#1
暗い部屋。
カーテンが閉め切られ、物は円を描くように放られている。中央には椅子が1脚、そこに小太りの男性が1人座っている。男はロープで胴と手足を縛られ、口にはタオルを噛まされている。頭の上からびっしりと汗をかいている。雫が目に入ってしまい辛そうだ。口の隙間へ汗が流れ込むと、塩辛い味が口内に広がった。
男の周りをゆっくりと回る者が1人。顔は真っ白な人型のマスクで隠している。白いジャージを着て、手には軍手をジャージの袖が隠れるようにはめられ、足は靴下、さらにそれをビニールが覆っている。
縛られた男は何か叫んでいるが、会話の自由を奪われ言葉にならない。そんな彼を白い怪人はあざ笑う。だが声を聞かれたくないので極力堪えるようにしている。
そろそろ飽きてきたようで、怪人は次の作業に移った。部屋の入り口に持参したボストンバッグが置かれている。その中から1つお気に入りの玩具を取り出した。それを見て男はまた叫ぶ。しかしその叫びは誰にも届かない。
軽快なステップを踏んで怪人が歩み寄る。
何だ、何をする。男はそう言いたかったのだが、やはり上手く話せない。相手も質問に答えてくれない。オーバーに首を傾げて、態度で男を嘲笑している。そして、今取り出した玩具を男の体にあて、あることをした。あまりに恐ろしくて、男は思わず失禁してしまった。
数秒後、ある現象が始まった。男の首から床にかけてひと筋、赤い線が描かれた。血だ。血が流れ出ている。目隠しはされていないから、己の血が流れ出るのを見続けなければならない。目を瞑っても液体が流れる感触が彼を襲う。
止めなければ。男は自分の体を揺らして椅子を倒した。下に敷かれたカーペットに自分の首をすりつけようとしている。こんなことで血が止まるとは思えないのだが、死が迫っているこの状況、まともな判断など出来やしない。狂ったように首をすりつけようとする様を、怪人は手を叩いて楽しんでいる。
しばらくすると男の動きが収まってきた。体内から必要な量の血液がどんどん流れてしまい、意識が朦朧としている。こうなるともう楽しくない。怪人はタオルを外してやり、ボストンバッグを持って外に出て行った。
「ま、待て、待て……」
漸く声を出すことを許されたが、もう先はあまり長くないようだ。
正体不明の白い影に向けた「待て」。これが、彼の最期の言葉となった。
俺はまだあの事件のショックから立ち直れていない。衝撃が強すぎた。あんな事件が本当に起きるとは夢にも思わなかった。最近は理解しがたい動機から生じる犯罪が多いため、不謹慎な言い方だが、ああいうドラマチックな事件は本当に珍しいのだ。
よくわからない事件。例えばこれだ。
「被害者は野本茂雄42歳。証券会社勤務。死因は……」
「失血死ですか」
誰が見ても失血死だとわかる。白いカーペットが赤黒く染まっている。乾いた血だ。
これで3件目。皆同じく失血死、しかも大量に流れ出ている。これはこれでショックの大きな事件か。
マンション内で起きた事件。住人が何かを目撃しているかもしれない。
「首はどうだ?」
「ああ……ありますね」
現在起きている事件と同じ犯人の仕業だ。犯人は必ず、首筋に小さな穴を残している。吸血鬼を気取った者の犯行。くだらない輩がいたものだ。しかしこの様子を見ると、そいつには血を好む傾向もあるのかもしれない。危険な愉快犯だ。こんな調子で人殺しを続けられたら溜まったものではない。
事件は既にネット上でも話題になっており、掲示板等では犯人になりすまして犯行予告を書き込んだ馬鹿もいる。本当に迷惑な話だ。どこかの小学校にも謎の犯行声明が送りつけられ、集団下校することになったとか。結局怪しい人物は現れず、3日後犯行声明を出した高校生が逮捕された。
「よし、じゃあ引き続き捜査を。近隣住民への聞き込み、忘れるな」
聞き込みに行く直前、俺はあるものをポケットから取り出した。ネット通販で買ったICレコーダーだ。
先日、あの男から電話が着た。同窓会の事件をいとも簡単に解決した、幡ヶ谷康介からだ。
彼は推理小説マニアで、自分でも様々な事件を解決したいと思っている。だが、小説のように一般人が警察の捜査に協力することは出来ない。そこで彼が考えたのがこの方法。俺に現場や凶器等事件に関係ありそうな写真を撮らせ、さらに関係者の証言を録音させるのだ。録音させるのは、貴重な証言に警察の先入観が入ってしまわないようにするためだそうだ。なるほど、確かに俺ならやりかねない。
しかしこれは重大な規則違反だ。簡単にあの男の言いなりになってはならない。初めの内はヤツの言うことは聞かなかった。すると、予想通りヤツから催促の電話やメールが来た。ニュースで事件を見知ったのだ。
『何をしている? 早く僕のところに来い』
吸血鬼が巻き起こす怪事件。ミステリーマニアの彼にとってこれほど魅力的な事件はまたとない。だが、俺はヤツの要求を退けた。
「何度も言ってるだろ? 一般人を捜査に巻き込めないんだよ」
『そんなことを言っていて良いのか? 犯人を無駄に泳がせて、また新たな犠牲者が出るかもしれないんだぞ?』
時に幡ヶ谷はこうやって俺を脅して来た。しかし、これよりも品の悪い脅しを俺は何度も耳にしている。軽くあしらって無視し続けた。
その結果、幡ヶ谷の言った通りになってしまった。事件は更に深刻化し、第2、第3の被害者が出てしまったのだ。
2件目が起きた頃も、俺は意地でもヤツの誘いには乗らなかった。しかし3件目が起きた時には、いよいよ俺達の方法では対処しきれないと気づいた。警察をあざ笑うように犯行を重ねる犯人。そして警察の捜査を批判するメディア。このままでは、俺達はまともに捜査が出来なくなる。
ちょうどそのとき、幡ヶ谷からまた電話がきた。
『そろそろ動くべきではないのか?』
「しかし……」
『相手は非常識な存在だ。非常識な相手には非常識で対応するのも、得策なのではないかな?』
きっと、ヤツならまた鮮やかに事件を解決してくれるだろう。迷った末、俺はアイツの要求の飲んだ。
必ず事件解決に繫がる。そう信じて、俺はレコーダーのスイッチを入れた。
まず最初に向かったのは隣室、1032号室。いかにもセレブといった出で立ちのご夫人が出て来た。
「昨夜隣の部屋で殺人事件が発生しました。物音とか悲鳴とか、聞いてませんか?」
「殺人? あら嫌だ。ごめんなさい、残念だけど、ここは防音効果のある壁を使ってるの。だから音は聞こえなかったわ」
住民への聞き込みだけでは犯人を特定出来ない。あとは監視カメラか。
管理人室へ聞き込みに行った者達がやって来た。残念ながら、カメラをいじられていて犯人の姿が映っていなかったそうだ。
「先輩、どうします?」
一緒に聞き込みをした後輩、日下部が尋ねてきた。
「そうだな、本部の連絡を待つか」
今の俺の心は、他の捜査よりも、これから規律を破ることの不安感で満たされていた。
撮影した写真とICレコーダーを持って、俺は都内のマンションに足を運んだ。昨日は帰宅した後もずっと悩んでいたが、結局幡ヶ谷にメールを入れた。送信してからものの数分でメールが返って来た。内容は彼の住所。調べてみると、最近建ったばかりのマンションらしい。ちゃんと金は稼いでいるようだ。どんな仕事をしているのだろう。
入口から中に入って最初に目についたのは、オートロック式の自動ドア。左側の装置についたボタンを押して住人に頼んで開けてもらうのだ。
彼の部屋番号、503を押す。するとすぐに部屋と繋がった。
「俺だ、瀬川だ」
『待っていた。鍵は開けてある。インターホンは押すなよ』
その後、自動ドアが開いた。次はエレベーターに乗って5階に向かう。ここには階段が無い。この箱に乗らなければ上には行けないのだ。箱に入ってボタンを押し、目的の階に着くまで俺はずっと目を瞑っていた。
箱が5階につき、扉が開いた。エレベーターホールから通路が分かれており、503号室は右手の通路を進んだ先にある。外からの熱が体力を更に奪う。早く幡ヶ谷の部屋に入らなければ。熱で脳がイカレて、俺も犯罪を起こしてしまいそうだ。
部屋の前に立ち、インターホンのボタンに指を置く。そこではっとした。押すなと言われていた。鍵は開いているからそのまま開けて入れと。取っ手に手をかけてゆっくりと扉を引く。良かった、冷房が効いている。
「入るぞ」
返事は無い。
靴を雑に脱いで部屋にあがる。リビングへ続く戸は開けたまま。奥へ進むと、そこには真っ白な世界が広がっていた。テーブル、椅子、本棚。家具は白で統一されている。窓から差し込む日差しがその白に反射して眩しかった。
「もっと早く決断するべきだったな」
背後から声が。振り向くと、コーヒーカップと普通のグラスを持った幡ヶ谷が立っていた。何となく、グラスの方を渡されるなと感じた。
「暑かったろう。飲むと良い。脱水症状が始まっているかもしれない」
俺を椅子に座らせ、グラスを差し出した。ほら、やっぱりこっちだ。中身は水。しかし冷えていて美味しい。キッチンを見るとそこには浄水器が。あそこから汲んだ水か。妙な臭みが無い。
幡ヶ谷も向かい側の席に腰掛け、カップの中の液体を飲んだ。
「いつも鍵はかけないのか?」
「下に客が来たら開けるんだ。インターホンの音は嫌いでね。僕を急かしているように感じる」
彼の感覚は自分達のそれとは若干異なっているようだ。連載を持った作家なら、もしかしたら同じような感情を抱くかもしれない。
「それで、あれは?」
「あれ?」
「何のためにここに来たんだ瀬川? 昇進のためにここに来たのだろう?」
「ああ、そうか。……いや、別に昇進は狙ってない。ただ、直感が」
そう言うと幡ヶ谷は笑った。カップをテーブルの隅にやった。早く寄越せということか。自分も急かしているではないか。
「インターホンも家主に似るんだな。ほら」
「何を言っているのかわからないな。どうも」
俺が撮った写真1枚1枚を眉間に皺を寄せて観察する。気に入らない撮り方だったのか。だったらはじめに言えば良かったのに。
特に感想もなく、次はレコーダーに手を出した。これに関しては一層厳しい顔つきになった。
「何だこれは」
「証言だよ」
「これっぽっちの証言でどうしろと言うんだ?」
「確かに少ないけどさ、そのご夫人が言っているように現場は防音設備の施された部屋なんだ。音なんて聞こえないよ」
「下の住人は」
しまった、聞いていない。これ以上聞いても何も出てこないと勝手に判断してしまったのだ。嘘を言っても気づかれると思い、正直に言った。幡ヶ谷は頭を押さえた。
「何のために君と親友になったと思っているんだ?」
彼の中では、俺は親友という位置づけらしい。だがこの言い方からすると【親友】の定義を間違えている。
「いくら防音でも叩いたり踏んだりすれば音は響く。だが、横は何も聞いていないんだな」
「ああ」
「そうか。家に入って来ても怪しまれず、静かに犯行を行える人物か」
ここまで来れば人物は絞れてくる。被害者の知り合い、マンションの管理人など。だが他の2件とも繋がりがあるかと聞かれると弱い。
「犯行も音が立たないよう静かに行える犯人。首筋には穴。犯人は吸血鬼だったりしてな」
「違うな。殺し方なら色々考えられる」
真顔で否定されてしまった。コイツには冗談が通じない。
「だが写真から判断するに、多分アレだろうな」
「アレ?」
幡ヶ谷はカップに水を入れてから、その方法を話しだした。
静脈に水を注入すると、血は溶血状態になり、止まらなくなってしまうのだそうだ。包帯なんかで止めても絶えず出て来るとか。まったく、よく水を飲みながらそんな話が出来るものだ。
被害者は体を縛られていた。確かにそれならあまり音を立てずにすむ。首についていた傷は注射の跡を隠すためのカムフラージュか。それにしても手の込んだ犯行だ。それほどまでに被害者達を恨んでいたのか、または殺人が楽しいのか。
「他に情報は無いのか?」
「ああ、そうだなぁ、カメラの位置がズレてたことかな」
「死角を作っているのか。前日からターゲットを選んでいたのだろうな」
「他に手がかりがあれば良いんだけどな。何しろ毛髪、皮膚片も見つからなかったからな」
犯人は相当用意周到な人物だ。証拠を何1つ残さない。先日は事件の概要、犯人のトリックをすぐに導き出した幡ヶ谷だが、流石の彼も今回はすぐにはわからなかった。
「やはりこれだけでは足りないな。被害者の共通点は探れないか?」
「本部が今やってるよ」
「君はやらないのか」
「え?」
「警察全体の功績に繋がるんだ、君もやったらどうだ?」
確かに、誰かが解くのを待っていたら犯人逮捕は遠のいてしまう。
次にやることは決まった。持って来た資料は全て幡ヶ谷に預けて帰ることにした。帰りは幡ヶ谷が玄関まで見送りに来てくれた。
「じゃあ頼んだよ」
「ああ。お前はどうするんだ?」
「そうだな、僕なりに色々調べてみるよ」
「わかった。じゃあな」
こうして、俺達は一旦別れた。
庁舎に戻った俺は、まず過去の事件について調べてみた。
最初の被害者は西田祥夫、29歳。都内のマンションに住んでいた。出版社に勤めていたようだ。結婚はしていない。次の被害者は木下誠二、34歳。以前は暴走族のメンバーだった。彼は既婚者だったが、ろくに仕事もせず、妻とも上手く行かなかったようで、結婚の3ヶ月後に離婚している。殺されたのはその後だ。近隣住民とのトラブルも絶えなかったようである。
接点は全員男性で、マンションに住んでいたということだけか。皆身動きが取れない状態だったらしいが、椅子に縛られた西田、野本とは違い、2人目の木下だけはベッドに括り付けられていたそうだ。力のある彼なら紐で椅子に縛っても大暴れするかもしれない。だから、ベッドに四肢と胴体を括ったのだろう。その他に気になることは書かれていなかった。
「行ってみるか」
現場百遍とはよく言ったものだ。実際に見たほうが、何か新しいものが見つかるかもしれない。資料から得た情報だけで判断するのは危険だ。
まずは1人目が住んでいたマンション。ここも最新設備がなされている。管理人によればここのカメラも死角が生まれるように少しだけずらしてあったという。
「あの、西田さんはどんな人物でしたか?」
「いい人でしたよ。誰に対しても優しいし、挨拶もかかさなかったからね」
木下とは真逆の人間だ。
「あの、部屋を見ていってもいいですか?」
「ええ。でも不思議だね、さっきも刑事さんが来たんですよ」
「刑事?」
背中に悪寒が走った。きっとアイツだ。俺の直感がそう言っていた。そうまでして事件を解決したいのか。見つかったらどうするつもりなのだろう。また俺の名を出すんじゃないだろうな?
彼が見たのならもう調べる必要は無いか。ふと違う方向に目をやると、壁に取り付けられた掲示板が視界に入った。ゴミ出しやエレベーター点検の報告、何でも屋のチラシ、今後のスケジュール。それだけだ。
「すいません、ありがとうございました」
「いえいえ」
車で来て良かった。急いで次のマンションに行けばヤツを見つけられるかもしれない。
制限速度を守りつつ、スピードをあげて次の現場へ。そのマンションは1件目の現場からそう遠くない所にある。
マンションに近づくと、やはり幡ヶ谷がいた。窓を開けて呼びかける。
「おい!」
向こうも気づいたようで、こちらをじっと見つめている。すぐ近くに車を停めて歩み寄った。
「お前、あのマンションに行っただろ」
「あのマンション? ……ほう、君もちゃんと仕事をしてくれているみたいだな」
「ふざけるな! 見つかったらどうするつもりだったんだ?」
「何だ、僕を心配してくれたのか」
「違う。どうせまた俺の名前を出すつもりだったんだろう? なあ、勘弁してくれよ!」
幡ヶ谷は反省するそぶりを見せない。駄目だ、このままコイツと付き合っていたら、昇進どころかクビになってしまうかもしれない。
マンションの奥を見る。すると、ある物が目に飛び込んで来た。俺は吸い寄せられるかのようにそれに近づいた。
何でも屋のチラシ。青と黄色のひときわ目立つチラシだったから記憶の片隅に残っていたのだ。
「君も気づいたか」
いつの間にか、ヤツが背後に立っていた。
「誰にも怪しまれずに、犯行の準備が出来る人間って」
「突いてみたらどうだ、こんな風に」
と、幡ヶ谷が何かで俺の手を突いた。先日もやられた。いったい何を使っているのかと彼の手を見ると、指の隙間に光る物が。裁縫で使われる針だった。こんな物で俺を。しかめっ面をする俺を見て幡ヶ谷は笑みを浮かべた。
「気にするな。犯人も今の僕と同じような思いでこんなことをしているのだろうが、あっちは本当に他人を殺す。それに比べたらまだ可愛い方だろ」
「それはそうだが」
「さあ、行ってみよう。犯人がいるかもしれない」
「了解。乗って行くか?」
「そうさせてもらおう」
俺が聞き終わる前にこう答えた。ロックをかけるのを忘れていたらしい。幡ヶ谷は俺より先にドアを開けて中に入った。俺も急いで車に乗り込んだ。
「あ、場所どこだったかなぁ」
と、もう1度チラシを見に行こうとすると、隣から手が伸びてきた。その手には1枚の紙切れが。メモ帳の1ページを千切った物だ。そこに住所と電話番号が書かれていた。流石幡ヶ谷、清掃業者に目をつけた時点でメモをとっていた。
住所をカーナビに打ち込んで、再び車を走らせた。