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#1

 ある日、俺は幡ヶ谷に呼ばれてヤツの部屋にあがった。向こうから誘ってくるとは珍しい。今日も鍵は開けっ放しだった。

「いきなり何だよ」

「やあ。これを渡したくてね」

 部屋にあがるとまずあの白い椅子に座らされた。待っていると、幡ヶ谷がやや大きめの箱を持ってやって来た。先日旅行に行ったので、そこで土産を買ってきてくれたのだという。

「本当に珍しいな、土産なんて」

「まあ、土産を渡す相手なんてそういなかったからね」

 思わず吹き出した。視線を上げるとヤツが睨んでいた。

「すまん。帰ったらいただくよ。……ん? 用件って、これだけか?」

「そうだな、メインの用事はこれで終了だ」

 だったらわざわざ呼ばないでもらいたい。俺も刑事だ、いつ招集がかけられるかわからない。推理小説オタクなら警察がいかに忙しいかわかるだろうに。

 それはそれとして、この土産はありがたい。忘れないようにバッグの横に置いた。

「メインってことは、他にも用事があるのか」

「ああ。だがこれはそれほど重要ではない。帰りたかったら帰れば良い」

「いや、いいよ。言えよ」

「……わかった」

 幡ヶ谷が俺の向かい側の席に座った。

「これは、土産話だ」

「土産話?」

「ああ。旅先で、こんなことがあってね」

 と、嬉しそうに笑みを浮かべて、目の前の男は語り始めた。





 久々に雨の降ったその日、幡ヶ谷は大学時代の同級生、清水蒼甫に会うために群馬県某所へ向かっていた。蒼甫は名家の子息で、父親の誕生日には盛大にパーティーを開くのだ。幡ヶ谷も毎年招待されており、2人でワイングラス片手に時事問題や小説について語り合っている。学生時代、最も話が合うのがこの蒼甫だった。

 駅に着くと、蒼甫が傘を2本持って待っていた。改札越しに目で挨拶する。彼等は大きく手を振ったりはしない。そもそも2人とももう30代。やっていたら恥ずかしいか。

「よく来たな」

「毎年ありがとう。お父様は?」

「ああ、まだまだ元気だよ。あ、タクシーで行こう」

 駅前に停まっているタクシーに乗り込み、清水家へ向かう。

 車中2人は最近の仕事の話をしていた。友人は新聞社に勤務している。1年の殆どを東京で過ごしているらしい。

 幡ヶ谷の本職は勿論探偵ではない。翻訳業だ。捜査するのはあくまで事件であり、浮気調査などやる気がしない。それに翻訳をしていれば海外の最新推理小説を1番に読むことが出来る。そのジャンルの本も何冊か翻訳したことがある。

 そんな話をしているうちに、タクシーは町中から少し離れた所にある坂道を上り始めた。木や草が生い茂っている。都会ではあまり見られなくなった風景だ。今日は雨が降っているが、晴れたときは様々な虫も見ることが出来る。以前パーティーに招待されたとき、幡ヶ谷は大きなカミキリムシを見たことがあった。虫には興味が無いので大して感動はしなかったが。

「あ、そこで停めてください」

 約15分程で会場に到着した。料金は蒼甫が支払う。幡ヶ谷は万札しか持っていなかったので、後で崩して渡すことにした。

「ようこそ我が家へ」

 古き良き時代を思わせる日本家屋。屋根は瓦張り、玄関は引き戸。縁側もあって、庭には色とりどりの花や木が植えられている。中に入ると、旅館のように並んだ靴箱に目がとまる。パーティーを開くことを考え、帰りに客人が靴を間違えないよう設置したのだ。

 靴を仕舞って奥に進む。複数の個室がある。台風などの影響で帰れなくなってしまったときに客人が泊まっていくのだ。パーティーと言っても来るのは10数名であるため清水家は何ら困らない。来るメンバーも大体固定されている。更に進むと大広間があり、食事はそこでとる。ここから見える庭は本当に美しいのだが、今日は運が悪かった。

「親父」

 蒼甫が声をかけると、和服を着た老人、清水幸三が顔を2人の方に向けた。

「おお、蒼甫か。幡ヶ谷君も来てくれたんだね」

「毎年ありがとうございます」

「いやいや、こちらこそ。息子と仲良くしてくれてありがとう」

 ここに居るのは蒼甫、幡ヶ谷、幸三の他、蒼甫の母清恵、兄の清水将司、その妻の綾子、三女の晴子、彼等の叔父の和彦、そして執事の倉田がいる。今年は親類が殆どだが、かつては有名企業の副社長らが来たこともある。

 2人が来たのがわかると和彦が立ち上がって歩み寄った。紳士的な男性である。ベージュのスーツを着ている。

「お久しぶりです」

「どうも。読みましたよ」

 と、和彦がスーツの内ポケットから1冊の本を取り出した。幡ヶ谷が翻訳した小説だった。

「光栄です」

「あれ、怪我ですか?」

 蒼甫が和彦の手を指摘して尋ねた。包帯を巻いている。

「ああ、この前道で転びましてね。大事には至らなかった」

「あら、紀之さんが来てないわね」

 と清恵。紀之とは蒼甫の叔父で、和彦の弟にあたる。毎年パーティーに参加しているのだが、酒癖が悪く、おまけに無類のギャンブル好き。そのため他の参加者からは避けられている。幡ヶ谷も前に絡まれたことがあったが、そのときは蒼甫が助けてくれてどうにか回避することが出来た。1度絡まれるとすぐには離してくれない。面倒な人間だ。幸三、清恵も心配しているそぶりを見せるが、内心ほっとしている筈だ。蒼甫の話では、前にも幸三と言い争いになったことがあるとか。

「良いじゃないですかお母様。私、あの人怖いわ」

 綾子が言った。この中では最も若い花も同じ気持ちのようだ。

「だけど、今日は大事な話があるからって言ってたのよ?」

「大事な話?」

「やめておけよお袋。どうせ金を貸してくれ! みたいなお願いだろ?」

「蒼甫、口を慎め」

 幸三に睨まれて蒼甫は黙った。

 なんだかんだ、彼の心配をする者は1人もいなかった。数分もすると、場内に再び活気が戻った。幡ヶ谷も蒼甫と雑談を楽しんでいる。

「ええ? 事件を?」

 これまでに2度殺人事件を解決したことも話した。蒼甫は口が堅いから話しても心配はない。

「警察にたまたま学生時代の親友がいてね。こんな経験は滅多に出来ない。小説の主人公になった気分だ」

「ははは、それはいいけど、あんまりその刑事さんに迷惑かけんなよ。あ、ちょっとトイレ行ってくるわ」

「ああ」

 蒼甫がトイレに向かうと、それを待っていたかのように、清水晴子が幡ヶ谷の前に座った。幡ヶ谷はとりあえず会釈した。

 年齢はおそらく幡ヶ谷とほぼ同じだ。短めの黒髪に、小さな顔。子供のようなあどけなさを感じる。桃色の唇は化粧か生まれつきのものか、輝いて見える。

「こんにちは」

「はい」

 彼女と話したことは今まで1度も無かった。晴子の澄んだ瞳に見つめられると幡ヶ谷も緊張してしまう。

「僕に何か?」

「あ、ええっと……」

 しばし沈黙。幡ヶ谷は極力彼女の目を見ないようにした。目を凝視すると相手を威圧してしまう。

「ほ、翻訳のお仕事をされてるんですってね」

「はい。もともと本が好きで。海外小説を誰よりも早く読みたいがためにこの仕事を選んだんです」

「そうなのですね」

 まるでお見合いだ。好きな本、休日は何をしているか、などなど。トイレから戻って来た蒼甫は幡ヶ谷達の様子をうかがい、叔父と兄の会話に混ざった。

「面白い方ですね、幡ヶ谷さんって」

「ありがとうございます」

 頬を赤らめる。異性と会話をしてもこのような反応は起きないのだが。初めて会話をかわしたからだろうか。

 晴子がすっと近づいてきた。緊張して体が強ばる。次に顔を幡ヶ谷の耳元に近づける。顔の右半分がムズムズした。

「幡ヶ谷さん」

「何でしょう」

 深呼吸をして心を落ち着かせた。

「その、警察の方とお知り合いだというのは本当ですか?」

「え? ええ」

 蒼甫との会話を聞いていたらしい。

「あの、頼みがあるのですが」

「頼み?」

「その……」

 晴子の言葉を遮るようにしてインターホンが鳴った。全員会話を止めた。あの叔父だろう。蒼甫が玄関に向かった。紀之にはこの家の鍵を渡していない。また揉め事が起きたら、次は警察沙汰になりかねない。名家の清水家にとって致命傷になる。

 幡ヶ谷は晴子に顔を向けた。まだ彼女の頼み事を聞いていない。

「すいません、頼みたいこととは?」

 晴子は目を逸らして答えようとしない。廊下の方を見ないようにもしている。

「あの、頼み事は……」

 蒼甫が広間に駆け込んだ。ほこりを立てるなと幸三が一喝した。

「何事ですか、蒼甫君?」

「警察、警察だった」

 客がざわつく。誰もが最悪の事態を想定していた。幡ヶ谷は無関心だ。友人宅の大問題とはいえ、彼に何か起きるわけではない。そして晴子は、目を大きく見開いて廊下を見つめていた。その顔からは恐怖よりも、何故か希望を感じた。

「何だ蒼甫、早く言え!」

 幸三がせかす。他の親族が蒼甫に熱視線を送る。鼓動と呼吸をどうにか落ち着かせ、唾液を飲み込んでから、蒼甫は口を開いた。

「の、紀之さんが、死んだ」

 約10秒沈黙が続いたのち、幸三が深いため息をついた。当然ながらこれは安堵の息である。

 まさかこんなことが起きるとは。非科学的なものを滅多に信じない幡ヶ谷だったが、このときばかりは天の神に感謝した。

 初めて事件に遭遇した。こんな偶然滅多に無い。嬉しさのあまり、幡ヶ谷は思わず立ち上がった。

 清水紀之の遺体は屋敷付近の森で発見された。木の枝にロープを縛り、首をくくって死んでいたという。所持品は全てそのまま、物取りの犯行ではないようだ。

 紀之に対する幸三等の態度は冷たいものだった。1時間後に聴取がとられたが、親族の殆どが紀之の批判ばかりしていた。和彦は紳士的な態度で聴取に臨んだ。彼は紀之の悪口は言わず事実のみを話した。最近の紀之がどんな様子だったか、自殺をほのめかすようなことは言っていなかったか、などである。2人は兄弟だ。仲はよくなかったため頻繁には連絡をとっていなかったが、つい先日、珍しく電話が掛かって来たのだという。

「金を貸してほしいとのことでした。確か、400万」

 幸三がしかめっ面をしている。彼は全く知らなかったのだろう。

「お金はどうされたんですか?」

「貸すわけがありません。出来ないと拒否しました。紀之はこの家を呪ってやると言っていましたが、まさかこんなことになるとは」

「またギャンブルでしょう」

 執事の倉田が言った。

「紀之様はギャンブル好きで、1回大金を当ててからはますますのめり込むようになっていきました」

 最悪の流れだ。ギャンブルはひとたび当たると味を占めてさらに大金をつぎ込むようになる。それが人間心理というものだ。そう何度も当たるわけが無いのに、彼等は大金の幻を延々追い続けるのだ。

「自分の所持金が底をつくと、紀之様はこの家の財に手を出しました。ええっと……この掛け軸を売ろうとしたときは、和彦様が止めてくださいました」

「へえ、そんなに価値のある物なんですか、この掛け軸?」

 聴取に来た河上大貴警部はつまらなそうに言った。きっと、こういう家が嫌いなのだろう。観察すると、コートは薄汚れてボタンが取れかかっている。靴下も何だか汚らしい。服にあてる予算が無いのかもしれない。

「この掛け軸は有名な絵師の作品ですからねぇ」

 素人にはわかるまいと言わんばかりに清恵が説明した。河上は何度も頷いてただ「へえ」と適当に返事するだけで、そんな彼の態度を見て清恵はキッと目を見開いた。

「えー、亡くなった紀之さんの件ですが……現在鑑識が調べてますが、おそらく自殺でしょうな」

「おそらく? 困るんだよ、適当な態度をとってもらっちゃあ! 真面目に捜査してもらえないか!」

 幸三が怒った。現場の森は清水家が所有する土地ではない。紀之がそこで自殺したとなると、清水家が賠償請求される可能性がある。彼等が懸念しているのはその点だった。

 老人に怒鳴られて、河上はより一層面倒臭そうな顔をした。

「あの」

 幡ヶ谷が手を挙げた。

「紀之さんの首には、どんな痕が残っていましたか?」

「痕? さあ、首吊りなんだからこう、輪っかみたいになってるんじゃないですか? そもそもあんた誰だ?」

「僕の友人です」

 蒼甫が答えた。幡ヶ谷は軽く会釈してから更に続けた。

「自殺した場合、ロープの1カ所に付加が掛かるだけですから、遺体にもその部分にしか痕は残りません。しかし絞殺の場合は、いまあなたがおっしゃったように、全体に跡が残ります」

 幡ヶ谷の説明に皆が聞き入った。彼が推理小説マニアだということは前々から知っていたが、これほどまでの知識を持っていたとは。

 そこへ青い制服を着た鑑識係の男がやってきて何か耳打ちした。連絡を受けると、河上はゆっくりと立ち上がり、幡ヶ谷を睨みつけた。

「殺人の可能性がある」

 清水家の親族が安堵のため息をついた。

「そこのあんた!」

 河上が幡ヶ谷を指差した。こうなることは何となくわかっていた。少しでも捜査が円滑に進むようにとアドバイスすると、こっちが犯人だと言われてしまう。以前読んだ中にそんな小説もあった。

「よく殺しだって気づいたなぁ」

「自分で学びました。……しかし、僕よりも事件捜査に多く携わっているであろうあなたがこのことに気づかなかったというのも少々問題かと思うのですが」

「この野郎。お前、本当は事件の真相を知ってるんじゃないのか? ああ? 本当はお前があの森でガイシャを……」

「いえ、それはありません」

 蒼甫がフォローしてくれた。警部はますます不細工な顔になってゆく。

「彼は今日来たばかりですし、ここまで一緒に来ましたから」

 これは助かった。小説のように、家族に刑事局長はいない。誰かがこうしてアリバイを証明してくれないと自分で説明するのは難しかったろう。何しろ今回の警部補がこの有様なのだから。幡ヶ谷が蒼甫に会釈すると、蒼甫も片手を小さくあげてニッと笑った。やんちゃ坊主のような笑み。知り合った頃から全く変わっていない。

 自身の推理が成り立たず、警部補は幡ヶ谷と蒼甫を睨みつけた。その後も1人1人聴取したが特に進展は無く、河上らは渋々引き上げていった。あの様子では捜査協力は出来ないだろう。今ある情報で独自に推理する他ない。

「まったく、何なんですかあの人は!」

 清恵はまだご立腹のようだ。

「すまんな幡ヶ谷君。うちの問題で疑われてしまって」

「いえ、人が亡くなっているのでこう言うのは不謹慎ですが、小説の主人公になった気がして嬉しいです」

 やはり誰も怒らない。むしろへらへらと笑みを浮かべている。確かに生前の紀之には多くの問題点があったが、これほどまで親族から嫌われているのを見ると何とも言えない気分になる。

 望まれた死。今回の事件は少々面倒だ。情報を聞いても先程のように主観が入ってしまうのでは、一向に事件の全容が見えない。この中でまともな話が聞けそうなのは蒼甫、和彦、それから晴子くらいか。

 晴子が言いかけたことも気になる。警察が来る前までの彼女の顔は希望に満ちていた。それが態度を一変させて、晴子は口を閉ざしてしまった。何が彼女の意志を変えたのだろう。

 ここにいる者達は暫く帰宅は許されないだろう。明日も河上が来る筈だ。

「みんな、今日は家で泊まっていくと良い」

「ええ? 困るよ父さん」

 と、長男将司。近々交渉があるため早く帰りたいそうだ。

 本当に面倒な男だ。幸三が呟いた。

 蒼甫は幡ヶ谷の心配をしてくれた。

「仕事は大丈夫なのか?」

「ああ、新しい仕事は入っていない。それに興味があるからな、この事件」

「幡ヶ谷らしいな、全く。でも深入りするなよ。あのゴリラがまた何か言ってくるかもしれないからなぁ」

 ゴリラとは河上のことである。自分の考えが外れたときに見せる不細工な表情を見てそう名付けた。なかなか的を射たいいあだ名だ。

「少し出る」

 幡ヶ谷はそう言って広間から出て行った。そのまま玄関に向かい、警部達が居ないのを確認してから外に出た。

 周りをキョロキョロと見回してから、彼は森の中へ。あてになる情報が欲しい。殆どは鑑識が持っていってしまっただろうから期待薄だが、彼等が見落とした小さなカギがあるかもしれない。誰かに襲われたのだとしたら、紀之氏はここで暴れたはずだ。森の中を逃げたかもしれない。

 現場を見つけた。黄色いテープで囲まれている。外から見た感じでは特に目立つ物は無い。土が抉れた様子も無い。足跡はどうだろう。地面を見回したが自分のものしか無かった。警察も現場保存のために細心の注意をはらっている。となると2つのケースが考えられる。ひとつは、紀之氏が前日に殺害されたというもの。見たところ地面は雨でぬかるんでいる。仮に今日、清水家に来る途中に襲われたのだとしたら足跡や暴れた痕跡がまだ残っているはずだ。つまり殺害されたのは雨が降っていなかった昨日、あるいはそれより前になる。

 もう1つは、現場がここではなかったというもの。先ほどと同じで根拠は足跡のみだが、こんなに広く迷いやすい場所を犯人が選ぶだろうか。1回で殺すことが出来れば良いが失敗してこの中を逃げられでもしたら殺害は困難だ。もっと別の環境で紀之を殺して、自殺に偽装するためにここへ遺体を持って来たとも考えられる。

 それにしても、瀬川が居ないと捜査はこんなに面倒なのか。推理力、洞察力についてはあまり褒められたものではないが、前回は彼が情報を持って来てくれたおかげで容易に推理することが出来た。同窓会で瀬川に会ったことはまさに神からの贈り物だ。

 新しい証拠は見つからなかったが、2つの可能性が出て来たのは良い収穫だった。そろそろ日が暮れる。今日はここらで調査を切り上げることにした。





 流石は名家、夕食が豪華だった。金目鯛の煮付け、鯖の味噌煮、肉じゃが……。高級料亭に来たみたいだ。何でも1流のシェフを雇っていて、パーティーの日は必ず彼等を呼ぶのだそうだ。

「当然料金は取りません。夕食をお楽しみください」

 倉田の挨拶を聞く者は誰もいなかった。皆料理を頬張り、世間話をしている。そんな中、幡ヶ谷はずっと黙っていた。料理よりもまずは事件。何か見落としは無いか、今日の流れを脳内で再現する。

「食欲が無いのですか?」

 誰かが話しかけてきた。見ると、和彦が笑みを浮かべて幡ヶ谷を見つめていた。

「いえ、事件のことが気になってしまって」

「ははは、面白い方だ。翻訳家なのに、まるで探偵みたいだ」

「そうですね」

 和彦が自分のコップを持って幡ヶ谷に見せた。ああ、乾杯か。自分もコップを持ち、2人で軽くそれを上に掲げた。これが正しい乾杯のやり方なのだとか。

「どうですか、事件は解決しそうですか?」

「ええ、まだ途中段階ですが、必ず解決するでしょう」

 幡ヶ谷は自分の立てた仮説を話した。推理小説で培った知恵はかなりのもの。和彦も話を聞いているうちに真顔になってしまった。出かけてからここに戻るまでの短時間でそこまで推理しているとは驚きだった。しかも納得のいく説明だった。

「本当に凄いな」

「ありがとうございます」

「さっきあなたは、小説の主人公になった気分だと言っていましたが、私もその小説の登場人物になった様です」

「ええ、ここにいる皆様全員が重要な登場人物です。当然、紀之様も」

「ほう、なるほど」

「……話は変わるのですが、紀之様は外で誰かに恨まれているようなことはなかったですか?」

 実の兄弟であり、私情を挟まない的確な証言をした和彦。彼の話なら信用に値する。

「さあ。でもいたんじゃないでしょうかね。例えばギャンブルで知り合った相手とか」

「そうですね」

「まあ幡ヶ谷君、今は夕食を楽しみましょう」

「ふふふ、はい」

 そういえばまだ何も口にしていなかった。和彦のおすすめは鯖の味噌煮。早速口に運ぶ。確かに美味しい。味付けもちょうど良い。他の料理も口にしてみるとどれも絶品だった。

 話はどうでも良い内容から、幡ヶ谷の恋愛観へ。

「幡ヶ谷君は、もうお相手はいるのですか?」

「いいえ、まだ。これからも相手は出来ないのではないかと思います」

「そうですか。晴子はどうですか?」

 和彦に言われて、幡ヶ谷は縁側付近の席に座る晴子を見た。あの儚げな表情が美しい。

「お綺麗です」

「ありがとう。実のところ、晴子はあなたのことを気に入っているようでね」

 晴子と目が合った。幡ヶ谷は特に変化は無かったが、晴子は顔を赤らめ、視線を外へ逸らしてしまった。

「晴子はどうですか、あなたの伴侶に」

「いえ、僕には勿体無いです」

「そんなことはありません。我々も幡ヶ谷君が相手なら安心だ」

 突然持ち上がった縁談に幡ヶ谷は戸惑う。晴子のことは嫌いなわけではないのだが、結婚はどうしても踏み出せない。結婚とは他人同士が同じ屋根の下で暮らすこと。当然我慢しなくてはならないこともある。問題はそこだ。自分の生活リズムが狂うと仕事に支障を来す。それに、せっかく瀬川と知り合いになって事件捜査が出来るようになったのに、妻を迎え入れたらそれも出来なくなる。1人分で済んでいた予算が倍に増えるし、生活維持のために仕事に本腰を入れなければならない。捜査協力をする余裕など無いだろう。

「考えさせてください」

 和彦は残念そうな顔をした。清水家の1人娘の身を案じているのだろう。が、すぐに笑顔を作り、

「そうですね。これはあなたの人生です。じっくり考えて」

 と言って席を外し、幸三のところへ向かった。

 自分のことが気になっている。そう聞かされると何となく気になってしまう。幡ヶ谷は晴子に歩み寄った。晴子は、初めは驚いていたが、すぐに笑みを作って幡ヶ谷を隣に座らせた。

「お父様と話をしておりました」

「そうですか。父も喜んでいると思います」

「僕も嬉しいです。……すみません、先ほど言いかけたことは何だったのです?」

 幡ヶ谷の質問に、晴子は真顔になった。瞳の奥に闇が見えるようだ。心を読まれまいと、彼女はまた視線をそらした。

「気になって仕方がないのです」

 俯きながら考える晴子。よく見ると口元が小刻みに震えている。何が恐ろしいのだろう。

 1分ほど間があって、晴子は再び幡ヶ谷を見つめた。さあ、何を語る?

「ごめんなさい」

「え?」

「まだ、胸の内に閉まっておきたいのです」

「では、何故先程?」

「私にも、わかりません」

 晴子はちぢこまってしまった。

「ただ、話したら、何かが壊れてしまうような気がするのです」

「壊れる?」

「失礼します」

 とうとう部屋を出て行ってしまった。

 壊れる? いったい何が? 晴子の真意が全く読めない。

 ただ、それを知ることによって、この事件全体を覆う黒い影が晴れてゆくような気がしてならなかった。

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