三話「宿」
アキレアが選んだ宿は外装は酷いものだったが、中に入ってみると案外小綺麗なところだった。部屋がひとつしか空いていなかったので別の宿を探そうかと思ったが、ナチャーロのまともな宿はこの一軒しかないらしく、空き部屋が二人部屋だったこともあって、二人の寝床は決まった。
「本当によかったの? 今日会ったばかりの他人と相部屋で泊まるなんて」
「別に? 一人部屋を二部屋より、二人部屋を一部屋のほうが安くつくし、物をスられるほど俺のガードは弛くない。むしろこの場合、警戒すべきはアッキーのほうなんじゃない? 普通、その日会った男と同じ部屋で寝泊まりなんてしないだろ」
「話を聞くにはちょうどいいと思うんだけど」
「そうじゃなくてさ……アッキーってもしかして処女じゃないの?」
「はあ!?」
「男と同じ部屋に泊まることに抵抗がないってことは、何回かしたことあんのかなって。違うの?」
「そ、そんな……結婚もしてないのにするわけないでしょ、そんなこと!」
彼女が純潔であったことよりも、そんな古臭い貞操観念の持ち主がまだ存在していたことにアスルは驚いた。どうやら、アキレアはアスルが彼女を襲うかもしれないことにまで頭がまわらなかったらしい。馬鹿というよりは鈍感なのだろう。
「……まあ、いいや。俺、子どもに興味ないし」
「な、何よ、子どもだなんて失礼しちゃうわね。あなたとさほど変わらないでしょ?」
彼女は見たところ十七歳前後だろう。そう見えるだけで正確な年齢はわからないが、知って得をすることもないので尋ねない。
「冗談はさておき、俺から聞きたいことって?」
「……どこまでなら聞いていいのかしら。とりあえず、発症者を一撃で倒した裏技は?」
「それは企業秘密だね。教えらんない」
「じゃあ、アスルは何のために旅をしているの?」
アキレアの問いにアスルは数秒黙った。話すべきかどうか迷っているのか、説明の言葉を考えているのか、ともかく彼はベッドに腰かけて一言、
「抗体」
と言った。抗体? アキレアが聞き返す。
「そう。生き物に寄生した糸虫を殺す、あるいは糸虫病の進行を抑制するワクチン。ワクチンって言うか、まあ、俗に言う駆虫薬さ。俺はそれを作るために、まだきちんと機能している研究施設と、そのサポートができる研究者を探す旅をしてるんだ。後者に関しては欲を言うと、アバンサールに籍を置いていた人がいいね」
「駆虫薬を作る旅……」
「俺の祖父――もう死んだけど――はアバンサールにいた研究者で、家には研究の資料やいろんな参考書で溢れてた。それを見ながら英才教育も施されてきた俺はそれなりの学を持ってる。それを活かして人類滅亡を食い止めようってことさ」
「アスル!」
アキレアが立ち上がり、真剣な目をしてアスルに向かい合う。
「それって素晴らしいことだわ! その薬が完成すれば、何億という人々が助かるのね!?」
「助かるかどうかは試してみるまでわからないな」
「それでも、人類のために旅をしてるんでしょう? もしかして、お金を溜めてるのも研究のための資金? ああ、なんだか私、あなたのこと誤解してたかも」
「誤解はしてない思うけど」
金に関しては研究に費やす分も踏まえた上で、あって損はないと思い集めていたところがあるので、あながち間違いでもないが、そもそもアスルが薬を作るのも、未だに開発されていない虫下しを売ることで大儲けができると思ったからだ。人類のためというよりは自分のためである。
「でも、そんなに簡単に作れるものなの?」
「馬鹿だね。簡単に作れるなら今頃人類は危機を迎えたりしてないよ。他の研究者にはない最高の切り札があるから、作ろうと思ったんだ」
「切り札?」
「あまり詳しくは言えないけど、まあ、薬を作るうえで助けになるであろうモノさ」
「ねえアスル」
アキレアはアスルの側まで駆け寄ると、その手を強く握った。
「それ、私にも協力させて!」
「はあ?」
アスルは拍子抜けしたような声を出す。アキレアは目を輝かせながらお願い、と頼み込んだ。
「なんのために?」
「勿論、世界を救うためよ!」
「止してくれよ、熱苦しい。発症者もろくに倒せないやつを、どうして旅のお供に連れてかなきゃいいけないんだよ。お荷物だろ」
「たしかにあなたは強いけど、病院でのときみたいに一人だと切り抜けられない出来事もあるでしょ? これから先もまた、ああいうことがあるかもしれないじゃない。一人くらい仲間がいたほうが困ることも少ないはずよ」
「世界を救うつもりなんてないよ。俺は薬を売って儲けたいだけ。アッキーが考えてるような綺麗な理由じゃない。お前とは価値観が合わないよ」
「お金儲けがしたいだけでも、糸虫を追い払う駆虫薬を売るのだから結果的に世界は救われるわ」
「母親捜しはどうしたんだよ」
「あら、それもちゃんとするわよ? そのためにあなたに話を聞いているのだから」
「話さなきゃよかった」
「心配しなくても、戦い方もわかったことだし、自分のことは自分でする。体力もあるほうだし、足手まといにはならないわ。迷惑はかけないようにするから!」
「もうこの状況が既に迷惑なんだけど。それに、同行したって俺の秘密は教えないよ」
「あなたが教えてくれないなら、自分で見抜くわ」
ああ言えばこう言う、強情な女だ。
しかし、たしかに彼女は戦い方がなっていないだけで、力はある。アスルの代わりに力仕事を任せたとしても何も問題ないだろうし、口うるさいが彼女がいればいろいろと楽ができそうだ。
「……勝手にすれば。ただし、仲間とは思わないよ。利用するときは便利に使わせてもらうけど。お前が無理矢理についてくるんだからいいよね?」
「性格悪いのね」
「嫌なら今のうちに離れれば? 俺も相性悪いと思ってるし」
「……決めたわ」
「何を?」
「私、あなたを更正させる。旅が終わるまでに、きっとアスルを真人間にしてみせるわ!」
「は? なにそれ、ウザ。余計なお世話なんだけど。やっぱ来なくていいよ」
「いいえ。ついて行くわ。外のことについて、まだまだ教えてほしいこともあるし」
「自分が心細いだけだろ」
「それもあるけど、一緒にいて損はないでしょ?」
「得もないけどね」
「なら大丈夫ね」
「強引だなあ」
力のある女と行動を共にすることで得られるメリットは、彼女がアスルにもたらすデメリットで相殺されてしまう。ならば、アスルが彼女同行を許す理由はない。
しかしアキレアはアスルが首を縦に振るまで納得しないだろう。これだから気が強い女は嫌なのだ。アスルは何も、一人旅に拘っているつもりはない。一緒にいて得をする相手なら喜んで連れて行くだろう。だが、一緒にいて面倒なことが目に見えている者の同行を許すのは癪だ。
力仕事の代行。情報収集の効率化。発症者が現れた際の囮役。内戦や人間同士の揉め事に巻き込まれた際の弾除け――デメリットも多いが、たしかに彼女がいれば何かと便利なこともある。
アスルはため息を吐く。
「……仕方ないな、わかったよ。ただ、俺のすることにあまり口出ししてくるなよ? うざいから」
「本当!?」
正義感の塊のようなこの少女が、邪念の塊のようなアスルの性格に耐えられるとは到底思えない。どうせ、すぐに嫌になって逃げだすだろう。今まで通り好き勝手に過ごして、さっさと見切りをつけてもらえば済むことだ。
「とにかく、俺もう寝るよ」
そう言ってうつ伏せにベッドに倒れこむ。
「ご飯とシャワーは?」
「いらない。風呂は後。ああそうだ、俺、眠り浅いから静かにしててよ」
朝日が昇り始めたころ、シャワーを浴びて身支度を済ませたアスルはそっと宿を出ようとしたが、目を覚ましたアキレア声をかけられて足を止めた。
「アスル、もう出発するの?」
目元を擦るアキレアにアスルはため息を吐いた。
「置いていこうと思ったのに、起きるなよ」
「ひどいことするのね」
「良い奴じゃないって、何度も言ってるだろ」
「ところで、これからどうするの?」
前髪を赤いヘアピンで留めながらアキレアが問う。
「……どうも何も、次の町に移動するさ。これ以上ここにいても仕方ないからね。風の噂で聞いたんだけど、ここから北西に向かったところに、アバンサール社の研究施設……なんて町だったかは忘れたけど、とにかく、なんとか支部があったらしいから、そこをあたってみようと思ってる」
「ここから北西で、アバンサールの施設があった町……オルディネのことかしら?」
「知ってんの?」
「よくは知らないわ。名前だけ、何処かで聞いたことがあるの」
「役に立たないね」
「さっぱり何も知らないよりはいいじゃない。ね、私がいたおかげで目的地がはっきりしたわ」
「恩着せがましいなあ。わかってるよ、連れて行けばいいんだろ」
全く以て面倒だ。今後もこのような面倒が続くと思うと非常に憂鬱である。
*
午前七時をまわったころに宿を出た。去り際に宿の主人から話を聞いたところ、ナチャーロからオルディネまでは徒歩で行こうとすると三日ほどかかるらしい。かといって他に移動手段があるわけでもないので、二人は予定通りにナチャーロを出た。
十五年の歳月で草原に囲まれてしまったアスファルトを歩く。野原の上ではひっくり返った自動車や蔓に覆われた信号機などがただ寂しく残されており、あちこちに建物の残骸が散らばっていた。
「こんなところでも、昔は人々が平和に暮らしていたのよね」
「今や見る影なし。いやはや時間の流れとアウトブレイクは恐ろしいもんだ。人がいなくなると町はここまで自然に還れるのか」
「茶化さないで、不謹慎よ」
「うるさいなあ、表現の自由だろ。……で、オルディネ、ナチャーロ間にある町は? 流石に野宿は無謀だぜ」
「……宿でもらった地図によると、このまま進んで行ったところにフォールって町があるわ。今日のうちに辿り着ける距離よ」
「そう。じゃあ、今日はそこで寝泊まりしようか。ついでに物資の調達もできればいいなあ」
「ええ。……それにしても、このあたりは静かね。発症者が見当たらないわ」
「そうやって油断するから、昨日みたいに囲まれんだよ。案外、そのへんの岩場からひょっこり出てきたりするもんだ」
アキレアの表情が固まる。アスルが指差した岩陰から、本当に発症者が表れたからだ。突進をかわし、腰の銃剣を抜こうとしてやめた。アキレアに戦わせようと思ったからだ。
「ほら、アッキー。倒し方は昨日教えただろ? 練習してみなよ」
「えっ、でも」
「迷うのは勝手だけど、俺は手を出さない。早くしないと置いてくよ」
アキレアは発症者の攻撃を何度か避け、やがて決心したようにナックルを装着した。これを片付けなければ先に進めないと判断したのだろう。アスルは彼女の動きを確認する。
アキレアはアスルの助言通り、頭、首、腕、胴と順々に脳を探っていく。覚悟を決めた途端に手際がいい。彼女の拳が右の脇腹に直撃したとき、発症者が僅かによろめいた。アキレアはそれを見逃さない。すかさず左の拳を引き、正拳突きを食らわせる。その衝撃で後ろに吹っ飛んだ発症者は、それきり動かなくなった。
思っていたよりも動きがいい。初めてまともな交戦をしたわりに、脳を見逃すこともなかった。このまま連中との戦闘に慣れれば、おそらくかなりの戦力になる。相手が一体しかいなかったからそう感じただけかもしれないが。だが、もし彼女が強くなれば、アスルが戦う必要もなくなり、少しは楽が出来るだろう。アスルは彼女に褒賞の拍手を送った。
「お見事。初めてにしては上出来なんじゃない?」
「戦ったのは初めてじゃないわ」
昨日の廃病院での戦いぶりを思い出し、首を振った。
「あんなものは戦いのうちに入らない」
「手厳しいわね」
「にしても、意外だな。アッキーって結構、発症者を殺すのに抵抗がないんだね。元は人間だったのに殺すなんて! ってタイプかと思ってた」
もし不殺生主義者だったら邪魔だから殺してたけど――アスルはさらりと本音を言う。アキレアはまず、あとから付け足された暴言を咎めた。
「そうやってすぐ人を脅すのは良くないわ。口は災いのもとって言うでしょ」
でも、そうね。彼女は神妙な顔をする。
「はじめはそう思ってたわ。自分と関わりの深かった人が、あるいは全く関係のなかった人が発症者になって、私たちを襲ってきて、誰かに殺されていくのを見たときは、本当にそうしなければいけなかったのかって、ずっと悩んでた」
「それがどうして心変わりを?」
「……助けを求めてるんじゃないかって、思うようになったの」
助け? アスルは怪訝そうに尋ねる。
「ええ。糸虫に支配された人たちは私たちを襲ってるように見えるけど、本当はその体でいるのが苦しくて堪らなくて、それで助けを求めようとしてるだけなんじゃないかって、私は思ってるの」
「つまり発症者を殺すことは、糸虫に蝕まれた連中を苦しみから解放する、慈愛に満ちた行為だと?」
「反対意見は多いけどね」
「お前がそれで納得できるなら、そう思っててもいいんじゃない? その聖人みたいな思考を他人に押し付けさえしなければ最高だ」
「わかってるわ。価値観の押し付けは賢明じゃない。それにそうやって自分を納得させても、躊躇いがまるでないわけじゃないもの。無駄な争いは避けたい、相手は元は人間。その思いが完全に消えたと言えば嘘になるわ。だから最低限しか戦いたくないの。中途半端なのよ、私」
「アッキーみたいな善人には、葛藤ってもんがあるんだろうねえ。その点、俺はそんな綺麗なことを考えて殺してるわけじゃないから楽だけど」
「自分の身を守るため。攻撃してくる以上は敵だから。放っておけば不利益だから。多くの人はそう言うわ。勿論それは正しいし、私も否定するつもりはないけど」
「違うね」
アスルが足を止める。横転した貨物トラックの向こうに五体の発症者がいるのを見つけたのだ。人間の死体を食らうのに夢中で、まだこちらには気付いていない。トラックの陰に隠れたアキレアが、身を隠さずに立ち尽くしているアスルの袖を引いた。
「迂回しましょう。まだこっちに気付いてないわ」
しかし、アスルはアキレアを無視して発症者のほうへと歩いていく。そして、はじめにアキレアを助け出したときのように、一体につき一撃ずつの攻撃で、風が通るように迅速に発症者たちを片付けた。無論、彼は無傷だ。
「ア、アスルどうして? 今のは避けられた戦いよ。わざわざ危険を冒してまで倒すことなかった」
「アッキー、俺はね、こいつらが俺の不利益になるとか、危険だからとか敵だからとか考えて殺してるわけじゃない」
発症者の頭に突き刺さった銃剣を、その体を蹴り飛ばして引き抜いた。
「邪魔だから殺すんだ。こんなののためにわざわざ遠回りしてここを抜けるなんて馬鹿げてる。殺せばそんな手間暇をかける必要もない。俺が道を歩くのに邪魔なモノは、全部壊せばいい」