の腕に一本の腕がぶら下がった。
アキレアが一体の発症者を伸し、こちらを振り向く。
「アスル!」
残った二体がアスルに向かってくるのを、彼はまるで蚊を追い払うかのように容易く片付ける。倒れた発症者の服で刃の血を拭い、アスルは銃剣を仕舞った。男たちはしばらく呆然と二人の様子を見ていたが、やがてハッと我に返り駆け寄ってきた。
「あ、ありがとう! 助かったよ。ここで休んでいたら急にあいつらが来て、もう駄目かと思った。本当にありがとう!」
ヒゲの男がアスルの手を握って繰り返し礼を言う。アスルは嫌そうな顔で手を払った。男と手を繋ぐ趣味はない。坊主頭の男は二人を命の恩人だと心から感謝を述べる。アキレアは嬉しそうにアスルの肩を叩く。
「ありがとう。戻ってきてくれたのね」
「いいもの見つけちゃったからね」
「いいもの?」
アキレアが首をかしげる。アスルは男たちに向き直ると倉庫を指さしてにこりと笑った。
「あの馬車って、お兄さんたちの?」
倉庫の中で馬がブルル、と鼻を鳴らす。ヒゲの男はああ、と頷いた。
「俺たちはこのあたりで運び屋をしてるんだ。人でも荷物でも、馬車に乗せて運べるものなら、頼まれれば何でも届ける。あまり遠くへはいけないがな」
「へえ、そうなんだ。じゃあちょうどいい。俺たちをオルディネまで乗せてってよ」
「もちろんだ! なんたって恩人だからな。何か礼がしたかったところなんだ。俺たちにはそれくらいしか出来ねえが、是非乗ってくれ」
無精ヒゲの男はエルダ、坊主頭の男はティミドと名乗った。エルダが御者となり操縦する馬車は大人四、五人が乗れる大きさで、上を向くと雨除けのシートが頭上に張られている。アスルの向かい側に座るアキレアの隣にティミドが腰掛け、先ほど襲われた事情を話した。
「いつも通りに馬を走らせていたんだが、今日はやけに発症者が多くてな、馬を休ませるのも兼ねてあの工場に隠れていたんだ。それでも見つかっちまって、あのザマだ。いつもはそこまで多くないのに、なんで今日に限ってあんなに大量に出てきたのか……」
「昨日の夜、フォールでアウトブレイクが起きたんです。私たちもそこにいたんですけど、朝にはもうほとんど人が残っていないみたいでした」
アキレアが説明すると、ティミドは大層驚いた。
「なんだって? そんなことがあったのか……でもたしかに、あの街の検問はずさんだったからなあ。そうなるのも時間の問題だったのかもしれない。二人とも、よく無事だったね」
「泊まった宿が街の一番奥の宿だったから、運良く気付かれずに済んだんです」
「そりゃ幸運だ。いやあ、あんたらが無事でよかったよ。じゃないと俺も兄貴も今頃あいつらにやられてた。……そうか、フォールでそんなことがあったから、奴らが多かったのか。それじゃあ、しばらくそっち方面には行かないほうがいいな。兄貴にも話してくる、ゆっくりしててくれ」
「そうさせてもらうよ」
ティミドが御者台のエルダの隣に移動すると、アキレアが僅かに身を乗り出してアスルに近寄った。
「ねえ、アスル。ミサのことだけど……」
そう話を切り出す。フォールでアスルが見殺しにした少女のことだ。
「私、あの子の両親を捜そうと思うの。もしかしたら何処かに避難してるかもしれないし」
「本気で言ってる? それって、名前も、外見も、生きているのかどうかすらも分からない人間を捜すってことだぜ」
「やっぱり、難しいかしら」
「当たり前だろ。どうしてもやるって言うなら止めないけど、俺は絶対に手伝わない。そもそも捜して見つけて、それでどうすんの? あの子はもう死んでるんだし、今更親を見つけたって意味ないじゃん。『娘さんなら見ましたよ、一緒にいたけど死にました』って、まさか、わざわざそんなことを伝えるためにあの子の親を捜すわけ? 無駄な労力だね」
「……そう、よね。わかったわ、ごめんなさい。あの子の親捜しは……やめておく。残酷すぎるものね」
蹄の音と車輪のガタガタいう音があたりに響く。今のところは周囲に発症者の姿はない。二人はそれからしばらくの間、ただぼうっと時間が過ぎるのを待っていたのだが、やがてアスルは自身がアキレアにじっと見られていることに気付いた。思い返してみると、彼女とこんなに長い間向かい合っているのは初めてのことだ。アスルがアキレアを見つめ返すと、彼女はすぐに気が付いた。
「な、なによ」
「先に見てきたのはアッキーのほうだよ」
「……ごめん、嫌だった?」
「別に。見られて恥ずかしい容姿をしてるつもりはないから、見たければいくらでも。どうぞ、気が済むまでご覧よ」
「見た目だけなら、ね」
「アッキー、最近なんだか俺に強気だよね」
会話が途切れ、数秒の沈黙の後に、ねえ、とアキレアが改めて声をかける。
「アスルってやっぱり、左目だけ色が薄いのね。生まれつきなの?」
「ああ、そうだよ」
「目の色素が薄い人は日光に弱いって聞くけど、視力は?」
「そんなの意識したことないね。それに、色素の濃い薄いに関わらず、光が強けりゃ誰だって眩しいだろ。もし両目で物を見ていて明らかに片目の低視力が目立つなら、片眼鏡でも何でも着けてるさ」
「そっか。それもそうよね」
アキレアが口元を緩ませる。何故か嬉しそうだ。
「何ニヤニヤしてんの?」
「だってアスル、会ったばかりのときと比べて色々話してくれるようになったから……なんだか嬉しくて」
「情報面のガードは変わってないよ。俺自身に深く関係するようなことに関しては、信用した分だけ、機を見て話すようにしてるんだ」
「じゃあ、待っていればそのうち、色々教えてくれるの?」
「それはお前次第だよ。俺がアッキーを信用できると思えば、発症者を倒すときに俺が使ってる裏技も教えるかもね」
「それは楽しみだわ」
*
オルディネの検問が実に綿密で厳しいものと感じられたのは、フォールの検問を受けたあとだからというわけではなかった。他のどの検問所と比較してみても、オルディネは特別厳格な態度で町の平穏を保とうとしている。長生きしそうな町である。
複数人の兵士たちによる念入りな身体検査と質疑応答の末に立ち入りを許可されたオルディネは、街の至る所を兵士たちが巡回しているおかげで、治安も良く綺麗なようだったが、卑しい遊び場のないこの町がアスルには少し窮屈に感じられた。
町の一番奥に鏡のような大きな建物が見えた。明らかに異色を放つその建築物を指差しながら、アキレアがアスルの肩を叩く。
「ねえ、あの建物って……」
「だろうね」
十中八九、この町を訪れた目的の場所に間違いないだろう。アスルは近くにいた住人に歩み寄り、あの大きな建物は何かと尋ねてみた。すると、痩せ細った女は忌々しそうに眉を歪めながら、アバンサールよ、と答えた。
「アバンサールが世界の至るところに作った研究所のひとつなのよ。全く、あんなのを見ながら生活するなんて嫌になっちゃうわ。まあ、今はもう研究員もいないし、建物の中も空っぽなんだけどね」
「へえ、アバンサールのね。そこにいた人たちは何処に行ったんだろうなあ」
「何処だって構わないわ。いなくなって清々したわよ」
「それもそうだね、教えてくれてどうも」
女と別れてアキレアのもとへ戻る。どうだった、とアキレアが問うので、駄目だね、と答えた。
「研究所はもぬけの殻らしい。ここにいた研究員も町には残ってないそうだよ」
「これからどうするの?」
「今日はここで情報を集めて、明日からまた別の研究所を目指す。まずは……宿の確保だ」
「私が探しておくわ。アスルは外で色々聞いてきて。宿をおさえてから私も合流するから」
「はいはい」
またトラブルを持ってこられても困るので、出来れば彼女には宿でじっとしていてほしいのだが、そう言うと彼女は絶対に何が何でもアスルに合流しようとするだろう。ならば最初から煽らないほうがいい。それに、この町には至る所に警備の兵士がいるのだから、アキレアが何か人助けをしようとしたときは、彼らに押し付ければいいのだ。
空の研究所の前まで行き、建物を見上げる。鏡のようで円形の建物、アバンサールの全ての施設に共通して見られる特徴だ。世界が破滅した原因を作ったアバンサールの人間は、現代のこの世界では酷く肩身の狭い思いをしていることだろう。
「そこの研究所はもう随分前から空っぽですよ」
建物を見上げていたアスルに町の住人が声をかける。アスルが振り返ると男は愛想良くこんにちはと挨拶した。
「ここ、アバンサールの研究所だったんです。でも、人も物も何もなくなって、今では廃屋になってまして」
「へえ、アバンサールか。連中は世界中のいろんなところに研究所を置いてるって聞いたけど、そういえば他には何処があったかなあ」
「そうですね。たしかここ、オルディネ支部と、コルタール支部、トラバハール支部……まだまだありますよ。世界的な大企業でしたからね」
「その大企業が、今や見る影なし。まあ、当然と言えば当然か」
適当なところで会話を切り上げる。アバンサールの施設があるコルタールとトラバハールという町については名前も今初めて聞いた。地図はアキレアが持っているので、旅の計画はあとで彼女と合流してから考える他ない。
町のなかをうろうろしているうちに何人もの兵士とすれ違う。暗い色調の戦闘服に防弾チョッキを装着し、手には散弾銃を、腰のホルスターには拳銃とサバイバルナイフを装備している。大量の弾薬を携帯し、武装は完璧だ。発症者を見たことのない子どもたちは、話でしか聞いたことのないバケモノの存在よりも、彼ら兵士たちのほうが恐ろしいと思うことだろう。子どもでなくても発症者よりもこの強面の兵士に怯えている者は少なくないはずだ。だが威圧的な分、いざというときに頼りになりそうな印象も受ける。
道の端で言い争いをしていた男たちが、見回りの兵士を見た途端にぎょっとしてそそくさとその場から逃げていく。喧嘩や口論など、暴力的な行動は感染の疑いをかけられる。兵士たちに対する住人達の反応から察するに、この町では少しでも疑わしい行動を取ると、その場にいた兵士の独断で銃殺されてしまうようだ。感染者は絶対に生かしておかない方針らしい。
それにしたって、彼らの所持する大量の弾薬はうらやましく思える。一般市民とは違い、兵士たちは銃器の所持を義務付けられており、つまり、彼らは常に一定以上の弾薬を所持している。それを使い切ってしまっても、すぐにそれが補充されるのだ。
どれほど弾薬を求めても手に入らない、ただの一発でさえも無駄にできない市民もいるというのに、兵士たちは求めなくても弾薬を手に入れることができる。なんという格差だろう。
狭い道で一人の兵士とすれ違った際、互いの肩がぶつかった。
「すみません」
「気を付けろ」
こちらの謝罪に兵士は振り向きもせずにそう返すと、何事もなかったかのように去っていった。その背中が角を曲がって消えるまで見送ると、アスルは手に持った弾倉を軽く投げて弄びながら小さく鼻で笑った。
「ちょろいね」
まさか弾薬をスられたことに気が付かないとは。面持ちや態度の割に警戒が足りていない。
その後もしばらく、周辺の住民たちから情報を集めたところでアキレアと合流した。どうやら余計な面倒は持ち込んでこなかったらしい。しかし、合流したはいいが必要な情報は既に揃っていたので、二人はそのまま宿へと向かった。
「何人かの住人に同じ事を聞いて回ったけど、やっぱりアバンサールの研究員はもう誰もここに残ってないようだ。もうこの町に用がなくなったところで、次の目的地だ。コルタール支部とトラバハール支部は、ここと同じく十五年前のアウトブレイク後も存命している。どちらもここから北に向かったところだ。トラバハールのほうが近いから、当分の目的地はそこだね」
地図を指差しながら言う。
「それでも結構遠いわね。それに今持ってる地図にはコルタールは載っていないし、他の地方の地図も手に入れないと……」
「最終目的は機能しているアバンサールの研究所と研究員を見つけること。今の目的はトラバハールを目指すこと。そのための小目的として、明日はここから少し北東に向かったところにある町、シュティレに向かう」
「わかったわ」