#2
出来れば言いたくなかった。
相次ぐ警察の不祥事。父親は誇らしい仕事だと言っていたが、俺はそうは思わなかった。しかし警察に対して好印象を持っていなかった俺が、まさか警視庁に勤務することになるとは夢にも思わなかった。
県警が到着したのは1時間後のことだった。俺はそこの担当者を見つけて挨拶しに行った。何か協力出来ることがあるかもしれない。手帳を見せると刑事は深々と頭を下げた。
「佐藤です。第1発見者は、ここにいる全員といったところですか」
「ええ」
「あなたも含めて」
「まあ、そうですね」
事故か事件か。
鑑識の調べによると男性のコップからヒ素が検出された。これで事件だということが明らかになった。受け入れ難いことだ。会場内にいた者達、すなわちクラスメートの中に犯人がいる可能性が高いというわけだ。
司法解剖のため2人の遺体が運ばれる。そのとき、西野が県警の1人に飛びかかった。
「おい! どこに連れていく気だ! 朱里を返せ!」
「西野! 犯人特定のためなんだ」
「警察だか何だか知らないが」
今度は俺の方に歩み寄って来た。
「お前に、お前に何がわかるんだよおっ!」
俺を殴ろうとする西野。間一髪、神田と笹井がそれを止めてくれた。2人に止められると、今度はその場に泣き崩れた。その隙に2遺体が外へ運びだされた。
「西野……」
「無理ないよ瀬川」
「え?」
「宇崎の相手、西野なんだよ」
なるほど。こんな状況で不謹慎だが、俺は負けを悟った。確かに西野は誠実で頭も良い。短気な俺とは大違いだ。見た目も彼の方が出来が良い。
視線を西野から別の方へ移すと、先生が頭を抱えているのが見えた。同窓会で教え子が2人も亡くなったのだ、気持ちはわかる。また別の場所では近藤が事情聴取を受けていた。彼が先ほど立ち去ろうとしていたのを誰かが警察に伝えたのだろう。近藤も逃げられないと悟ったのか、俯いて、冷静に聴取を受けている。
しかし、ここで疑問がひとつ。もう1人の犠牲者……フルネームは森弘樹という……が狙われた理由だ。彼は別に朱里とも西野とも深い関係は無かったはずだ。
「どうした?」
「いや、別に。お前ら、食べ物に口つけるなよ」
「わかってるよ」
2人から離れて朱里が倒れた場所に向かった。まだ泡が少し残っている。その近くでは彼女の友人が泣いていた。何か声をかけようかと思ったが、やっぱりやめた。もう1度現場に視線を移す。何かが気になる。何かが足りない気がする。しかしその答えはすぐにはわからず、次は森弘樹の亡くなった場所に行こうとした。腰を上げて振り返ろうとした、そのとき。
「刑事なんだってな」
あの、目つきの悪い男だった。
ズボンのポケットに手を突っ込んで男が笑みを見せる。何だか気持ち悪かった。
「ああ、まあね」
「素晴らしい」
「どこが?」
「君が刑事だということが、だ」
心を見透かされているようだ。今にも怪しい術を唱えてたちまち事件を解決してしまうのではないか。どこか普通ではない。そんな印象の男だった。
「刑事は犯人と被害者の次に事件に近い存在だ。そんな素晴らしい職に就いていながら何故喜ばない?」
「はあ?」
「毎日つまらないだろう。さっきも笑顔が汚かった。見ていて不快だった」
「お前に言われたくないよ」
「ふふふ、すまない。あのときは君に嫌悪感を抱いていたからな。まさかこの僕のことを忘れているとは」
そうだった。事件のためにすっかり忘れていた。やはり気にしていたようだ。なら、部活か係で一緒だったのか? 謝ってからもう1度彼の名を聞くことにした。
「さっきは済まない、俺も馬鹿でさ。で、名前は?」
「それよりまずは事件だろ」
「え?」
そういうと男は急に真顔になり、現場を物色し始めた。いきなり何をやっているのだ。県警に見つかったら大変だ。すぐにやめさせようと彼の腕を掴んだが、彼は何やら尖った物で俺の手をつついてきた。
「痛っ! 何しやがる!」
そして何事も無かったかのように、引き続き物色した。テーブルの下、泣き崩れる友人の近く、会場の隅っこ。とにかく半径2メートル以内の全ての場所を探っていた。そんなことをしていれば必ず県警に見つかる。佐藤が近づいて注意しているが、アイツは全く気にせず作業を続けている。無視してもまだ佐藤が注意するので、ヤツは何故か俺の方を指差して何かを伝えた。嫌な予感がする。話を聞いた佐藤がすたすたとこちらに向かって来た。
「困りますね」
「な、何がでしょう」
「わかるでしょう? 彼はあなたにとって大親友かもしれませんが、現場をいじられちゃ困るんですよね!」
「大親友?」
「我々からすれば彼等は部外者なんです。そりゃあ現場に居合わせた人物ですからその証言は重要ですが、何もあそこまでしてもらわなくても良いんですよ!」
「はい、あの、すいません。注意します」
愚痴を言いながら佐藤が立ち去る。俺はすぐさまアイツに駆け寄り、首根っこを掴んで無理矢理立たせた。
「おい、触るな」
「お前……お前あの人に何言ったんだよ」
「事実を言ったまでだ。僕と君は友人で、君が刑事だと聞いたから、事件を解決するのを僕が手伝ってあげている、とね」
「頼んでない! なんでお前が事件を解決するんだよ、シャーロックホームズじゃあるまいし」
「君も何か引っかかるんだろう?」
話題を変えてきた。
確かに自分も何かが気になっていたので、掴んでいた手を離して彼の話を聞くことにした。
「この会場を見て、あの現場を見て、何か足りない物が1つあるはずだ」
「足りないもの?」
「わかるだろう? さあ、何だ?」
男に促されて再度現場を見る。泡の跡、朱里が持っていたであろう割れた小皿、テーブルに置かれたグラス。……駄目だ、やはりわからない。考えれば考えるほどわからなくなる。イライラして腿を拳で叩いていると、ヤツが後ろから
「そこを叩いても何も出ないぞ」
と俺を挑発した。危うくその拳がヤツの顔面に行くところだったが、どうにか気を落ち着かせて再び腿に戻した。
「全く、これが警察のレベルなのか? 小説やドラマに出て来る様な天才は実在しないのか?」
独り言を聞いていてわかった。どうやらコイツはオタクだったようだ。刑事ドラマや推理小説が大好きで、今の彼はそれらの作品の主人公になりきっているのだろう。
朱里のこともあったので俺はますますイライラした。思っていた人が亡くなったこの事件を、遊びのように思ってもらっては困る。それは朱里にも、その婚約者の西野にも、勿論森弘樹にも失礼だ。
「なあ、遊びなら早く部屋から出て行ってくれないか」
「仕方ない、答えを教えてやろう」
話を聞いていない。無視して歩き出すと、ヤツはそれを遮るように目の前にある物を出してみせた。その手を払おうとしたが、彼が持っている物を見た途端、俺の中で引っかかっていたものが外れたような気がした。
「八つ橋!」
用意された料理、食器の他にもう1つ別の物があった。八つ橋のパックだ。俺もそれを食べ、そのゴミ屑をまだポケットの中に入れたままだ。鑑識の調べでは、朱里はポケットの中に何も入れていなかった。即効性の毒ならパックを仕舞う余地も無い。ならテーブルの近くに落ちているはずだが、コイツの調べではどこにも落ちていなかった。
「森弘樹君の死因がワインに混入されたヒ素だったから、ここに用意されていた物に毒が仕込まれていたのだと思ったのだろう。あのときは皆がパニック状態だったからな。鑑識に聞いてみるといい、彼女のテーブルに置かれていた物の中に毒はあったか、と」
「お前、凄いな」
「いや、君が気づいていなかっただけだ。刑事だったらわかるだろう」
「ちっ。でも、だとすると犯人は」
俺達は同じ方向を向いた。衣笠昭夫が泣きながら聴取を受けている。
先生が犯人? しかし森は? それと怪しい動きをとっていた近藤はどうなる? そもそも先生に殺害の動機があるとは思えない。また、先生は八つ橋を袋に入れて、更に自分でも何が出るかわからないようにして生徒達に配っていたのだ。その状況で朱里に毒入り八つ橋を確実に渡すのは至難の業だ。
困惑する俺を見て隣の男はニヤニヤしている。彼にはこの事件の全体図が見えているのだろうか。
「どうせ君は今、その他の人物のことを考えていたんだろう?」
その通りだ。
「安心しろ。証拠が見つかれば全て解決だ」
「何?」
「強いて言うなら、僕はこの事件の動機をずっと前から知っていたことになるかもしれないな」
またよくわからない発言だ。
と、男は俺の方を向いて言った。
「知りたいか?」
勿論知りたい。犯人を追いつめてやりたい。男の問いに強く頷いた。男は満足げに笑みを浮かべ、自身が考えている事件の概要を語った。なるほど、聞けば確かに簡単なことだ。あとはそれを裏付ける証拠を見つけるだけだ。
だが、確かに事件の概要、犯行の手口は教えてくれたが、この事件が起きた原因は教えてくれなかった。話してくれと頼むと、
「今は駄目だ」
と断った。
「まずは犯人を追いつめてからにしよう。答えは動機を最もよく知る人物に聞く他無い。君は僕が言った通りにことを運んでくれ」
「わかった。約束だからな」
事件の幕を下ろそう。
俺と男が、足並みを揃えて歩き出す。悲しみから抜け出せない者、自分達の話題で盛り上がっている者、俺たちのことを見つめている者。色んな人物の姿が視界に飛び込んで来る。神田と笹井も、俺の隣にいる男を指差して何か言っている。近藤は既に自供したのか、会場内にはもういなかった。
向かって来る俺達2人の気迫に、県警の男達も自然と後退った。そして、彼等に囲まれていた衣笠はキョトンと俺達を見つめている。
「な、何だね?」
「挨拶が遅れて、申し訳ございません」
男が挨拶すると衣笠は目を見開き、頭を2、3度軽く縦に振った。コイツが同窓生だというのは確かなようだ。
「早速ですが先生、事件の話をさせてください」
今度は俺が話しかけた。
「いったい何を話すというんだね?」
「言い辛いことですが、先生」
緊張して口がうまく動かない。固まっていると隣から男が指でつついてきた。
「あの、せ、先生は、宇崎朱里さんを殺しましたね?」
しまった、声が大きくなってしまった。全員が俺に注目する。特に衣笠を崇拝している女生徒達は敵意の目を向けている。ここで怯んでは駄目だ。俺は真相が知りたいんだ。
「あなたは宇崎さんに、意図的に毒入りの八つ橋を渡したんです」
「意図的に? ふふふふ、やめないか瀬川君。君は私を虐めたいのか」
「事実を言っているんです」
突然こんなことを言うものだから刑事達も困惑している。彼等は彼等なりに推理していたのだろう。例えば近藤が、集合写真を撮るときに朱里の飲食物にヒ素を盛った、とか。だが事実は違ったのだ。では、まずは証拠を見せてもらうとしよう。
「先生、先生が八つ橋を入れていた袋を出していただけますか?」
「袋? ……ああ、すまないな、あれはさっき捨ててしまって」
「そんな暇は無かったはずです」
会場内にはゴミ箱が無い。それに事件が起きたのは八つ橋を配っている途中、或いは配り終えた直後。捨てる時間なんてなかったのだ。
昭夫は黙って自分の鞄を床に放った。俯く老紳士にひと言断ってから、鞄を開けて中の物を取り出す。途中で着替えたのか、湿ったワイシャツ、携帯、文庫本が2冊、眼鏡ケース、そして、その下に埋もれるように、ビニール袋と開けた八つ橋のパックが1つずつ。それらが姿を現すと佐藤達も驚いた。自分もびっくりしている。隣の男の言った通りだったのだから。
ビニール袋を調べてみると、確かにヤツが言った通り特殊な細工が施してあった。思わず後ろを向くと、彼は笑って手を動かした。早く続けろ、ということか。
興味を示している佐藤達に向けて、袋の中身を見せた。外から見えないよう、中で2つの空間に分かれていた。
「よく、手品の本に書いてあるヤツですね。中にもう1つビニールを貼付けて、他人に思い通りのものを引かせることが出来る」
これは先程ヤツから聞いたマジックだ。手品ではトランプなんかを入れて相手に引かせ、さも予言が当たったかのように芝居をするのだそうだ。その際は他人からもカードが複数枚入っているように見せるため、透明な袋が用いられるらしい。
しかし今回は手品を披露することではなく朱里の殺害が目的だった。だからどんな袋でも構わなかった。このトリックを用いたのは自分が識別出来るようにするためである。他人に引かせると手が当たったときの肌触りで気づかれてしまうと考えたのだろう。
衣笠は否定しない。概ね推理が当たっているのだろう。鞄からは八つ橋のパックも出て来ている。朱里の指紋が検出されればもう逃げられない。あの女生徒達も今は俺を敵視していない。
「だとしても、あの近藤祐介という男は? 先程ヒ素を混入したことを認めたんですよ?」
「おそらく、彼は彼で別の人間を殺そうとしていたんだと思います。そのターゲットは……」
俺は、ある人物の方を向いた。彼もキョトンとしていた。泣いていたため、目や鼻は赤くなっている。
「西野」
「ぼ、僕が? どうして!」
「宇崎の婚約者だったんだよな」
「あ、ああ、そうだ」
「それを、近藤が疎ましく思っていたとしたら?」
確かあのとき、近藤は朱里に「諦めない」と宣言していた。西野と婚約したことを知り、それを阻止しようとしていたのだろう。そして、集合写真を撮る際に西野が使っていたグラスにヒ素を入れた……筈だった。このとき、近藤はグラスを間違えたのだ。西野のグラスに入れた筈が、誤って隣の森弘樹のグラスに入れてしまったのだ。これが、朱里とは無関係の森が殺害された理由だ。
これで事件の構造は明らかになった。あとは動機だ。それだけは全くわからない。
「何故、何故こんな事件を起こしたんですか? いかなる理由があろうと、殺さなくても良かったんじゃないですか?」
「急かすなよ瀬川」
と、ヤツは俺の肩に手を置いた。
「早くしろ」
男は先生の前に立つと、彼の秘密を語り始めた。
「先生。僕も殺しておくべきでしたね。ああ、知りませんでしたか」
衣笠は何も言わない。男は答えを待たずに話を続けた。
「まだ学生だった頃、僕は宇崎さんから相談を受けていました」
そのことは予想外だったが、俺のことも気にかけてくれていた朱里のことだ、コイツと接触していても何ら不思議は無い。
「何でも、彼女は西野君以外の人物からアプローチを受けていたそうなのです。その人は紳士的で、女子達の憧れの的だったそうです。しかし、ただ1つ問題があった」
俺は男を見た。西野も、他のクラスメートもきっとそうだろう。
「それは、年齢」
衣笠はとうとう顔を赤らめて下を向いた。この様子、自分が想像していることは正しいようだ。そして、コイツが言っていることも。
「さすがに自分の親とあまり歳の変わらない人と付き合うというのは気が引ける。それでも良いという人も世の中にはいますが」
「そんな……」
朱里の婚約を疎ましく思っていたのは近藤だけではなかった。もう1人いたのだ。その人物の怒りの矛先は、婚約者ではなく朱里の方に向いていたようだ。
「でも、それは他人だったかもしれないだろ? 何で先生だとわかるんだ?」
「宇崎さんに先生が駆け寄ったとき、彼女のことを何て呼びました?」
「え?」
「朱里君」
答えたのは西野だった。
そうだ、俺や他の生徒のことは名字で呼んでいたが、あのときは違った。衣笠は宇崎朱里を、下の名で呼んだのだ。
「そう、つまり」
「もういい」
衣笠が止めた。その目には涙を浮かべている。
「君の言う通りだ。私は教え子に、他の生徒以上の思いを抱いていた」
「先生」
「しばらくは交際も続けていたんだ」
彼のアプローチは成功していたのか。西野は聞きたくないというように後ろを向いた。
「しかし、あるときから私を避けるようになった。君に好意を持っていたからかな、西野君」
「衣笠さん」
佐藤が話を遮った。
「詳しい話は、場所を変えて」
昭夫は静かに頷き、ゆっくりと立ち上がった。
佐藤の後ろについて歩く。少しずつ、俺との距離が縮まってゆく。隣まで来たとき、先生は確かにこう言った。
「これも、運命かな」
事件は解決した。だが、あまりすっきりしなかった。知らない方が良かったかもしれない。同窓会は暫く行われないだろう。
俺が出席しなければ。俺がアイツと会っていなければ、少しはマシだっただろうか。いや、どの道2人は死ぬことになっていた。どうするのが正解だったのだろう。
「悩んでいるな」
背後にヤツが立っていた。
「僕があのとき、もう少し違うアドバイスをしていたら、何か変わっていたのかもしれないな」
「え?」
「言っただろう、彼女から相談を受けていたと」
衣笠のアプローチが成功した背景には、この男のアドバイスも関係していたらしい。彼は朱里に、自分の信じた道を行けば良いという、良くありがちな助言をしたそうだ。彼女はその言葉を受けて教師の誘いに乗った。確か朱里も衣笠のことを尊敬していた筈だ。
先程衣笠の話を俯いて聞いていたのも、朱里に誤った助言をしてしまったという後悔の念があったからなのかもしれない。
「それはそうと」
と、ヤツは話題を変えた。
「君も刑事なのだろう? もっと現場に、証拠に目を向けることだ」
「うるさい。……ところで、なんで俺の名前がわかったんだ? 同窓会に出席したのは今回が初めてだし、間違ってたら悪いけど、学生の頃は面識無かったろ」
俺の問いに、男は少し間を空けて答えた。出来れば空けないでもらいたい。怒っているのではないかとハラハラしてしまう。
「場を観察すればわかることだ」
この口調からは怒っているようには感じられない。
彼は、会場内に見慣れない人物が入って来たため俺をマークしていたらしい。名前は神崎と笹井の会話を聞いて知ったそうだ。神崎の声はよく通る。あの距離でも充分聞き取れただろう。
結局、彼も俺のことは知らなかったというわけだ。
「そうだ。携帯を貸せ」
「なんで」
「ここであったのも何かの縁だ。連絡先ぐらい交換しても構わないだろう?」
拒否する理由は無い。今回はむしろ彼に助けてもらった。俺はすぐに携帯をだし、赤外線で送受信を行った。
「ありがとう。じゃ、次も宜しくな」
「次?」
「ようやく刑事の知り合いが出来たんだ。君について行けば必ず新たな事件に遭遇する」
「お前、そのために?」
「当然だ。ああ、部外者は立ち入り禁止だとかケチなことを言うなよ。僕が解いて、その事件に携わっていれば君はますます昇進出来るじゃないか」
推理小説の読み過ぎだ。そんなこと、実際に出来るわけがない。彼のことを無視していると、
「だったら、これからメールに書く物を持って来い。必ず」
「はいはい、出来たら持って行ってやるよ」
当然持っていくつもりは無い。何を要求してくるかはわからないが絶対にありえない。
時刻は既に午後6時。まだ空が明るい。そして蒸し暑い。
そういえばまだ彼の名を聞いていなかった。
「あのさ」
そこにはもういなかった。別の道で帰ってしまったらしい。
そうだ、連絡先を交換したのだから、そこに名前も書いてある筈だ。早速アドレス帳を開き、1人ずつ調べてみる。どうせ登録してある数は少ない。すぐに見つかる。ずっと下へスクロールさせてゆくと、ハ行のところに見たことの無い名があった。これがヤツの名前だろう。
「……幡ヶ谷、康介」
帰宅後。
今日は色々と疲れた。同窓会で懐かしの友と再会したのは良かったが、初恋の相手が婚約していて、しかも会場で毒殺されるなどと誰が想像出来ただろう。おまけに犯人が担任教師で、嘗て生徒と愛し合っていた? こんな小説や2時間ドラマのような事態が現実に起きるとは夢にも思わなかった。この世界がおかしくなっているのか、それとも俺がこの世界に適応出来ていないだけなのか。多分このままこの仕事を続けて行けば、更に多くの信じ難い事件を目の当たりにすることになるのだろう。
それと、もう1つ。
あの男、幡ヶ谷康介という男だ。一応卒業生だったことは間違いないようだが、記憶を辿ってみても学生時代にアイツと絡んだ覚えが何1つ無い。
それならばと、俺は箪笥を物色して高校時代のアルバムを取り出した。流石にこれを見れば少しは何か思い出せるだろう、と思っていたのだが、これが上手くいかなかった。アイツが写っていたのはクラスの集合写真と生徒の顔写真のページだけ。それ以外は悉く写っていなかった。代わりに見つけたのは、騎馬戦で相手を蹴散らす俺、合宿で飯を頬張る俺、文化祭でふざける俺と神崎等。あの頃は本当に馬鹿ばっかりやっていた。思い返すと笑いがこみ上げて来る。
と、俺が思い出に浸っていると、突然携帯が振動を始めた。画面にはあの男、幡ヶ谷康介の名が。
「何だ?」
『繫がったな、これで連絡はひとまず取れるというわけだ』
「確認のために連絡して来たのか? お前、本気で考えてるんじゃないよな? 俺がお前に捜査協力を依頼するって」
『こちらは至って本気だ。さっき言った通り、宜しく頼むぞ』
「は? 何がだ?」
『メールを見ていないのか?』
忘れていた、帰りがけ、コイツは俺にメールを送ると言っていたのだ。
『見ていないようだな』
「悪かったな。俺も忙しいんでな」
『僕に嘘は通じない』
何だか頭に来る言い方だが、箪笥の中の物を床に広げて、その中心であぐらをかいて座っている俺を見れば、誰だって俺が忙しくないということがよくわかるだろう。悔しくて何も言い返せなかった。
『じゃあ今伝える。事件が起きた場合、君には現場、遺体、遺留品等を全て写真に収めてもらう』
「は?」
『それから聞き込みの際はレコーダーで録音してくれ。君を介して得た証言等あてにならない。そして捜査資料も……』
「待て。それじゃあ何だ、お前も捜査するってことか?」
俺が尋ねると、相手はただひと言「そうだ」とだけ言った。それも淡々と。
「冗談じゃねぇ! 一般人が捜査協力していいわけがねぇだろ!」
『いや、君達は必ず、僕の力を借りることになる。一般市民の知恵が、警察や政府の力を上回ることだってある』
駄目だ、常人じゃない。
小説の読み過ぎだ。一般人が捜査したり犯人を見つけたりするのはあくまで空想上の話だ。実際に出来るわけがない。それに捜査資料を持ち出したり、情報を提供したりすれば、俺の首が飛ぶことになる。情報を市民に提供することは固く禁じられているのだ。
そんな夢の様な話が実現すると、コイツは本気で思っている。これは夢なのか? 何で今日1日でこんなおかしいことばかり起きるのだろう。
『じゃ、また会おう。住所はアドレスに入っている筈だ』
兎に角その要求は聞き入れられない。言い返そうとしたが、その前に幡ヶ谷の方から電話を切ってしまった。
面倒な人物に目をつけられた。だが、こちらが相手にしなければ良いだけのことだ。これまで通り、普通に刑事の職務を全うすれば良い。
初めはそう考えていた。だが、俺はそうすることが出来なかった。今日の出会いから、俺の人生は大きく変質してゆくことになるのだった。