一話「衰退」
始まりは一匹のネズミだった。
現在から遡ることおよそ十五年前、生物医学の研究を主な活動内容として運営していた大企業、アバンサール社が、学会でひとつの計画を発表した。もし成功すれば、これからの医療の飛躍的な進歩と、人類のさらなる長寿化が期待できると、当時のマスコミは大々的に取り上げたものだ。
「糸虫治療計画」
アバンサール社が新たに開発することを発表した人工寄生虫「糸虫」を使った治療法だ。糸虫とは名の通り糸くずのような外見の虫で、癌、ウイルス、有害微生物など、人体に悪影響を及ぼすものや様々な病原体を「捕食」する、人体には全く無害な、病気だけを食べる虫だ。
寄生虫「糸虫」が完成すれば、末期癌などで苦しんでいる人々は救われ、さらに虫の長寿化に成功したときには、人々はもう病の恐怖に怯えずに済むのだ。
糸虫開発計画は多くの人々の不安と賛同の声を浴びながらもスタートを切った。それが後に世界を破滅へと導く、最悪の寄生虫になることなど、そのときはまだ誰も考え付かなかったに違いない。
*
廃墟と瓦礫ばかりの荒野を一人の青年が鼻歌交じりに歩いていく。
襟足の長い青髪は毛先に向かって行くにつれて徐々に黒く色が変わっていき、サファイアのような青い瞳の右目と比べ、左目の色が薄い。右肩だけを露出させた、やや奇抜だがシンプルな柄のシャツを着て、ベルトに黒い銃剣を差し込んでいる。背はすらりと高く、目鼻立ちは整っているが何処か言い知れぬ怪しさを含んでいた。
青年――アスルは、すっかり乾いてしまっている大地の先の、枯れ果てた街に向かっていた。見た目の通り、人の気配などはとうになく、ただ風の歩く音だけが寂しく響いている。崩壊しきった街の中、大通りをまっすぐに進んで行くと、大きな建物が目に入った。外装から判断するに病院だったのだろう。
半開きになった入口の自動ドア――もちろん電気は通っていない――を通り抜けて建物の中に入り込んだ。中は酷い散らかりようで、ガラスの破片やスリッパ、虫の死骸などが至る所に散らばっており、松葉杖や車椅子も横倒れになったまま放置されていた。天井の蛍光灯も全て砕けており、ガラスのない窓から差し込む日の光だけが施設内を照らす灯りだった。
壁や床の至る所に赤茶色の汚れがこびりついていて、かつてここで凄惨な事件があったことを物語っている。ここが病院として機能していないことなどは火を見るより明らかだ。
「お邪魔しまぁす」
青年の呑気な声が病院内に反響していく。静かだ。中身が飛び出し、ぼろぼろになってすっかり汚れたソファの間を通り抜け、受付に向かう。カウンターの向こうの床に看護婦だったのであろう白骨化した死体があった。頭蓋骨が床に落ちている。アスルはカウンターから身を乗り出しながら死体に語り掛ける。
「お姉さん、俺さあ、包帯とガーゼがほしいんだよね。あ、絆創膏でもいいよ? 今ちょっと切らしててね、でも怪我を放置するのって危険じゃん? 何処にあるか教えてくれない?」
もちろん死体は答えない。アスルはカウンターを乗り越え、死体の傍に屈みこむと、黒ずんで汚れている服のポケットを探った。その中から取り出した包帯を見ると、わあ、と歓声を上げながら死体の肩を突いた。倒れた衝撃で死体の骨ががらがらと崩れ出すが、アスルは見向きもしない。
「なぁんだ、持ってるんじゃん。怪我人の治療に行く途中で死んだのかな? うんうん、まだまだ使えるね。ありがとうお姉さん、これ貰ってくよ」
他の救急道具はないのかなあ、独り言を呟きながら死体のもとを去り、奥へと進んでいく。白骨死体が乗った車椅子が放置されている廊下の向こうに、診察室と書かれている扉――文字はほとんど掠れてしまっている――を見つけ、車椅子を蹴飛ばしてそちらへ向かう。
扉に鍵はかかっていないようだが、以前に何かが強くぶつかったのか、扉が歪んでしまっている。アスル一人の力では開閉できそうにない。否、全力を注げばこじ開けることもできそうなのだが、無駄な体力は使いたくなかった。アスルは舌打ちして廊下を引き返す。
そのとき、遠くから何かの音が響いてきた。小さくてよく聞こえなかったが、おそらくは声だったように思う。まさか生存者がいるとも思えなかったが、アスルのように治療道具を求めてやってきた連中が他にいる可能性も否定できない。
そもそも人間の声ではない可能性も高い。警戒する心を引き締めて音のした方へと歩き始める。だが流石に、明確にどの方向から聞こえたかがわかるほど、アスルも地獄耳ではなかった。音がした方向といっても憶測である。
受付近くの崩れかかった階段を上る。なんとなしに二階を通りすぎ、三階まで上がってきた。ロビーに出たとき、人間の声が聞こえた。
「や、やだ、ちょっと、来ないでよ!」
少女の声だ。階段の先、廊下を少し歩いたところ。本来ロビーだったフロアに床はなく、二階のフロアが蓋を開けた箱のようによく見えた。
そこにいたのは一人の少女と、その少女を囲んで今にも襲いかからんとしている「ヒトの形」をした八体の生物たちだった。
輪郭自体はヒトそのものだが、皮膚がなくピンク色の肉が剥き出しになっている。鼻はなく、目は肉で埋もれ、口と思しき穴がぽっかりと開いていて、鋭い牙が見える。首が太く、顎の位置が特定しづらい。爪が異様に発達しており、鋭い。服のような布切れが体に残っている。
化け物たちは掠れた呻き声を発しながら少女に向かって爪を振り回す。赤いヘアピンを着けた少女はそれらを回避しながら、そのピンクの化け物を殴ったり蹴ったりしていた。一見無謀な足掻きにも見えたが、よく見ると両手にナックルを装着している。それが彼女の普段からの戦闘スタイルなのだろう。
「大変そうだねえ、お嬢さん?」
アスルの声に少女は酷く驚いた顔をこちらに向けた。その間も八体からの攻撃を避け続けている。相手の数が多いので、それだけで精一杯なようだ。
「何かお礼してくれるなら助けるけど、どう?」
「お、お礼?」
「そうだなあ……あ、一階に扉が歪んでて入れない部屋があったんだよね。お嬢さん、可愛いし特別に安くしといてあげる。そこを開けるのを手伝ってくれるなら、そいつらから無傷で助けてあげるよ」
「それ、本当?」
「嘘なわけないじゃん、俺強いよ?」
少女が化け物を殴ろうと突き出した腕が掴まった。少女はぎょっとした顔で、おそらく咄嗟に叫ぶ。
「わかった。わかったから助けて!」
次の瞬間、少女を掴んでいた手がずるりと下へ落ちた。
手には黒い銃剣。
切断された腕の主の肩の上、青い目は少女の赤い目を見て笑う。
「交渉成立だ」
腕に続いて、次は化け物の首が飛んだ。
残り七体。
倒れていく肩から飛び降り、着地したすぐ目の前にいた一体の腹を刺し、後ろから飛び掛かってきた肩を貫く。
残り五体。
バケモノたちの標的が少女からアスルへと切り替わった。残り五体が一斉にアスルに襲いかかる。
一体目は太股を、二体目は額を貫かれ、三体目は肩から下を落とされ、四体目は右胸を切り裂かれ、全てが彼のたった一撃によって倒れ、動かなくなった。
そして最後の一体も、下腹部を突き刺されて実にあっさりと倒れてしまう。
八体全てのバケモノを片付けるのに三十秒もかからなかった。少女は床にへたり込み、ただ呆然と青年の無駄のない戦いぶりを眺めていた。青年は刃に付いた血をバケモノたちの衣服で拭い、鞘に納める。そして少女に手を差し伸べ、彼女を助け起こすと、頭から足先までをざっと見た。
「はい、無傷。約束通り、一階の扉を開けるの手伝ってね」
「え、ええ……わかったわ。助けてくれてありがとう。あなた本当に強いのね」
アスルが階段に向けて歩き出すと、少女も後ろからついてきた。
「なんでこんなところに一人で来たわけ?」
アスルの問いに少女は少し長くなるけど、と前置きをしてから答えた。
「ここの近くにある町で知り合ったお婆さんが、ここに入院してたらしくて、お孫さんから貰ったペンダントを病室に忘れてきたらしいの。今、そのお孫さんは消息不明で、生きているかどうかもわからなくて、そのペンダントが唯一の形見になるかもしれないから、どうしても取り戻したいのですって。でもお婆さんは足が悪いし、とてもじゃないけどこんなところにまで来ることはできないから、私が代わりに取りに来たの」
少女はアスルにオモチャのペンダントを見せると、大事そうにポケットへ仕舞った。
「それだけのために? 物好きだね」
「よく言われるわ」
「そのせいで死にかけたのに」
「それは……少し、油断してた節があるわ。まさか、こんな人気のないところにまで『発症者』がいるなんて」
「馬鹿だね、連中は何処にでもいるよ。今は、そうやって油断した奴から死ぬ時代なんだから。次からは気を付けることだね」
発症者――というのは、先ほどのバケモノたちのことだ。発症者は「糸虫病」という病を発症した――発症したと言うよりも侵蝕されたと言うほうが適切なのだが――者たちだ。糸虫病とは件のアバンサールが開発した寄生虫「糸虫」の未完成品による病だ。
今からおよそ十五年前のある日、実験の失敗が続いていた研究所から、試作品の糸虫を体内に宿したネズミが脱走した。すぐに研究員らによる捜索が行われたがネズミを見つけ出すことはできず、ネズミから野良猫や他の動物たちへと寄生虫の感染が起こり、細かい経路はともかく、糸虫は人間にまで感染した。
その結果、人間の病気を捕食するはずの糸虫は、人間を捕食する最悪の寄生虫と成り果てたのだ。
糸虫に寄生された者は「感染者」あるいは「寄生者」と呼ばれ、糸虫に寄生されている状態のことを「糸虫病」と呼ぶ。糸虫病は初期症状、中期症状と進行していくうちに、糸虫は宿主が気付かないうちにどんどん体内を侵蝕していき、末期症状から「発症」と呼ばれる段階で、彼らは人間であることをやめてしまう。
末期症状の感染者は糸虫の侵蝕が進んだことにより理性が消えて暴力的になるだけで、まだ他の人間と変わらない姿をしている。しかし、完全な発症者は違う。先ほどの奴らのように、ヒトのような形をしているがヒトではない外形の者がいれば、完全にヒトであった面影が見られない外形の者もいる。完全に発症してしまうと、完全なクリーチャーとなるのだ。ちなみに、糸虫の感染と発症があるのは人間だけではなく、犬や猫、鳥類などの動物も例外ではない。
感染経路は末期症状、あるいは発症者の体液を傷口や目などから体内に取り込むことによって感染するケースがほとんどだ。彼らの体液には糸虫の卵が大量に含まれているので、怪我をした状態で彼らの血を浴びる、あるいは彼らに噛みつかれる、ということが原因で簡単に感染してしまう。故に、戦闘の際には如何に無傷でいるかが重要になってくるのだ。
また、これは特殊な感染ケースだが、糸虫を直接体内に取り込むということで寄生される者もいる。倒したクリーチャーの遺体から、まだ生きている糸虫が次の宿主を求めて大量に出てくることがあるのだ。糸虫は宿主がいない状態になると放っておけば数時間で死んでしまう。だが、敵がいなくなったと安心して死体を燃やすなどの処置をしないままその近くで仮眠を摂ると、傷口や口、目、鼻などから、移動してきた糸虫が入り込むことがある。眠っている間のことなので、新たな宿主は寄生されたことに気付かない。成虫はすぐに体内で卵を産み、そして、あっという間に発症させる。
他の健常な人間に害をなす――寄生虫を感染させてくる――末期症状の感染者と、完全に発症してしまった感染者はまとめて「発症者」と呼ばれ、完全な発症を経た者は「覚醒者」とも呼ばれているが、細かい呼び名の差分はともかく、寄生されて人々を襲うならとにかく皆「発症者」だ。
発症者――というより糸虫――は自らが繁殖することを第一に考えているので、人がいない廃墟などにはいないと思われがちなのだが、先にアスルが言ったように、それは誤った認識だ。発症者は何処にでも存在する。例えそこに人がいなくとも、虫は生命体が集まる場所を判断できるほど賢くはないのだ。
再び診察室の前に到着する。何もこの部屋に拘る必要はないのだが、簡単に開けられる部屋は大抵、前の騒ぎで滅茶苦茶になっていたり、アスルより先にここへ来た人間が荒らしているので、こういった簡単には入れない場所を物色するほうが目当てのものが見つかる可能性が高いのだ。
「この扉?」
「そう。鍵はかかってないのに開かなくてさ」
無駄に力んで疲れるのが嫌だ、とは言わなかった。少女はドアノブを下げてガタガタと押すと、腰に手を当てて息を吐いた。
「ドア自体が歪んでるみたいね。すぐには開かないはずだわ」
「どう、開けられそう?」
「任せて。こう見えても力はあるのよ」
少女は軽く拳を作って笑うと、足を肩幅ほど広げ、もう一度ノブを下げて扉を押す。ギ、と音を立てて僅かに隙間が開いた。少女は少し後ろに下がって助走をつけると、歪んだ扉を思い切り蹴りつける。派手な音と共に扉が大きく動き、人が通れるくらいの隙間が出来た。
アスルはパチパチと手を打ち鳴らす。
「お見事」
少女は隙間に入り込んでドアの枠に足をかけ、扉の隙間を押し広げると、アスルにこれでいいかしらと確認をとった。アスルは部屋の中に入ってあたりを見回す。
「十分だね」
「ここに何か用があったの?」
「包帯とかガーゼとか、治療道具が欲しかったんだよね。俺は怪我をするつもりはないけど、万が一ってこともあるし。補充は大事だと思って」
「治療道具なら町に行けば売ってるわよ?」
「買うと高いじゃん。それに量も少ないし、ぼったくりだよ」
「でも、これって空き巣と同じなんじゃ……」
「何で? 治療道具っていうのは、生き物の怪我を治療するためにあるんだ。こんな、怪我人も来ないような廃墟で棚の中に仕舞っておくための物じゃない。このまま本来の用途で使われることなく、永遠に引き出しの中に片付けておいても意味がないだろ。それだったら、本当にそれを必要としている人のもとで大事に使用されていくほうが道具も喜ぶってもんだよ。それに、もし俺が怪我をしたときに包帯もガーゼも絆創膏も何もなくて、ろくな処置が出来ずに傷口を放置して、膿んで悪化したり痕になったり、発症者に襲われて感染したらどうするわけ? 誰にも使われない道具を持ち出すのを渋ったせいで、残り少ない人類がまた一人減ることになるかもよ? ひとつの怪我が死に繋がるようなこのご時世、施設の物色に罪悪感を抱いてる余裕なんてないよね?」
物置棚を漁りながらまくし立てるアスルに少女はバツが悪そうにそれもそうね、と頷いた。彼女は非常に正義感の強い娘らしい。この世の中には珍しいタイプだ。
「それに、俺だってそこまでズボラじゃないから、引き出しを開けっ放し、物を出しっぱなし、これぞ窃盗犯! ……みたいな礼儀のない漁り方はしないよ。開けたら閉める、出したら戻す。これが物色の最低限のルールってもんだ」
ひと通り部屋を物色し、必要そうな物を全て腰元の小物入れに仕舞うと少女を振り返った。
「これくらいかな。……それにしても、お嬢さん。ずっと思ってたけど、発症者の倒し方がなってないね」
「なってない?」
「そう。いくら体を鍛えていても、戦い方がわかってないと奴らを殺せないのも当然だ。もう町の外に出るのは控えたほうがいいんじゃない? 死ぬよ」
「でも私……。……その、発症者の倒し方、あなたは知ってるのよね? 私にも教えてくれないかしら」
「何でさ? まあ、教えるのは別にいいけど、俺は見ず知らずの人間にタダで情報をあげるほどいい人じゃないから、ここから先は追加料金が発生するけど――それでもいいなら教えてあげるよ?」
「外で生きていくにはそれが必要なんでしょ?」
「今の世の中で旅をするなら必須な情報だよ。ちゃんと知ってる人がどれほどいるかわかったもんじゃないマイナーな情報だけど、知っておいて損はないね」
「だったら尚更。追加料金って言ったけど……何をすればいいの? 私に出来る範囲でなら何でもするわ」
「そうだなあ……ああ、お嬢さん、君はつくづく運がいいね。俺がこんなにサービスするなんて滅多にないことだ」
アスルの呟きに少女は首をかしげる。アスルは腹をさすった。
「俺、今チョー腹減ってんの。昼飯ご馳走してくれるなら、あいつらの倒し方教えてあげる」
少女は少し笑ってアスルに向かって手を差し出した。
「お安い御用だわ。私はアキレアよ。アキレア・カルマン」
「変な名前だね」
「そこはいい名前って褒めるところじゃないの? ……あなたの名前は?」
アスルは少女と握手はせず、代わりに手に入れた包帯の一つを握らせた。
「アスル・フロマ・タークオイズ。俺、肉が食べたいな」