四話「価値観」
フォールに到着したときにはもう日が傾き始めていた。この町の検問は他の町ほど厳しくなく、正直言っておざなりだった。町に入る人間が噛まれていないかどうかの身体検査もなかったのである。アスルが、近い将来にこの町は滅ぶだろうと独り言を呟くと、アキレアが肘で彼の脇腹を突いた。
街をずっと歩いて行った奥の方に今夜の宿を見つけ、夕飯の確保に出掛けたアキレアを見送る。アスルはいつも通りに歓楽街のほうへ行こうと考えたが、なんとなく気分が乗らなかったのでやめた。窓を開けてぼんやりと外を眺める。町はナチャーロより小さいが、人口は多い。通りは平和に今日を過ごす人々で溢れており、よく見ると別の町からやって来た旅人もたくさんいるようだ。
「あーあ、こりゃあ本当に、この町は短命だねえ」
しばらく外を見下げていたある時、アスルは独り言を呟いて不敵に笑った。
アキレアが戻ってきたのはそれから二時間ほど経ち、あたりが暗くなりはじめたころだった。
「随分遅かったね」
「街で喧嘩してる人がいて、大変だったわ」
「まさかその喧嘩の仲裁に入ったとか?」
「それもそうなんだけど……野次馬がたくさん集まって、その人だかりで母親とはぐれた子がいたのよ」
「アッキーの性格から考えるに、その親を捜してあげたと」
「そう。その間にも喧嘩はどんどん酷くなって、間に入って場を収めようとした人も次々に怒り出しちゃって、最後には大勢での取っ組み合いになってね。他の人たちと協力しても、止めるのに骨が折れたわ。結局、怒ってた人たちが怒ったまま帰っておしまいになったんだけど……」
「そりゃ、次に顔を合わせたときにもやるだろう」
「おかげで疲れたわ。……ああ、あなたを呼んでいればよかったかも。アスルの声ってよく通るから、怒鳴り声の中でも聞こえやすいだろうし、あなた、頭良いんでしょ? なんとか角が立たないような説得をしてもらっていれば……」
「はあ? 勘弁してよ、喧嘩の仲裁役なんて。そんなことをしたって何の利益にもならない。過去のことを悔やむくらいなら、次に同じ状況に対面したときにどうやってうまく立ち回るかを考えろよ。あと、俺は頭がいいし声もよく通る声質なのかもしれないが、往来の真ん中で怒鳴り合い殴り合いの喧嘩をはじめるような馬鹿のために使ってやる話術なんてないよ。熱くなった馬鹿には何言ったって無駄。声を出すのすら勿体ない。力ずくで黙らせるなら簡単だからしてやってもいいけど」
「暴力は駄目! どうしてそんなに荒っぽいことばかり考えるのよ? 手を出す前にできることがあるでしょ」
「うるさいなあ。さっさと飯でも食って寝れば?」
嫌そうに言うと、アキレアは部屋の丸テーブルに持っていた紙袋を置いた。中に何かの缶詰めが見える。
「アスルはまずその、すぐに武力に訴えようとするところを直さないとね」
「もとからこうなんだから直すも何もないだろ。それに今の世の中、力がないやつから死んでいくんだから、このくらいがちょうどいいんだよ」
「そうかもしれないけど、力があるのと、無闇に武力を行使するのは違うと思うわ」
「これが俺のやり方なの」
「そのやり方が間違ってるって言ってるんじゃない」
「何怒ってんの。生理?」
やや声が強くなったアキレアにアスルが平然と言う。デリカシーのない言葉にアキレアは一瞬たじろいだ。
「違う、もういい!」
そっぽを向き、アキレアは夕飯も食べずに寝具に横になった。
*
アキレアが目を覚ましたのは、あたりがあまりにも騒がしかったからだ。目を開けても部屋は暗く、夜が明けていないことを瞬時に悟る。
ガラスの割れる音。喉が壊れそうなほどの絶叫。泣き声。怒号。物が破壊される音。壁一枚で隔てた屋外からさまざまな音や声が聞こえた。
「な、なに……」
寝起きの頭は事態を理解できず、アキレアはただ呆然としていたが、やがて隣のベッドに座っているアスルに気付いた。
「あ、起きた?」
外からのただならぬ物音や人々の悲鳴をバックに、アスルはアキレアを見た。まるで何事もないかのように平然としている。
「ア、アスル、何? この音……」
「俺の言った通りだったでしょ。この町は滅ぶ。アウトブレイクが起きたんだ」
「え!?」
「アッキーが外で遭遇した暴動は、喧嘩してた連中が末期症状の感染者だったから起きたことだ。きっと、いつ発症してもおかしくない状態だったんだろう。それらが今からほんの少し前に理性を失った」
「た――大変じゃない! 町の人たちを助けなきゃ」
部屋を見渡したとき、アキレアは気が付いた。ドアがない。否――違う。ドアがあった場所に物置棚が置かれていて、出入りができなくなっているのだ。
「発症者は十人ほどだ。まだ俺たちの存在に気付いていないからここには来ていない。まあでも念のため、ね」
「どうして」
「朝になる頃にはひとまず騒ぎは収まるだろうし、今すぐ外に出るのは得策じゃない。朝までここにいて、時間が来たら出発だ」
「他の人たちが襲われてるのよ? 発症者の数が少ないなら、増える前に倒してしまえば、犠牲は少なく済むわ!」
アスルがアキレアのベッドまで歩み寄る。アスルは彼を見上げていたアキレアの鼻と口に、手に持っていたガーゼを素早く押し付けた。驚いたアキレアはそれを引き剥がそうと抵抗するが、アスルの力は強かった。
「発症者を皆殺しにしようがしまいが、このパニックに収集はつかない。それに外はひどい人混みだ。下手に動けばこっちが怪我をする」
アスルが言い終えたとき、アキレアは引きずり込まれるような眠りについた。
再びアキレアが目を覚ましたころにはすっかり夜も明けており、深夜の喧騒もだいぶ和らいでいた。彼女はそのときのことをよく覚えていないと言ったので、そのときのことは語らず、嘘を織り交ぜた現状だけを説明した。だが思い出すのも時間の問題だろう。
「町の人はもうほとんど残っていないの?」
「さあね。俺が気付いたときにはこの状態だったから、住民がどうなったかまでは知らない。でも、発症者が全部外に行ったとも限らないから、ここが安全である保証もない。それに、外に死体がたくさん転がってることから、発症者がはじめの数人だけの可能性も低い。発症した人はともかく、体内に糸虫を宿した人間は両手じゃ足りないほどいたはずだ。虫を飼ったままの状態で死ぬと、急速に侵蝕が進んで発症者として復活するってことは知ってるだろ?」
「ええ。脳を壊さない限り、何度でも蘇るのでしょう?」
「何度も蘇る――というより死なないのさ。とにかく、この町のずさんな検問を見ただろ? 噛まれていないか聞かれただけで、他の町みたいに傷がないかの確認を受けたわけじゃない。あんなんじゃ感染者は入り放題だ」
「今は外の通りで倒れている人たちの遺体も、いつ動き出すかわからないわけね。……でも、私たちみたいに、何処かに隠れて生き延びた人もいるかもしれないわ。その人たちを避難させてあげないと」
「勝手にしろよ。言っとくけど、俺は手伝わないからね」
扉を塞いでいた棚を蹴り倒し、アスルを先頭に宿を出る。外は酷い有様だ。割れた窓ガラス。壊された扉。破壊された看板。至る所に飛び散った血飛沫。何かが引きずられた跡。壁にもたれ、あるいは地面に倒れ伏し、ぴくりとも動かないたくさんの死体。今のところ発症者の姿は見えない。
「よりにもよって、街にある宿の中でも最奥部に位置する宿に泊まるとは。まあ、そのおかげでアウトブレイクが起きても発症者に襲われずに済んだのかも知れないけど」
町の正門へ向かうまでにかなりの距離がある。昨日と同じルートで進んだとしても、障害物がないとも限らないし、当分は歩き回ることになるだろう。もしその道中に生き残りの人間でもいれば彼女がじっとしているはずがない。襲われていれば助けなければとアスルを引っ張るだろうし、襲われていなくとも生きた人間がいれば避難させなくてはとアスルを引っ張ることは確実だ。避難者を一時的に同行させること自体は構わないのだが、こんなところに取り残されて小娘に助けられるような人間が、まともに戦える人間である可能性は低い。それに、アキレアなら相手が噛まれていようとも見捨てずに連れて行くはずだ。そうなれば面倒が増える。
面倒を増やさないためには、人の気配をアキレアよりも早く察知し、彼女がそれに気付く前にその場から離れさせるようにしなければならないが、そこまで考えたとき、しかしどうして自分がそうまでして彼女に構わないといけないのかとアスルは思った。アキレアが面倒事を持ってくるとアスルもその面倒を担うことになるが、彼女をその面倒事から遠ざけることすらも面倒なのであり、つまりどうあがいてもアスルは面倒なことから逃れられないのだ。どうかフォールを出るまで余計なことをしないでくれと願うほかない。
だが、願った傍からアキレアがアスルを呼び止める。そら来た、アスルはため息を吐いた。
「ねえ今、人の声が聞こえたわ」
「風の音と聞き違えたんじゃない?」
「そんなことないわ。確かに人の声だった。きっと、何処かに生存者がいるのよ!」
声が聞こえた方向に向かってアキレアが走り出す。このまま放って行こうとしたが、やめた。どうせ、生き残ったといっても既に寄生されているだろうし、それなら殺してしまえばいいのだ。
「アスル、こっち!」
遠くからアキレアが手招きする。
「朝から元気だねえ、アッキー」
「子どもが襲われてるみたいなの。手伝って!」
「嫌だよ。さっき、手伝わないって言ったじゃん」
のろのろ歩きながらアキレアのもとへ行くと、彼女は一軒の民家に入っていった。手を貸すつもりはないがついて行く。二階の部屋から悲鳴が聞こえたのでそちらに向かうと、子供部屋のクローゼットを叩いている発症者がいた。腹部には何かに喰われたような大きな傷がある。悲鳴はその中から聞こえている。発症者がこちらに気付いたので、アキレアは素早く間合いを詰めた。
「アッキー、そいつの脳は頭」
アスルが背後から助言すると、アキレアは言われた通りに頭部へと強い一撃を繰り出す。骨の軋む音がして発症者がよろめいたところに、回し蹴りが決まる。直撃だ。蹴飛ばされた発症者は壁に血潮をべったりとつけて倒れ、動かなくなった。
「どうしてわかったの?」
「糸虫病の進行の末に発症した『純粋な発症者』があんな怪我をしているはずないだろ。こいつは明らかに、体を喰われている。人間だったころに他の発症者に喰われて死んで、元々体内にいたか、あるいは発症者に喰われたときにその体液から虫の卵が入り込んだのか――ともかく、死んでから突発的に発症したタイプだ」
「それで?」
「突発的に発症して蘇生された発症者の場合、虫が脳を動かす時間がない。だから、体内に糸虫を宿して死んだ、あるいは死後に糸虫に寄生された発症者の脳は頭部から移動しない。まあ、はじめの蘇生から時間が経てば、他の純粋な発症者と同じように脳の移動も始まるけどね」
「あなた、本当に詳しいわね」
「伊達に旅を続けてたわけじゃないってことさ。専門家か博士か何かと思ってくれよ。……それより、クローゼットのレディを出してあげれば? 泣き声がうるさくてかなわない。それに、さっさと泣き止んでもらわないと、他の発症者を呼び寄せかねないぜ。……ただし、連れて行くならお前が面倒見ろよ」
「絶対に反対すると思ってたのに……あなた、やっぱり根は優しいのね」
「さて、それはどうかな」
アキレアがクローゼットの前にしゃがみ、その扉に触れると、優しい声音で中に向けて声をかけた。発症者はだいぶ破壊を進めていたのか、木製の扉にはいくつかの穴があいていた。隙間から小さな少女の姿が見える。
「あなたを助けに来たわ。怖いのはやっつけたから、もう大丈夫。ねえ、扉を開けて?」
クローゼットの少女はただぐずっている。
「安心して。私たちはあなたの味方よ。出てきて一緒に安全な場所へ行きましょ?」
少女がちらりとこちらを見た。怯えた目をしている。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。
「ねえ、お父さんとお母さんは? はぐれちゃったなら、一緒に捜してあげる。さあ……」
「ゲ。おいおい、親探しまでするわけ? アッキー一人でやってよね」
「ちょっと、そんなこと言わないでよ。もう」
キィ、と僅かにクローゼットの扉が開く。アキレアがそちらに注目するが、扉はそれきりしばらく動かなかった。じれったくなったアスルが一気に扉を全開にすると、中にいた少女は酷く驚いた様子で後ずさろうとする。しかしその背中は既に壁にぴったりくっついている。
「アスル、怖がらせるようなことしないでよ!」
扉が開き、少女の顔を見るや否や、アキレアが振り返ってアスルの行動を咎める。しかしアスルが冷たい目をしていたので、アキレアは妙に冷静になり、どうしたの? と尋ねた。
「アッキー。こいつ噛まれてる」
やや色素の薄いショートカットの髪。泣き続けたせいで目元は真っ赤になっている。素朴なデザインのワンピースから覗く細い足には靴下を履いていて、足首のあたりに真っ赤な血がにじんでいた。その丸い血の模様はちょうど、人の口と同じ大きさだ。
少女の足首を見たアキレアの表情が一瞬険しい物になったが、少女の手を取って外に連れ出すと、強い声で「でも」と言った。
「だからって、置いて行くなんてできないわ」
「言うと思った。何度も言うけど、アッキーが面倒見てよ。お前が目を離した隙にその子が発症者に襲われたりしても俺は助けないし、その子が発症の兆しを見せたらすぐに殺すから」
「縁起でもないこと言わないで」
「縁起でもないことにならないよう、しっかり見とけってことだよ」
アキレアが少女の足首にハンカチを巻く。痛くない? と聞くと、少女は小さな声で平気、と答えた。
「私はアキレア。こっちはアスルよ。あなたの名前は?」
「ミセリア……皆はミサって呼んでる」
「わかったわ、ミサ。……さ、この街は安全じゃないわ。私たちと一緒に行きましょう。きっと、あなたのお父さんとお母さんも何処か別の場所であなたを心配してる」
ミセリアの緊張を解きほぐすように彼女の頭を撫でていたアキレアはやがて立ち上がり、アスルを見た。
「ねえ、この子の親がまだ町に残ってる可能性もあるわ。少し捜してみましょう?」
「ええ?」
アスルはあからさまに嫌な声を発したが、数秒考え込むとわかった、と頷いた。
「ただし、三十分で切り上げることが条件だ」
「ありがとう。それじゃあ、急ぎましょう」
「二手に別れたりはしないの?」
「何があるかわからないのだし、離れすぎると危ないわ。あなたと一緒のほうが何かと心強いし……でも、効率を考えるとそうしたほうがいいわよね」
「だから、俺はお前を守るつもりはないって……まあいいけど」
外に出てから街を見回す。昨日は鬱陶しいほどの人数がこの街に詰まっていたのに、今ではそれが嘘のように消え去っている。人がいたときには濁って感じた空気も、今では心なしか浄化されたように思える。アスルは人ごみが嫌いなのだ。
「じゃあ、この周辺からざっくり捜していこうか」
「そうね。私は向こうを見てみる」
「じゃ、俺はあっちね。子守りよろしく」
「何かあったら叫ぶから、すぐに来てね。見捨てないでよ?」
「それはどうかな」
「もう」